tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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限界集落の真実 「過疎の村は消えない!」

2013年01月08日 | ブック・レビュー
 限界集落の真実: 過疎の村は消えるか? (ちくま新書)
 山下祐介
 筑摩書房
山下祐介著『限界集落の真実 ― 過疎の村は消えるか?』(ちくま新書)924円を読んで、目からウロコが落ちた。毎日新聞(2012.12.9付)の「2012年 この3冊」(今週の本棚)で、経済学者で京大名誉教授の伊藤光晴氏が「過疎の村のほとんどは、消えるどころか、問題もなく存続している。戦後の日本の人口移動を正確にとらえ、アカデミックな実証研究の上に立つ力作」と紹介していたので、気になっていたのである。お正月休みに時間ができたので、一気に読み終えた。

限界集落とは何か。Wikipedia「限界集落」によると《過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になっている集落を指す》《中山間地域や離島を中心に、過疎化・高齢化の進行で急速に増えてきている。このような状態となった集落では集落の自治、生活道路の管理、冠婚葬祭など共同体としての機能が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされている。共同体として生きてゆくための「限界」として表現されている》。つまり限界集落は早晩「消滅集落」入りするというのだ。

《社会学者・大野晃が、高知大学人文学部教授時代の1991年(平成3年)に最初に提唱した概念である。もともと大野の研究では林業の衰退と再建をテーマにしていた。輸入木材によって国内の林業は衰退し、山村の人口減と高齢化、それにより、手入れの行き届かなくなった人工林(ことに、スギ・ヒノキの針葉樹林)の荒廃、さらには集落そのものの消滅が進みつつあった。大野は、集落の実態調査を進めてゆくうち、その現状を指摘するためには「過疎」という用語では実態とずれていると思った。そこで、より深刻な実態を指摘するために生まれた用語が「限界自治体」「限界集落」であった》。

しかし実態は違った。版元のHPによると《消滅しそうな集落などいったいどこにあるのか?「限界集落はどこも消滅寸前」は嘘である。危機を煽り立てるだけの報道や、カネによる解決に終始する政府の過疎対策の誤りを正し、真の地域再生とは何かを考える》。

《高齢化が進み、いずれ消滅に至るとされる「限界集落」。だが危機を煽る報道がなされているのに、実際に消滅したむらはほとんどない。そこには逆に「限界集落」という名付けをしたことによる自己予言成就―ありもしない危機が実際に起きる―という罠すら潜んでいる。カネの次元、ハードをいかに整備するかに問題を矮小化してきた、これまでの過疎対策の責任は重い。ソフトの問題、とりわけ世代間継承や家族の問題を見据え、真に持続可能な豊かな日本の地域社会を構想する》。

うーむ、これは話が違うではないか。私は毎年のように訪れている川上村(奈良県吉野郡)が2010年10月1日の県調査で、65歳以上人口が50.4%に達したと知り、心配して「限界集落・川上村を元気に!」というブログ記事を書いたこともある。今も、52.5%が65歳以上である(2012.11.30現在)。しかしいつ訪れても村は十分に元気なので、不思議に思っていた。

 限界集落と地域再生
 大野晃
 Kochi Shinbun

『限界集落の真実』の目次は
序 むらは消えるか―東日本大震災を経て
第1章 つくられた限界集落問題
第2章 全国の過疎地域を歩く
第3章 世代間の地域住み分け―効率性か、安定性か
第4章 集落発の取り組み
第5章 変動する社会、適応する家族
第6章 集落再生プログラム


では、本文から要所を抜粋してみる。

■「問題がないのが問題だ」
まず、ある地域での一コマから始めることにしよう。筆者がフィールドワークとしている青森県某町での取材風景である。某町A集落は、津軽半島北端の海岸部にある。津軽半島一帯は、もともとはアイヌの活動地帯であり、江戸時代の記録にはそうした人々の姿を確認できる。しかしむろんいまはアイヌ系の集落は見当たらず、沿岸に点在するのは、多くが漁の網元や雇いの漁師が定着してできた和人の集落である。A集落に暮らす人々の家系も、もともとは漁業、海運に携わって財をなした人々であり、ここは豊かな海村だった。

