tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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火葬墓のおさらい

2009年12月29日 | 奈良検定
第4回奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)の応募者数は、過去最低だったようだ。12/22付の毎日新聞(奈良版)によると《奈良商工会議所は、来年1月10日に試験が行われるご当地検定「第4回奈良まほろばソムリエ検定」の応募者数は1872人と発表した》《内訳は、最高ランクの奈良まほろばソムリエが239人▽奈良通1級が558人▽奈良通2級が1075人。応募者の地域別では、近畿が最多の1608人、関東が193人で続いた。県内からは1221人。男女別では、男性1349人、女性523人。年代別は60代が最も多く、489人だった》。

《過去の申し込み状況は、第1回が4038人▽第2回2485人▽第3回1946人で、今回が最少となったが、同商工会議所は「東京での受検者が増えており、今後は2000人前後を確保したい」としている》。回を重ねるごとに応募者が減るというのは、残念だ。初回の4038人には「ご祝儀」が入っていたのだろうが、やはり2000人以上の応募者がないと、検定の存在意義が問われる。ぜひ頑張って、もっと広くPRしていただきたいものだ。

さて、奈良検定の過去問をざっと見ていると、やたら「火葬墓」の問題が出題されている。しかしテキストにも私の「要点整理」にも、一覧としては掲載していない。年末のお墓掃除というわけではないのだが、ここで整理してみよう。

1.火葬の始まりは僧・道昭
《記録上、国内初の火葬が行われたのは文武4(700)年。玄奘三蔵に師事したことで知られる名僧・道昭(629~700年)が、遺言に従って荼毘(だび)に付された》(奈良新聞「特集 高松塚光源」)。『続日本紀』(文武4年)には「天下の火葬 此れより始まれり」とある。《火葬が行われたのは栗原の地(現在の明日香村栗原)で、遺骨の灰は風に巻かれて行方が分からなくなったという》(同)。

なお栗原(くりはら)は檜隈の地にある。《栗原を含む、桧前(ひのくま)一帯は、かつて東漢(やまとのあや)氏などの渡来人が多く住まう地》(奈良リビング「栗原寺跡と桧隈寺跡」)だった。

2.初めて火葬された天皇は持統。以後、文武、元明、元正と続く
《持統天皇の火葬は道昭の死の3年後。明日香村野口の天武・持統合葬陵(大内陵)には、金銅製の蔵骨器に入った持統の火葬骨と天武の棺が納められている》《持統天皇をはじめ、文武、元明、元正の3天皇はいずれも火葬》(奈良新聞「特集 高松塚光源」)。
菅谷文則氏(現・橿原考古学研究所所長)は《道昭は唐で見た火葬の様子を持統天皇に話していたのだろう。最高権力者である天皇が国内最先端の火葬を採用したことには大きな意味があったはず》(同)。
《高名な僧と天皇が先陣を切ったことで、その後、火葬は急速に普及した。それに合わせて殯の習慣もなくなり、元明天皇(661~721年)は死後6日目、続く元正天皇(680~748年)も一週間で葬られている》(同)。

3.太安萬侶墓(奈良市此瀬町=田原のトンボ山)
奈良時代の火葬墓。公式テキストには《昭和54年(1979)1月、茶木の植え替え作業中に墓誌が偶然に発見され、墓誌から太安萬侶の墓であることが確認された》(公式テキストP89)とある。
※下の写真とトップ写真は07.6.23撮影(トップ写真向かって右上に墓がある)



4.小治田安萬侶墓(おはりだのやすまろのはか 奈良市都祁甲岡町[つげこうかちょう])
小治田安萬侶は《蘇我氏の同族で、飛鳥の小墾田に住んでいた》《甲岡の丘陵南斜面に位置する奈良時代の火葬墓。明治45年(1912)に茶畑の植え替え時に墓誌が発見され、その被葬者名が判明した》(同P90)。
※下の写真は並松小学校(奈良市)のホームページより
http://www.naracity.ed.jp/nanmatsu-e/annai/xozi.htm



5.文禰麻呂墓(ふみのねまろはか 宇陀市榛原区八滝)
《慶雲4年(707)に没した文禰麻呂の墳墓である。禰麻呂については『日本書紀』に壬申の乱で大海人皇子に従って活躍したことが記され『続日本紀』に没した記事がみられる。墓誌銘の「壬申年将軍」として知られる》(同P156)。
※下の写真は榛原商工会のホームページより
http://www.shokoren-nara.or.jp/uda/info-haibara.htm



