安政3年(1856)8月の改印がある「江戸百」90景
「猿わか町よるの景」(さるわかまちよるのけい)。
安政2年(1855)10月2日、突如襲った安政の大地震で
江戸市中はどこも壊滅状態に遭遇した。ところがどっこい、
江戸は火事が日常茶飯事で、江戸っ子も慣れたもの、地震後の
復旧も順調に進んでいた。その矢先、翌年の8月に今度は
野分(現在の台風)が襲いかかり、大きな被害をもたらした。
浅草の芝居小屋がかかる猿若町でも例外ではなく、市村座、
中村座、森田座の3座では大屋根が吹き飛ばされたという。
広重がここを訪れたのは、その時期で、絵のコンテ作業の時は
屋根がなかったのではないだろうか、と推測する。
この絵を見てみよう。満月の夜の芝居小屋が立ち並ぶ
浅草・猿若町である。見た目、なんだか物寂しい風景である。
普通、庶民の憩いを求める芝居小屋が立ち並ぶ通りは、
客の注目を集めるために、歌舞伎文字の看板や役者絵看板、
飾り物等を小屋の店頭に並べて、派手に宣伝するはず。
広重は、台風で被害を受けた各座の屋根をわざと描き、
再開幕を願った風景ではないだろうか。それを意味するのが、
日中の風景を避け、夜にしている点だ。
また、月に照らし出された通りを往来する人物の影である。
なんとも侘びしさを漂わせる絵だ。
猿若町とは、歌舞伎の始祖「中村勘三郎」にちなみ、勘三郎が
創作した狂言「猿楽」からきており、当初勘三郎も猿若勘三郎と
名乗っていたという。
写真は、旧猿若町の通りで、近くに市村座の跡碑があった。
(台東区浅草6丁目18番地辺り)
「猿わか町よるの景」(さるわかまちよるのけい)。
安政2年(1855)10月2日、突如襲った安政の大地震で
江戸市中はどこも壊滅状態に遭遇した。ところがどっこい、
江戸は火事が日常茶飯事で、江戸っ子も慣れたもの、地震後の
復旧も順調に進んでいた。その矢先、翌年の8月に今度は
野分(現在の台風)が襲いかかり、大きな被害をもたらした。
浅草の芝居小屋がかかる猿若町でも例外ではなく、市村座、
中村座、森田座の3座では大屋根が吹き飛ばされたという。
広重がここを訪れたのは、その時期で、絵のコンテ作業の時は
屋根がなかったのではないだろうか、と推測する。
この絵を見てみよう。満月の夜の芝居小屋が立ち並ぶ
浅草・猿若町である。見た目、なんだか物寂しい風景である。
普通、庶民の憩いを求める芝居小屋が立ち並ぶ通りは、
客の注目を集めるために、歌舞伎文字の看板や役者絵看板、
飾り物等を小屋の店頭に並べて、派手に宣伝するはず。
広重は、台風で被害を受けた各座の屋根をわざと描き、
再開幕を願った風景ではないだろうか。それを意味するのが、
日中の風景を避け、夜にしている点だ。
また、月に照らし出された通りを往来する人物の影である。
なんとも侘びしさを漂わせる絵だ。
猿若町とは、歌舞伎の始祖「中村勘三郎」にちなみ、勘三郎が
創作した狂言「猿楽」からきており、当初勘三郎も猿若勘三郎と
名乗っていたという。
写真は、旧猿若町の通りで、近くに市村座の跡碑があった。
(台東区浅草6丁目18番地辺り)