tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

遠野まつり 神々の集結

2011-09-23 06:55:46 | 遠野(岩手)

 
 

遠野八幡宮の例大祭。遠野しし踊り、田植踊り、さんさ踊り、神楽が踊られ、神輿が繰り出す。
寛永4年、八戸より転封された南部直栄が祗園囃子をまねて道芸師に作らせたのが、「南部ばやし」という。また、八幡宮境内の馬場ではやぶさめが奉納される。
遠野八幡宮の御祭神は、誉田別尊 (衆生を導済)、大国主神(福神。縁結、商売繁盛、家運隆盛及夫婦和合等主る)、事代主神 (海上安全、大漁の守護神)、少彦名神( 病気平癒)、御年神 (五穀の守護神)ら、フルスタッフ。

附馬牛の宿の新山神社の祭礼で、遠野の八幡様の神楽を出張巡業。

その夜、八幡の権現は土地の山本某という家に一泊。実は、その山本某も附馬牛の神楽舞いの家だったので、奥の床の問の家つきの権現の脇に並べて休ませた。

夜更けになって、家の権現とその八幡とが、上になり下になって咬み合い大ゲンカ。

八幡の権現は片耳を喰い切られて敗北。なので、八幡の獅子頭には片耳がないという。
-『遠野物語拾遺 第58話』より-
 
八幡の権現は、喧嘩早いが、強くはなかったようだ・・・。

ある地に祀られていた権現様の耳の片方を食いちぎった伝承があるのは、われらが中沢の荒神様も同じ。"喧嘩早い"荒神様である事は確かだ。


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遠野まつり 「神々への祈り―復興への願い―」

2011-09-22 22:47:15 | 遠野(岩手)

 

震災から半年。
被災し、家族を亡くした方、家を失った方のことを思うと心が痛む。

津波の被害が大きかった釜石から参加した桜舞太鼓。天も感涙したのか、本降りの雨。
だが、彼らは負けない。きっと、天にも太鼓の響きが届いたはず。
掛け声、声援、大きな拍手が鳴りやまない。
「来年も来いよー!!!」
・・・もう来年も遠野へ来るしかないっすね。。

被災地の人々は、立ち上がってきた。
先の見えない不安の中で互いを支え合い、前を向いて歩んでいる。
想像を絶する辛苦の中で、他者を気遣う北の地の人々の優しさに、今一度、感動した。

もうすでに菅直人前首相が宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節を引用しているので、二番煎じになるのだが、宮沢賢治も被災地の子だった。
彼が生まれた1896年は、三陸地震津波と陸羽地震があった年で、彼の生まれた花巻にも甚大な被害があったという。
人の幸せを願った彼の出発点は、そういうところにあったのかもしれない。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一 諸に進んで行かう」
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

本当のさいわい。
幸せな時が流れるところに、人は集まる。


2年前(2009)の動画です。
 


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遠野まつり 山口さんさ

2011-09-20 22:47:54 | 遠野(岩手)

   


遠野市土淵町山口に伝わるさんさ踊りは、大正初期に小国(宮古)から婿入りした厚楽磯吉(尻石磯吉)が、小国の兄嫁を山口の家に泊めて土地の人々教えたのが由来という。
小国のさんさ踊りは、津軽石、南川目、大浦、茂市と場所によって少しづつ異なる。西方の盆踊りを、当時の行商人が宮古街道を通じて宮古市にまで伝えたものとも、盛岡のさんさ踊りを塩の道を通じて伝えたものとも言われている。

踊る娘たちが時折放つ掛け声。メモしようとしていつも忘れてしまう。
だれか、教えてくれる人はいないだろうか?
現代っ子にもかかわらず、恥ずかしがり屋の彼女たち。声を掛けて聞き出せるまでは、しばらく遠野通いが必要のようだ。

「はれのさんさもででれこでん」
富山の民謡に伝わる「さんさ」。
宮城にも「さんさしぐれ」と呼ばれる、お祝いの時に歌われる歌がある。
囃子言葉の「さんさ」。どんな意味だったのだろう・・・。。


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新年 明けましておめでとうございます。

2011-01-04 10:12:50 | 遠野(岩手)

 
 

新年 明けましておめでとうございます。
”今年こそ”と気持ちを新たにするのが恒例となっている。
あなたの”今年こそ”は何でしょうか?
ぼくの”今年こそ”は
”ブログを見ていただける方に、ご満足いただけるよう努力する”です。

また、日本の各地をカメラを担いで回ります。
今年はカフェに集う人々の写真も、と夢は拡がります。

少しでも今年の誓いに近づけるよう、頑張りたいと思います。
今年も「tetujin's brog」を宜しくお願い申し上げます。

本日よりブログを再開致します。
皆様のお越しをお待ち申し上げます。


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平泉 古き都をおもひ出でつつ

2010-02-10 22:50:37 | 遠野(岩手)





「とりわきて心もしみてさえぞわたる衣河見にきたる今日しも 」西行

平泉は源義経が自害し、奥州藤原氏が滅亡した地だ。

30代半ば頃に父基衡の死去を受けて家督を相続した藤原秀衡は、豊富な資金力を背景として保元2年(1157年)に奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となる。
彼は、京都の鞍馬山に匿われていた義経を鞍馬山より招いて、京都、ならびに、鎌倉の武家勢力に対するいざという時の旗印として利用することを画策。

ところが義経は、兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、あっさりとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となる。
だが、帰洛後、洛中の警護にあたり、後白河法皇の信任を得、源頼朝の許可なく検非違使左衛門少尉となったため源頼朝の怒りをかい、平氏追討の任を解かれてしまう。
元暦2年(1185)2月、義経は、再び平氏追討に起用され、屋島、壇ノ浦に平氏を壊滅させるも、頼朝との不和が深刻化。
その年の5月7日、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの鎌倉入りが拒否され、腰越に逗留。頼朝の怒りを解くため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送るも頼朝の怒りが解けず、義経への迫害が続く。
義経は全国に捕縛の命が伝わると、難を逃れ再び平泉の藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てる。
泰衡が源義経を襲ったのは、勅令と頼朝公の指示にしたがったことによる。
衣川館では、義経と家来の者たちは、よく防戦して戦ったが、ことごとく討ち滅ぼされてしまう。義経は持仏堂に入り、まず22歳になる妻と4歳になる女子を殺害し自害。
戦の天才であった義経は、最後は敵と刀を交えることなしに果てたらしい。

義経は壇ノ浦で平家を滅ぼしたのだが、この結果、鎌倉の頼朝政権の建設を助けると同時に、奥州を巡る軍事バランスを崩してしまうことになる。
頼朝からすれば、当面の敵であった平氏が滅びたため、目標は奥州平泉だけとなったのだ。
おそらく頼朝の関心は、秀衡の動勢ただ一点にあったに違いない。
事実、頼朝は、奥州に間者(スパイ)を放って、秀衡の健康と義経の動向を報告させていたようだ。
 
義経は、日本の歴史を変えてしまえるほどの力を秘めた存在だった。彼の悲劇は、彼自身がその力を発揮しようとしなかったためと思えてしかたがない。
それから500年後にこの地を訪れた芭蕉は、義経の居館があったとされる高館の丘陵に登り句を詠むことになる。

「夏草や兵どもが夢の跡」

義経の時代よりも後に、ここにやって来た人々は、安倍氏清原氏、そして奥州藤原氏と約百五十年の間に渡って繁栄をした当時の様子を少しでも想像できるのだろうか。
それほどにかつての黄金の都は、鄙びてしまっている。一面に田野の雪景色が広がるばかりだ。

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