八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「霊と真理をもって礼拝する」 2016年5月1日の礼拝

2017年04月18日 | 2016年度
創世記28章10~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。
  「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
  ヤコブは眠りから覚めて言った。
  「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
  そして、恐れおののいて言った。
  「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
  ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
  ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
  「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

ヨハネによる福音書4章19~26節(日本聖書協会「新共同訳」)

  女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

  今日は八幡鉄町教会創立95周年を記念して礼拝をささげています。毎年、創立記念の礼拝では、その年の教会標語と年間聖句によって礼拝を行っています。今年は「霊と真理をもって礼拝する」という標語を掲げました。これは年間聖句として取り上げましたヨハネ福音書4章23節にある言葉です。すなわち、「礼拝」を主題としているのです。
  「霊と真理をもって礼拝する」というのは、どのような礼拝なのでしょうか。そもそも礼拝ということ自体、とても難しいと言わざるを得ません。礼拝の中で、賛美歌を歌い、聖書が読まれ、祈りがあり、時には洗礼が行われたり、聖餐式が行われます。その順序は、教会によって様々ですし、私たちのプロテスタントの教会とローマ・カトリック教会とでは、さらに大きな違いがあります。
  神を礼拝するということで重要なことは、その礼拝する場所に、神がお出でになるということです。少し難しい言葉で言うと、「神の臨在」ということです。賛美歌は神を誉め讃える歌であり、祈りも神に向かって行うことですから、神がそこにおられるかどうかということはとても重要なことです。
  また、神がお出でになるその場所で礼拝するということは、そう簡単なことではないようです。

  宗教改革者マルチン・ルターは、司祭として初めてミサをささげた時のことを振り返り、次のように語っています。
  「『神よ、生ける神よ』と唱えた時、このただの土塊(つちくれ)の罪人にすぎない私が、どうして神に向かって親しげに、神よ、神よと呼びかけることができるのだろうかと倒れそうになった。」
  まことに、ルターが言うとおりです。いったい誰が神の前に立ち、「神よ」と呼びかけることができるでしょうか。
  私たちは、神が正しい方であると信じています。それに対し、私たちは神に罪を犯した罪人です。その罪人である私たちが、どうして神を礼拝することが出来るのでしょうか。聖書によれば、罪ある者は神の御前に立つことが出来ないとあります。たとえば、神を見た預言者イザヤは、自分の罪の故に滅びると恐怖におののいています。同じように罪ある私たちが、神の前に立つことが出来るのでしょうか。先のルターの言葉は、罪を自覚する全ての人々が持つ怖れを表していると言って良いでしょう。
  神を見てしまい、滅びるにちがいないという恐怖に襲われたイザヤでしたが、神の使いから「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と告げられ、死をまぬがれ、預言者として立てられました。(イザヤ6章1節以下)
  神から罪を赦される。これが、ルターの言葉に対する答えです。罪を赦されているからこそ、「このただの土塊(つちくれ)の罪人にすぎない私たちが、神に向かって親しげに、神よ、神よと呼びかけることができる」のです。
  4月17日、24日の礼拝で、主イエスが罪を赦す権威をもっていること、また、罪人を招いておられることを見ました。この罪の赦しとその罪人を神が招いてくださっていることは、私たちが神を礼拝することと深く関わっています。
  罪を赦す権威を持っておられる主イエスが罪の赦しの宣言される場所こそ、キリスト教会であり、礼拝なのです。その礼拝に、罪人である私たちが招かれているのです。礼拝は、人間が神とその恵みを求めて行われるように思われるかもしれません。しかし、実は、神が罪人である私たちに礼拝することを求めておられるのです。それを告げているのが、今日のヨハネによる福音書4章23~24節です。
  「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
  先ほど、聖書には、罪ある者は神の御前に立つことが出来ないとあると、言いました。神を礼拝するどころか、神の御前に立つことも出来ないのが、私たち罪人なのです。その罪人である私たちが神に近づいたり、神を礼拝することは出来るはずがありません。それは、すなわち、罪人である私たちには、自分自身を救う手段も可能性もないということです。主イエスは弟子たちに「神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マルコ10:24~25)とおっしゃいました。神の国に入ることが難しいのは金持ちだけではありません。全ての人間にとって、それは不可能なことです。ですから、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と、絶望の声をあげるしかありませんでした。しかし、その弟子たちに主イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と、おっしゃったのです。
  「人間には出来ないことだが、神には出来る」。神を礼拝することも同じことが言えます。本来神に近づくことも礼拝することも出来ない私たちですが、神が私たちを招いてくださるのです。否、神が私たちに近づいてくださるのです。この時、私たちは滅ぼされることを心配する必要がありません。神が私たちの罪を赦してくださっているからです。
  神は、独り子イエス・キリストによって、私たちを赦してくださったのです。そして、私たちを礼拝させてくださるのです。主イエスがおっしゃった「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する」というのは、まさにこのような礼拝なのです。罪人が罪を赦されて行う礼拝です。罪ある身であるにもかかわらず、赦されたが故に、安心して神に近づき、心から喜んで感謝の礼拝を献げる事が出来るのです。「その時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と、主イエスはおっしゃいました。
  「その時が来る。今がその時である」とは、主イエスが地上に来られた時と言うことです。もっと正確に言うならば、主イエスが罪の贖いのために十字架にかかられた時です。主イエスによって罪を赦されていることを確信することができるからこそ、神の前に立つことができるのです。
  罪人である私たちが、今この時、安心して神に近づき、しかも神がそれを求め、私たちを招いてくださっているのです。ここに「まことの礼拝」、「神の御業としての礼拝」があります。したがって、このような礼拝は、キリストの十字架と復活によるほかはないのです。
  「この山(ゲリジム山)でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る。」と主イエスはおっしゃいました。ゲリジム山はサマリア人が礼拝する場所であり、エルサレムはユダヤ人が礼拝する場所です。そのいずれでもない場所で礼拝するとは、どういうことなのでしょう。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と主イエスが語られ、ヨハネ福音書は、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」と説明しています。神を礼拝する場所は、どこか特定の場所ではなく、主イエス・キリストが共にいてくださるということが重要なのです。主イエスが私たちの罪の贖いをしてくださり、今も執り成してくださっているからです。そこで、霊と真理をもってする礼拝とは、その礼拝の中で、主イエス・キリストの贖いが明らかにされる礼拝だと言えます。すなわち、十字架と復活のキリストが中心となった礼拝ということです。いつでも、十字架と復活のキリストが指し示される礼拝です。この礼拝に、「罪の赦しを得よ」と言って、私たち罪人が招かれているのです。
  聖書が読まれ、説教が為され、洗礼と聖餐がおこなわれる時、それらは十字架と復活のキリストを指し示しています。それは、私たちの救いのための神の御業と恵みです。その神の御業と恵みに感謝をし、祈り、賛美を歌うのです。
  「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行くことができない。」と主イエスはおっしゃいました。霊と真理をもってする礼拝こそ、父なる神のみ元につながる主イエス・キリストという道なのです。

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