6.行基の墓(竹林寺:生駒市有里町)
《天平21年(749)に行基が喜光寺で入寂したのち、弟子たちは遺言によって生駒山東陵で荼毘に付して墓を築き、行基の像を往生院に祀って竹林寺奥院と号したとされる。鎌倉時代の文歴2年(1235)に竹林寺の文殊堂付近から行基の舎利瓶が発見され、嘉元3年(1305)には同所から八角石筒と銅筒、銀舎利瓶が出土した》。銅筒残片の《表には行基の墓誌銘が残る》(同P100)。
竹林寺では《昭和61年(1986)に忍性墓が発掘され、行基墓と同様の八角石筒に納められた銅製骨瓶が出土している》(同)。

7.忍性の骨蔵器(額安寺:大和郡山市額田部寺町)
額安寺(かくあんじ。「がくあんじ」ではない)の鎌倉墓(かまくらばか)からも、忍性の骨蔵器が出土している。《「鎌倉墓と称される八基の五輪塔は重要文化財であり、一番大きなものからは忍性菩薩の骨蔵器が、その他、周辺から十一点の骨蔵器が昭和五十七年(1982)出土し、重要文化財となっている」》(同P117)。



※(11.10.10追記)上の画像は、「祈りの回廊 秘宝・秘仏特別開帳」のパンフレットより(11.10/8~10/30まで、骨蔵器を特別公開中)。お寺の説明書きによると《額安寺の北西にある額安寺五輪塔(重要文化財)で、昭和57年の解体修理に伴う発掘調査で出土しました。この骨蔵器の発見で、五輪塔群最大の塔が額安寺の再興や慈善事業に尽くした聖人、忍性菩薩(良観上人)の墓であることが明らかになりました。銅製の優雅な宝瓶(ほうびょう)形容器(蓋を含む高さ29.7センチ)の胴部に刻まれた、「良観上人舎利瓶記(りょうかんしょうにんしゃりべいき)」で始まる24行の銘文(嘉元元年・1303年、栄真の撰)は、忍性菩薩に関する史料として高く評価されています。この忍性菩薩骨蔵器を含め、善願(ぜんがん)上人の金銅骨蔵器など11点が出土し、高僧の墓制を知る貴重な資料として、全て重要文化財に指定されています》。

8.美努岡萬墓(みののおかまろのはか 生駒市萩原町)
美努岡萬は奈良時代の官人。《遣唐使として唐に渡り、その後、宮内庁主殿寮の長官》《明治5年(1872)に銅製の墓誌が発見された。出土地は生駒谷に面する丘陵上の竜王塚と呼ばれる微高地》(公式テキストP105~106)で、現在は住宅地(南生駒の青山台)の中にある。竹林寺の南方である。
※下の写真は、生駒市デジタルミュージアムのホームページより
http://www.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1840minonookamaro/184000top/184000top.php



まとめてみると、案外少ないものだ。1と2は飛鳥地方だし、3と4は奈良市内の東部山間地域で、被葬者の名前も似ている。5はその南。6~8はわりと近い場所なので、セットで覚えられる。こうして並べると、地域的な特徴もよく分かるだろう。この際、ぜひ頭に入れておこう。

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9 コメント

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生駒散歩 (ikaru(尼御前))
2009-12-29 11:13:18
今年は生駒を散歩しました。
新興住宅地の中を歩くと、
ポカッと遺跡や寺院にぶつかるのが奈良の魅力ですね。
竹林寺や美努岡萬墓をはじめ、「歴史散歩」を手に巡りました。

今年の奈良検定1級受検の日、
朝に宝山寺へお参りすると試験問題にも獅子閣が出てラッキーでした。
来年はどこにお参りしましょうか。

奈良検定の話題になると、
「難しい」の一言がまず返ってきます。
テーマが広範過ぎるのではないかと思います。
きっと歴史や仏像・遺跡だけでも、
たくさんの知識が必要と感じるんでしょうね。
私もテーマによっては、得意不得意がはっきりしてしまいます。
返信する
墓誌の存在 (畳薦)
2009-12-29 20:49:49
 「奈良検定」受験者数 右下がりとは残念、京都もきっとそうなんでしょうな。まあ資格試験でも入学試験でもないから・・・・一過性ブームで終わってはいけないのだが。
 火葬墓を整理すると・・・・太安万侶墓を筆頭に「墓誌銘」があった所と言えそうな気がする。ちゃんと調べないといけないが。
 宝山寺の「獅子閣」、ずっと修復工事で近年見物できず、去年の暮れもだめだったように思う。明日チャンスなので登ろうと思う。擬洋風建築が好きなんです。
返信する
Unknown (長田ドーム)
2009-12-29 21:21:49
日本の火葬の歴史は、古いですね。
返信する
思い出した! (ikaru(尼御前))
2009-12-29 22:11:11
だいぶ以前に、
加守廃寺六角堂跡の現地説明会に行きました。
ここは大津皇子の鎮魂堂ではないかと、
全国的に盛り上がりましたね。
その背後の細い細い道を登らされて、
重文金銅製骨蔵器の発見された場所を見せてもらいました。
現地説明会でも、
ここまで登った人は少なかったようです。
香芝の穴虫からは、
威奈大村骨蔵器も出ていますね。

