八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「重い皮膚病患者を癒す」 2016年1月10日の礼拝

2016年08月27日 | 2015年度
レビ記14章1~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主はモーセに仰せになった。
  以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。次に、祭司は新鮮な水を満たした土器の上で鳥の一羽を殺すように命じる。それから、杉の枝、緋糸、ヒソプおよび生きているもう一羽の鳥を取り、さきに新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、清めの儀式を受ける者に七度振りかけて清める。その後、この生きている鳥は野に放つ。清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にいなければならない。彼は七日目に体の毛を全部、すなわち、頭髪、ひげ、まゆ毛、その他の毛もすべてそる。そして、衣服を水洗いし、身を洗う。こうして、彼は清くなる。


マタイによる福音書8章2~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」


  マタイ福音書8章2~4節は、主イエスキリストがなさった最初の奇跡として記されています。すでに4章の最後に、主イエスが「民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された」とあります。これも主イエスの奇跡と考えて良いと思いますが、具体的に記されているのは、8章2~4節が最初と言って良いと思います。
  ヨハネ福音書は、主イエスのなさった奇跡を7つに限定して、「最初のしるし」、「第2のしるし」と呼んでいます。マタイ福音書は、そのような「最初の奇跡」という言い方をしておりませんが、この福音書の中では、具体的に記されている奇跡の第1番目という事が言えます。
  重い皮膚病患者を癒されたこの奇跡は、マルコ福音書やルカ福音書にも記されていますが、具体的に記されている主イエスの奇跡の第3番目として記されています。ということは、この奇跡を最初に配置されているのは、この福音書を記したマタイの意図が示されていると言えます。なぜなら、これまでにも話してきたことですが、マタイ福音書は形式的に整った形を持っており、その形式の中に、マタイの信仰が現れているからです。
  形式的に整っていると言うことの例を見てみますと、まず、マタイ福音書全体は、「物語の部分」の主イエスの「説教の部分」が交互に配置されています。8~9章は主イエスの物語ですが、特に主イエスがなさった奇跡が集められています。しかも、九つの奇跡を三つの組にし、それぞれの組に三つずつ奇跡を配置しているのです。

  さて、「重い皮膚病」と訳されている言葉は、レプラというギリシア語です。現代の病名ではハンセン病といわれますが、聖書に記されているこの病が本当にハンセン病なのかどうかは、確かなことが分かっておりません。
  旧約聖書では、この病をしばしば神の刑罰として記しています。たとえば、モーセの姉にミリアムという女性がいましたが、この女性がモーセに逆らい、神の怒りを受けこの病気になったと記されています。
  日本でも、昔はハンセン病を「天刑病(てんけいびょう)」と呼ぶことがありました。天からの罰を受けたという意味です。ハンセン病は、その症状がいちじるしく肉体を損なうこと、病気の原因が分からないことなどから、予防も治療も全く分かりませんでした。その恐ろしさから、神仏の怒りと考え、天刑病と呼んだのです。
  昔、「ベン・ハー」という映画がありました。この映画を見た方の中には、主人公の母と妹がハンセン病を患い、町から離れたところで生活するという場面を覚えておられる方もあるのではないかと思います。
  この病を患っている人は、社会から切り離され、家族からも切り離される生活を強いられます。道を歩く時は、健康な人が誤って近づくことがないように、自ら「汚れた者。汚れた者」と叫ばねばならなかったり、道の向こうから健康な人がやってきたならば、道から遠くはなれたところに、出ていかなければならなかったと言われます。
  このような生活を強いられていたことを考えると、今日の御言葉には不自然なことがあります。
  「一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」というところです。
  このような重い皮膚病を患っている人が、大勢の群衆を引き連れている主イエスの前に現れ、近づいて来たということです。どうして、彼が主イエスに近づくことができたのか、群衆の様子はどうだったのかということについては、全く触れられていません。聖書は、状況を説明することにはほとんど関心を持っていないのです。むしろ、この病人が主イエスによって癒されたことに関心を持っているのです。この福音書を読む人に、主イエスと患者に集中させようとしているのです。