しかし現在、人口約80人。うち65歳以上人口比率が70%を超える。限界集落とは高齢化率が50%以上の集落のことだから、ここも定義上、立派な限界集落である。そこで、町会長さんに話を聞いてみると、意外なことを言う。「ずいぶんと、ここには記者さんたちが来ました。困ったことはないかと聞かれる。一番困るのは困ったことがないことです」。

いまここで生活するのにとくに困ることはない。確かに若い人たちはこの地域から出て行った。しかし残った高齢者も多くは元気で暮らしており、山の畑に行ったり、漁に出かけたり、村の会合に出たり、祭礼を行ったりを毎日忙しく過ごしている。

多くの過疎集落でいま、人口減少が進むでけでなく、高齢化率(65歳以上人口比率)が高くなってきている。しかし高齢化率が高いから、集落の解体がすぐに起きるわけではない。年寄りばかりになっても、助けがなければ生活が崩壊するという状況にはない。これでは、「限界などと言うな!」という方が確かに正しい。

では集落の限界は本当にないのだろうか。今後ともこうした集落は、同じように続いていくのだろうか。過疎高齢化の現実は、放っておいてよい状況にあるのだろうか。

■集落消滅は本当に生じているのか
大野晃氏の限界集落論では、65歳以上の高齢者が集落の半数を超え、独居老人世帯が増加すると社会的共同生活の維持が困難な「限界集落」となり、この状態がやがて限界を越えると、人口・戸数ゼロの集落消滅に至るとされている。すなわち、「高齢化の進行→集落の限界→消滅へ」というプロセスが予言されているわけである。

この限界集落の概念は1990年前後に提起されたが、大野氏自身が言うように、それは注意喚起のためのものだった。このまま放っておけば危機が来るかもしれませんよという、将来のリスクを示すものだったのである。しかしその警告から20年経って、集落が現在もいまだに維持されていることを考えると、この「高齢化→限界」図式による集落消滅の予言は当然のことながら再検討されなければならない。

そこで問題となるのが、2007(平成19)年8月に国が発表した、過去7年の間に、過疎地域だけで191の集落が消えたという数字である(『国土形成計画策定のための集落の状況に関する現況把握調査』、以下、2007年国調査とも示す)。この数字は、メディアでセンセーショナルに取り上げられ、何度も繰り返し報じられた。

だがその内容を見てみると、ダム・道路による移転や集団移転事業、自然災害等が含まれており、高齢化のために共同生活に支障が生じ、消滅に至った集落が191あったというわけではない。それどころか、本章でみていくように、調べた限りでは高齢化の進行による集落消滅は、全国の中でまだ一つも確認できない。

■限界集落は非効率的な場か
限界集落のような、効率性の悪い地域には、この際消滅してもらった方が良いのではないか―過疎問題に取り組んでいると、こうした意見を良く聞くことがある。テレビの報道などで識者やコメンテーターも発言しているくらいだから、世論とまではいかないまでも、広く世間にくすぶっている潜在的意見と言ってよいのだろう。

実のところ、この問いは、突き詰めていくと論理的に自己矛盾をきたし、問いを発した人自身を破壊しかねない、根源のところで間違っているというべきものである。

まずこの問いが正しいとして、では何を持ってその「効率性」を判断するべきだろう。歴史を大きく遡ってみよう。超高齢地域のうち、多数を占める山村は、本来はきわめて効率性の高い地域だった。山村の多くが、採集狩猟と農耕をベースとして自給自足を実現しうるような場所が選ばれ、切り開かれている。

一部の地域が効率が悪いとされるようになってくるのは、食料や燃料、原料生産の業種が国際的な市場経済の波に押されるようになってからであり、たかだか数十年のことにすぎない。

■他者が判断できるのか―医療のアナロジー
集落存続の問題は、医療倫理の問題などと非常に似通った面があることに注意しよう。患者が不治の病にかかっている。いま作動している生命維持装置を外せば、患者の命はない。装置にはそれなりの経費がかかるから、経済性だけを考えるなら、この人の命を長らえることは無駄である。しかし、では誰がそれを判断するのだろうか。そもそも、その患者の生命は本当にあと数日だとする明確な根拠はあるのだろうか。もしかするともっと生きながらえるかもしれないし、その間に新たな治療法が解明されるかもしれない。