このあたりは、問題には出ないでしょうね。^^;
返信する
素晴らしいレジュメ (独楽)
2009-12-30 01:39:29
火葬墓気になってました。
自分で整理するより数段素晴らしいテツダ様のレジュメで頭が整理できました。

今年は文禰麻呂墓が出るんじゃないかなあ
返信する
墓誌銘 (tetsuda)
2009-12-30 06:16:29
ikaru(尼御前)さん、畳薦(たたみこも)さん、長田ドームさん、独楽さん、コメント有り難うございました。

> 今年は生駒を散歩しました。新興住宅地の中を歩くと、
> ポカッと遺跡や寺院にぶつかるのが奈良の魅力ですね。

貴ブログ記事、拝見しました。おかげさまで、様子がとてもよく分かりました。

> 加守廃寺六角堂跡の現地説明会に行きました。ここは
> 大津皇子の鎮魂堂ではないかと、全国的に盛り上がりましたね。

これは存じませんでした。二上山の周辺には、大津皇子関連の遺跡が多いのですね。

> 太安万侶墓を筆頭に「墓誌銘」があった所と言え
> そうな気がする。ちゃんと調べないといけないが。

なるほど。墓誌があるから、被葬者が確定できるのですね。上の記事のテキスト引用文中に、「墓誌(銘)」とある部分を追記しておきました。ご指摘、有り難うございました。

先日、直木孝次郎著『奈良』(岩波新書)の「あとがき」を読んでいて、古事記の「いのちの 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)にさせ その子」というヤマトタケルの思国歌(くにしのびうた)を発見しました。畳薦さんのハンドルネームも、平群町の「くまがしステーション」の由来も、いっぺんに分かりました。

> 今年は文禰麻呂墓が出るんじゃないかなあ

独楽さんの第六感が的中すれば、もうけものですね。
返信する
宝山寺&1300年祭 (畳薦)
2009-12-30 12:59:30
 生駒の宝山寺に参拝(見学)、生駒駅からの長い坂道、石段はなかなかいい。独特の門町町、精進落としの「歓楽街」。歓楽が日常化して寂れるのは仕方がないか。「獅子閣」はやはり修復工事中でシートの中、来年3月に完工、外構も5月に完成とのこと。ここも信貴山もなかなか良くできた信仰の「装置」、「信心」のセンターである。「本堂?」の真ん前にまで鳥居があって、鈴がぶら下がっている。「神仏習合」は我々には自然なことだ。「阿修羅」だってあれは厳密には仏像では無かろう。般若窟の岩山が信仰の起源だろう。
 帰途、駅で遷都1300年祭行事の一環の「碑仏特別公開」のパンフレットを入手。東大寺「五劫院」の公開があるのが嬉しい。確か年に一日だけだったので未拝観、頭塔もこの公開期間に行きたい。興福寺国宝館もリニューアル工事にはいるようだ。
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明日香の栗原寺跡では? (迷い人)
2009-12-30 18:08:15
 初めてのコメントで恐縮しますが、道昭の火葬の地は明日香の栗原寺跡で、公式テキスト133ページの粟原寺跡とは違うと思いますが・・・
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明日香村栗原(くりはら)でした! (tetsuda)
2009-12-31 04:07:43
畳薦(たたみこも)さん、迷い人さん、コメント有り難うございました。

畳薦さんは、宝山寺へ行かれたのですね。もう、お正月モードだったでしょう。

> 東大寺「五劫院」の公開があるのが嬉しい。確か年に一日
> だけだったので未拝観、頭塔もこの公開期間に行きたい。

五劫院の仏さま(五劫思惟阿弥陀仏、通称・アフロ仏)は、近鉄の「近畿文化会」で拝観しましたが、お薦めです。境内には公慶上人のお墓もあります。頭塔(ずとう)の特別公開では、私の会社のOBがスタッフとして詰める予定です(もしかしたら、私も)。

> 道昭の火葬の地は明日香の栗原寺跡で、公式
> テキスト133ページの粟原寺跡とは違うと思いますが…

おお、これは失礼しました。ご指摘、有り難うございます。早速記事を修正しました。皆さん、檜隈の栗原(くりはら)でした、ごめんなさい!
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