八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「父よ、彼らをお赦しください」 2016年2月14日の礼拝

2016年10月17日 | 2015年度
イザヤ書53章1~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
 この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく
 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって
   わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて
   主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように
 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。

ルカによる福音書23章32~38節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

  先週の水曜日、2月10日は、教会の暦では「灰の水曜日」と呼ばれ、この日から受難節(レント)が始まっています。これはイースターの前日までの約40日間で、そのため四旬節と呼ばれることもあります。
  この受難節は、主イエス・キリストが受けられた御苦しみを想い起こし、礼拝と祈りとによって信仰生活を整える期間として、また、洗礼を受ける決意をした人、信仰告白を決意した人が、その準備をする期間として重んじられてきました。日常生活においても、肉食を禁じたり、人間的な楽しみが制限されてきました。
  「灰の水曜日」になると、禁欲的な生活になるため、その前に飲食その他を楽しもうとするようになりました。カーニバルです。日本語では謝肉祭と言います。これはローマ・カトリック教会の正式の祭ではなく、一般民衆の中で長らく行われてきたものです。リオのカーニバルが特に有名ですが、それ以外でも、カトリック信者の多い地域では、カーニバルを行うことがあるようです。
  プロテスタント教会の流れにある私たちの教会では、カーニバルはしません。また受難節に禁欲生活をすることはありませんが、しかし、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架におかかりになったことを覚え、礼拝と祈りによって信仰生活を整えることを大切にしています。
  私たちの教会の礼拝は、いつもはマタイ福音書の連続講解説教をしていますが、受難節の期間、主イエスが十字架におかかりになった時に語られた言葉、「十字架上の七言」に基づいて礼拝をします。

  十字架上の七つの言葉は、昔から順番は決まっているようです。今日はその第一の言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を取り上げます。
  この言葉は、祭司的執り成しの言葉と説明されます。
  祭司というのは、礼拝において神に犠牲を捧げる人のことですが、その犠牲は、人間の罪の償いとしてささげるものです。この犠牲については、旧約聖書のレビ記に詳しく記されています。動物の血が祭壇に注がれるという方法がとられていますが、動物の血が注がれるというのは、動物の命が神に捧げられることを意味し、動物の命が神に捧げられることは、動物を携えてきた人の命がささげられたとみなされたのです。神に対する罪は命をもって償わなければならないほど重いということを意味しています。しかし、神は、人間の命の代わりに動物の命をささげることによって、罪の償いと認めてくださっているのです。
  多くの祭司たちの頭として、大祭司がいます。大祭司は、年に一度、イスラエル全体のための罪の償いの犠牲を献げる事になっています。その日は、贖罪の日と呼ばれ、神殿も祭司たちもいない現代でも、大切な祭として祝われています。
  大祭司や祭司たちに、罪の償いをする力があるというのではなく、神に対して全ての人々のために執り成しをしているのです。神は、祭司たちを立て、犠牲の制度をイスラエルの人々にお与えになりましたが、完全なものではありませんでした。大祭司はまず自分のために清めを行わなければなりませんでしたし、動物の犠牲はくり返しくり返し行わなければなりませんでした。それらは罪の償いとしては不完全であることを示しています。
  何故、神は、そのような不完全な罪の償いを人々にお与えになったのでしょうか。それは、旧約時代に与えられた罪の償いの犠牲と祭儀は、やがて来るべき完全な犠牲と執り成しを指し示すためでした。すなわち主イエス・キリストによる犠牲と執り成しこそが完全なのです。そして、旧約時代の祭儀と祭司たちは、その時までの応急処置的配慮であり、完全なものをあらかじめ示すためのひな形なのです。
  完全な罪の償いとして、主イエスがご自身を犠牲として神に捧げ、また真の大祭司として罪の赦しのための執り成しをしてくださったのです。

  「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
  ここで言われている「彼ら」とは、いったい誰のことなのでしょうか。第一には、主イエスを十字架につけたローマの兵士たちであり、またローマの軍隊に主イエスを引き渡したユダヤ人たちであったと考えて良いでしょう。
  しかし、またそれだけでなく、全ての人々をも指しているのです。すなわち、全ての人々のための執り成しをしておられるのです。
  そもそも、主イエスにとって、十字架の出来事は、突然のこととか、思いがけないことではありませんでした。エルサレムにお出でになる前に、三度にわたってご自身が受ける迫害と復活を予告されていました。そして、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」(マルコ10章45節)とおっしゃっておられます。このように、全ての人々の罪の赦しのために十字架におかかりになり、執り成しをされているのです。それが「「父よ、彼らをお赦しください。」という言葉の意味なのです。
  十字架による罪の赦しは、私たちの罪の重さを示していますが、それだけでなく、その罪を完全に赦してくださる神の愛と恵みの大きさをも指し示しているのです。受難節の間、主イエスの御苦しみを覚えると共に、私たちに対する神の恵みを感謝いたしましょう。







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