その地域の将来を決めるのは、他人ではなく、本人自らであるべきだ。個人に置き換えればすぐにわかる。「あなたが生きているのは世間に取って無駄なので、早いうちに亡くなってはいかがですか」。「効率性の悪い地域は消えた方がよい」という議論は一見合理的に見えるが、いわば右のような発言と同じことを、ある特定の地域に対して言っているのである。

■効率性の価値vs.安心・安全・安定を求める価値
効率性・経済性・合理性を追求する立場がある。現代日本社会では、とくに1990年代以降、この価値が急速に我々を取り巻き、絶対的価値のように振る舞い始めた感がある。これはおそらく、より新しい世代が社会の激変の中で編み出してきた、新しい時代を乗り切るための新しい思考法なのだろうか。

他方で、我々の生活の中では、「このささやかな暮らしがいつまでも続きますように」、「自分の子孫や孫が、大きな苦しみや不幸に見舞われることなく、安心・安全のうちに過ごせますように」、こういう願いもまた、当然の価値として存在する。これは、世代を越えて親・子・孫へと受け継がれてきた価値である。

前者が自由主義・競争主義を軸とした、平成日本に現れていた新しい主導的価値であるとするなら、後者はもともと日本社会に根付いてきた伝統的価値と言えるものだ。ところで前者がたしかに新しい時代に適合するためのものであるとしても、それがつねに勝者・敗者の色分けに専念するのに対して、後者の価値は旧態的ながらも、我々人間一人一人を大切にし、また他者の暮らしを尊重することにもつながる、共生の理念と言ってよいものである。

むろん、社会が存続していく上で、全体の効率性の観点は無視されるべきものではなく、激動の時代の中で経済や国家を運営していくのに必要不可欠なものではある。しかしまた、効率性を重視するあまり、暮らしの「安心・安全・安定」が脅かされるなら、何のための効率性なのかということにもなる。

ところで、この二つの価値は、議論の展開の仕方においても、大きく異なる性格を持っている。効率性を重視する価値の観点からすれば、限界集落をどう扱うべきかの問題は、過疎高齢化の進んだ集落を、政府や専門家、あるいは経済がいかに支え、救えるのかという発想にならざるをえない。そしてこの発想から始めれば、その結末も当然、何をどこまで救済すべきなのかという話になるのも道理なわけだ。

しかし、暮らしの安全・安心・安定の価値から見れば、政府や行政がどう救うかという発想以前に、地域の中で暮らす人々自身がどうしたいのか、あるいはこの地に関わりのある人々が今後もこの地とどう関わり、どう行動するつもりなのか、当事者たちの主体性が問われることになる。あるいは、すでにふるさとを失った人間にとっても、本来、日本社会を構成する重要な基盤であったむらや町といった地域社会を、自分自身も含めて今後、どのように社会全体として受け継ぎ、日本という社会をどんなふうに設計したいのか、他者の問題ではなく、自分自身の問題として問うことである。

■福島第一原発事故の暗い影
結局、雇用の問題と言っているのも、本当は「暮らし」の問題として考えるべきものなのである。

「雇用が欲しい」などと発想していたのでは、その解決も誰かに委ねるしかなくなる。しかし、これが「暮らし」であれば、「暮らし」は自分たちの手で工夫可能な領域だ。そこから発想することが、問題を切り拓き、力を動員する手がかりになる。

■メディアが左右するリスク問題の現実
メディアが問題をポジティブに取り上げることで、現実にもポジティブな反応が現れる。

実像とは慣れた演出はむろんすべきではないが、メディアの認識、メディアの理解ひとつで、都市と村落の関係性は大きく改善する可能性がある。

■成長モデル・競争モデル・衰退モデル
これまで我々が従ってきた「成長モデル」は、当たり前すぎて否定は難しいものだった。しかし、人口減少に入ったので、人口増加を前提にしたこのモデルは、時代の要請としても転換が求められつつある。

