あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

怨霊の雷鳴が鳴り響いた雷神伝説の地を歩く

2017-05-14 11:52:03 | 東京散策
政治的野望の中で非業の最後を遂げ、その祟りを引き起こすと云う裏の歴史が東国・武蔵国にもあった。
新田義興雷神伝説
時は足利尊氏が室町幕府を開いた南北朝時代。今からおよそ700年近く前のことである。
場所は現在の大田区多摩川界隈である。
主人公は南朝方の勇将・新田義貞の次男(妾腹の子)・義興である。
1358(正平13)年、義興は足利勢に寝返った味方の謀略により討死する。
義興の死後、義興の絶望と恨みは雷神を操る怨霊へと変えた。
それは、矢口の多摩川下流域は七日七晩にわたって雷が鳴り続いたという。さらに謀略に手柄を立てた江戸遠江守(えどとととおみのかみ)が鎌倉の帰りに矢口の渡しにさしかかると、一天にわかに黒い雲の覆われて雷がとどろき、江戸は落馬。7日間も、もがき苦しみ狂死したという。
そのうえ、雷火によって民家や寺が燃えたり、矢口の渡しには夜ごと「光もの」が出るなど人々を悩ませた。

新田義興

矢口の渡し跡
大田区側の多摩川大橋西側のたもとにある矢口の渡し跡。義興が悲愴な最期を遂げた舞台として知られる。



矢口の戦い



大田区文化財 矢口の渡し跡
『新田義興が、矢口の渡しで延文3年(1358)討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、多摩川は、今より大きく湾曲していたと考えられる。
江戸時代に、平賀源内により戯作「神霊矢口の渡」が作られ、歌舞伎に上演されるに至り、この渡しは有名になった。
渡し場は、流路の変遷と共に、その位置をいくたびか変え、この付近になったのは、江戸中期からであると考えられる。
この渡しは、区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。』


東八幡神社  矢口の渡し跡碑(上写真中の位置にあり)



多摩川七福神 弁財天

頓兵衛地蔵(とろけ地蔵)
多摩川の渡し舟船頭だった頓兵衛が、義興をだまして舟の栓を抜いて沈めたことを悔いて造ったといわれる石造。または、義興の祟りで死んだ頓兵衛のために造られたという説もある。地蔵は怨念のためか、つくり直してもボロボロと解けたようになるため、別名とろけ地蔵ともいわれている。






多摩川七福神 布袋尊

 新田神社

13人の家臣と共に矢口の渡しで無念の死を遂げた義興。その後、怨霊となった義興の祟りを鎮めるために墳墓の前に社を造り、「新田大明神」として祀ったのが神社の起こりである。
義興の怨霊は火雷信仰と結びつき、火除け災難除け、必勝開運、人々を幸せへと導く神様として崇敬されるようになる。






破魔矢の元祖
宝暦年間(1751~1764)頃より「義興の矢」として門前の茶屋で売られていたものが、のちに平賀源内の提案により、五色の和紙と竹で作り、新田家の黒一文字の短冊を付けたものを魔除けとして売り出した。
そして、この矢を2本買い、1本を奉納し、1本を持ち帰り魔除けの「矢守」としたといわれる。






 Love神社のパワースポットと知られている

十寄神社
三体地蔵尊の3名のほか、義興と共に忙殺された10人の家臣がここに祀られている。その名も十寄神社。昔は「十時神社」といい、現在は、十騎神社「「とおよせ様」などとも呼ばれている。
10人の家臣は舟上で義興と共に潔く切腹し、そのまま沈んだといわれ、社殿の裏手に葬られている。






多摩川七福神 毘沙門天

三体地蔵尊
1358(延文3・天平13)年に義興と共に矢口の渡しで命を落とした家臣のうち3人が地蔵として祀られている。
多くの家臣は十寄神社に祀られているが、この3人は舟が沈められた時に対岸までたどり着き、交戦の末に討ち死にした。昔は三体地蔵と新田神社の間に多摩川が流れ、この位置は河岸であったとされる。


ご神木が太くて社が陰で見えない


光明寺
天平年間(720~749)、行基によって創始され、のちに空海が再興。寛政年間(1229~1232)に浄土宗に変わって関東弘通念仏最初の道場となった古刹。
義興の伝説は、義興の怨霊に襲われた江戸遠江守が寺に逃げ込んだことや、切腹した義興が内臓を投げた時、境内の巨木に引っ掛かった話などがある。










延命寺
もともとは、蓮花寺という名の寺で、義興の怨霊が雷火なって堂宇を焼き尽くしたという伝説が残る。
その際、聖徳太子が国家安穏衆人救護のために彫った地蔵尊だけは難を逃れたという。以後その地蔵は「火雷除子安地蔵尊」「延命地蔵」とも呼ばれて、人々の信仰を集め、寺の名も延命寺と変わって再建された。






多摩川七福神 寿老人


神霊矢口渡
エレキテルで知られる平賀源内が福内鬼外(ふくうちきがい)筆名で軍記物語『太平記』を元に370年後に人形浄瑠璃の戯曲に書き下ろした5段の作品。その後歌舞伎でも上演される。
中心は矢口の渡しに伝わる新田神社の縁起を描いた四段目「頓兵衛内(とんべえうち)」通称「矢口渡」。義興が滅んだあと、義興の弟義岑(よしみね)は落武者となり、愛人のうてなを連れて矢口の渡しの渡し守頓兵衛の家に泊まる。かつて義興を謀殺した頓兵衛は、義岑をも討ち取って賞金を得ようとするが、娘お舟は義岑を恋して彼を逃がし、身替りに父の刃にかかる。頓兵衛は飛んできた新田家の神矢に貫かれて最期を遂げるというストーリー。



足利勢の謀略によて、無念の最期を遂げた新田義興の『雷神伝説』が残る多摩川下流域(東急多摩川線鵜ノ木駅~矢口渡駅)を歩く。

資料:裏・東京魔界散歩(三栄書房)
訪れた日:2017.5.5


『散歩』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 二十五の阿弥陀様がお練る「お... | トップ | カルガモの雛が11羽泳ぐ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。