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奈良ものろーぐ(7)/考古学の鬼・森本六爾

2016年11月24日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
 張込み―松本清張短編全集〈03〉 (光文社文庫)
 松本清張
 光文社

奈良日日新聞に毎月1回(第4金曜日)連載している「奈良ものろーぐ」、10月分(10/28掲載)は《森本六爾 桜井市出身「考古学の鬼」》だった。早世したのであまり知られていないが、その短い生涯を考古学の研究に捧げた。

最大の功績は、弥生時代が水田稲作を行う農業社会だったことを発見したことである。松本清張の「断碑」という小説のモデルにもなった(光文社文庫・松本清張短編全集〈03〉所収)。当日の記事全文を紹介すると、

森本六爾(もりもと・ろくじ)をご存じだろうか。彼は磯城郡織田村大泉(現在の桜井市大泉)の生まれだ。《大正―昭和時代前期の考古学者。明治36年3月2日生まれ。郷里奈良県の小学校代用教員をへて、大正13年東京高師の歴史教室副手となる。昭和4年辞職。東京考古学会を創立、「考古学」を主宰した。弥生時代に稲作農耕が存在したことを主張。『日本農耕文化の起源』『日本考古学研究』などが没後刊行された。昭和11年1月22日死去。34歳。畝傍中学卒》(『日本人名大辞典』)。

弥生時代は水田稲作を行う農業社会だったことは、今や常識となっているが、これを最初に主張したのが六爾だった。そのきっかけとなったのは、少年時代に唐古で見つけた土器だった。底に籾(もみ)の圧痕が残っていたのだ。六爾はこの不思議を十数年、温め続けた。

六爾は旧制中学卒であり、経済的にも健康的にも恵まれていなかった。苦難のなかで研究を続けて結核におかされ、早世した。ミツギ夫人も六爾の3ヵ月前に亡くなった。松本清張はそんな六爾の悲劇的な生涯を『断碑』という短編小説に書いた。清張の芥川賞受賞後の第1作だった。


そこには「日本考古学の鬼」となり、力をふりしぼって研究と執筆に明け暮れる六爾の姿が描かれている。六爾の主張は、生前は黙殺されていた。しかし六爾が亡くなった同じ年の12月、国道の新設工事に伴い、唐古池の大量の土砂が掘りとられることになった。

土手を切り、干あがった池の底に《20台ずつ2連の、蒸気機関車の牽引するトロッコが入れられた。水をおとした池底の泥はどんどん南の方へ運び出された。と、たままち、昨日まで使っていた台所の壺やカメのように、まったく疵(きず)1つない土器や、押し潰されたような笊(ざる)や蓆(むしろ)、石でできた匙(さじ)やヒシャクが、きりもなく顔を出してきた》(藤森栄一著『二粒の籾』)。完形無疵の土器だけでも百個以上が出土した。六爾の主張が裏付けられた瞬間だった。彼の死のわずか11ヵ月後のことだ。



六爾とミツギ夫人をたたえる顕彰碑が大泉バス停付近に建つ。そこには《共に若くして 考古学に殉ず まことに惜しみてもなほ余りあり ゆかりの地唐古池の発掘調査は昭和11年12月に始まり 君の予見適中したるも 相共にその成果を見ることなし 鳴呼二粒の籾もし成長し結実しあらば 今日考古学の盛況を思ひ君の早世をいたむと共に偉大なる功績を顕彰せむとこの碑を建立す》と刻まれている。

六爾ゆかりの唐古・鍵遺跡は平成30年をメドに史跡公園として整備される予定で工事が進み、すでに環濠(かんごう)などが復元されている。ぜひ足をお運びいただきたい。=毎月第4週連載=


末尾に紹介した「唐古・鍵遺跡 史跡公園」は、いつでも見学できる。ぜひ足をお運びいただき、森本六爾の偉業を偲んでいただきたい。


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