  福音書は、この病について「癒す」ではなく、「清める」という言葉を用いているのも単なる病ではない事を示しています。汚れとか清めると言っても衛生上のことではなく、神に対する罪として考えられていたからです。
  神に対する罪とは、単に神の戒めを破ったなどというルール違反ということではありません。神との関係が破れていることを示しているのです。その神との関係の破れが、目に見える形で重い皮膚病として現れているのです。この病については、「癒す」ではなく、「清める」と言われているのは、神との関係があるからです。単なる衛生上のことではなく、宗教的な事柄、すなわち神との関係があるので「清める」という言葉が使われ、この病の判定を祭司が担っているのです。
  祭司は病であるか否か、治ったか否かを判定するだけで、治療するわけではありません。
  主イエスがこの病を癒され事は、人間には不可能な癒しを行われたこと、神との断絶を意味するこの病を癒し、神との関係が修復されることを示しています。祭司以上の働きをされた主イエスを、この福音書は力強く語っているのです。
  この福音書が、重い皮膚病患者の癒しを主イエスのなさった最初の奇跡として記したのは、神の独り子としての権威をもって、人間の罪を清め、神と人間との関係を回復されていることを示すためであったと言って良いでしょう。8~9章に記されている奇跡物語は、単に不思議なことが起こったというだけの話ではありません。壊れている神と人間との関係が回復される。それが、奇跡という形で示されているのです。

  さて、重い皮膚病患者が「近寄り」、「ひれ伏して」と記されています。どちらも、マタイ福音書において、特別の意味を込めて使われています。
  「近寄る」と訳されているプロスエルコマイは、新約の中で、マタイが最も多くこの語を使っており、51回のうち2回だけ、主イエスが弟子たちに近づいた場面で使われ、他の49回は、人々もしくは霊が主イエスに近づく場面で使われています。この語によって、マタイには、主イエスの権威を強調しているのです。特に「ひれ伏す(プロスクネオー)」を伴っている場面では、その意図がさらに強いと言えます。
  「ひれ伏す」と訳されているプロスクネオーは、もともとは身分の高い人への敬意を表す言葉でしたが、マタイは礼拝の意味で使っています。マタイ2章2節、11節では、そのように使われています。また、8章2節、9章18節、15章25節、20章20節では、主イエスに助けを求める人々の行為として使われ、また、14章33節では、弟子たちによる神の子告白の際の行為として、そして、28章9節、17節では、復活されたキリストに対する行為として、この語が用いられています。いくつかの例外を除いてすべて主イエスに対する行為として使われているのです。その例外は4章9節(サタンに対して)、10節、18章26節(譬えの中で)です。

  3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」
  主イエスが、重い皮膚病患者をお癒しになりました。これは、主イエスが祭司以上の存在であることを示しています。先に言いましたように、祭司は病を判定するだけで癒すことは出来ません。しかし、主イエスは病をお癒しになったのです。また、この重い皮膚病は神との関係の破れ、神に対する罪が現れたものと考えられていましたが、この病の癒しは、神との関係の回復、罪の赦しを示すものでした。祭司は、神と人間との間に立ち、罪人の執り成しをする働きをしましたが、その祭司がなし得なかったことを主イエスは行われたのです。ヘブライ人への手紙10章11~14節で、次のように言われているとおりです。
  「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」
  主イエス・キリストが十字架にかかられた出来事こそ、全ての人々を救う罪の贖いのいけにえなのです。重い皮膚病患者をお癒しになったのは、十字架におかかりになる前でしたが、すでに、罪の赦しの業は始められていたのです。

  4節「イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。』」
  祭司に体を見せるように言われたのは、重い皮膚病患者の病が完全に治ったことを判定させるためでした。その事により、この人が完全に社会復帰出来るようにとの配慮です。主イエスは、地上の祭司には限界があることをご承知でしたが、だからといって、祭司は必要でないとか、無視して良いとはおっしゃいません。不充分ではありますが、この世の秩序を重んじておられるのです。

  「誰にも話さないように気をつけなさい」というのは、主イエスが奇跡を見せびらかしたり、それで人気を集めようとしていないことを示しています。むしろ、人々のうわさを非常に警戒しておられました。奇跡を行うことが知れ渡ると、人々が誤った期待を持つことをよくご存知だったからです。すなわち、特別な力を持つ人が現れたことを知った人々が、メシアだと期待し、ローマ帝国や異邦人の領主からの独立を求め、クーデターを計画する可能性があったのです。
  しかし、主イエスは、地上で武力によって王国を建てることを全く考えておられません。むしろ、全ての人々の救いのために十字架にかかろうとしておられたのです。その十字架は、人間の神に対する罪が明らかになる出来事でしたが、神は人間を罪から救う贖罪の出来事とされたのです。十字架は、自動的に贖罪の業となるのではありません。十字架の出来事に、神は全ての人を赦すという恵みのご意志を表しておられるのです。
  神との関係の破れを象徴する重い皮膚病患者でしたが、神がお癒しになって罪の赦しを宣言しておられるのです。



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