いま台頭している「競争モデル」や「衰退モデル」から派生する、「効率性の悪い地域はこの際消えてもらった方がよい」という議論、中心による周辺の切り捨てを正当化しうるこの議論から、いかに別の、ポジティブな発想へと切り替えていけるかが問われている。

■大都市の暮らしと地方の暮らし
大都市住民の孤立、無力さ。このことと、限界集落問題は表裏一体のものと理解すべきだ。大都市の暮らしは、一見、効率がよさそうに見える。しかしそれは個人を犠牲にした巨大な都市システムによって成り立っているのであって、その犠牲は、地方や村の暮らしとは比較にならないほど大きなものだ。そしてその都市システムは、巨大化しすぎて人間の手が届くものではなくなっており、予想を超えたことが生じた場合には、個人を守るどころか、さらに個人に犠牲を強いるようなものでさえある。

■周辺発の日本社会論へ
日本社会はいまこそ大きな転換期を迎える。しかもこれから起きる転換は、どうも良い方向には向いていないようだ。我々は、この先の舵取りをどちらへと見定めればよいのだろうか。この書を通じて示したかったのは、このことを、中心からの視点ではなく、周辺からの視点で考えていくことで、現在の我々が迎えている閉塞状況の本質を見極め、またそれを乗り切る答えを探すことができるかもしれないということである。


いかがだろう。《高齢化の進行による集落消滅は、全国の中でまだ一つも確認できない》《地域の将来を決めるのは、他人ではなく、本人自らであるべきだ。個人に置き換えればすぐにわかる》《効率性を重視するあまり、暮らしの「安心・安全・安定」が脅かされるなら、何のための効率性なのか》《大都市住民の孤立、無力さ。このことと、限界集落問題は表裏一体のものと理解すべきだ。大都市の暮らしは、一見、効率がよさそうに見える。しかしそれは個人を犠牲にした巨大な都市システムによって成り立っている》…。

私はよく吉野郡などの山村に出かける。お年寄りたちにもよくお会いするが、皆さんとても若々しくて元気がいい。明るく前向きに、田畑や山の仕事、地域の活動などに取り組んでおられる。まさに「一番困るのは困ったことがないことです」という状況なのである。

過疎地での生活は不便だとか気の毒だというのは、都市生活者がうわべを見て勝手に判断しているに過ぎない。過疎の村にこそ、麗(うるわ)しき「コミュニティ」が残されているのである。「孤立、無力さ」がうかがえる都市生活の方が「困ったこと」である。戦後の高度成長からバブル崩壊まで、金科玉条としてきた「成長モデル」は、見直すべき時期に来ている。過疎だが幸せに暮らしているムラからの視点で、閉塞状況にある都市生活の問題を考えるべきなのだ。

昨日紹介した『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』では、経済成長していない村落で、現実に豊かで楽しそうに生活している人がたくさんいるという事例が紹介されていたが、私の頭の中では、この本と『限界集落の真実』は、つながっていたのである。これからは「限界集落」などという失礼な言い方は、厳に慎みたい。皆さん、ぜひ本書をご一読ください!
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満足を知る人々 (まりも)
2013-01-09 22:39:24
鉄田さん 
ブログ拝見し、以前に鉄田さんとお話した川上村の井光を訪れた時のことを思いだしていました。
紛れもない「限界集落」の範疇にはいる集落に暮らす人々の何とも穏やかで幸せそうに見えたことでしょう。
同行した友人は「ここは日本のブータンやな」と言いました。そういった集落には物質でない、心の満足を得ている人がたくさんいるということが訪れればわかります。

先日ある先生の講演会で紹介されて読んだ『逝きし世の面影』渡辺京二(平凡社)ー近代化以前の日本を訪れた外国人の目からみた日本および日本人についての著作です。著者はここに描かれている文明は滅亡している、と最初に書いてから筆をすすめているのですが、私はそこに描かれている日本人、確かに現在の一般的な日本人とは異なる「純朴で満足を知る」人が今も「限界集落」と呼ばれるところにはおられるように感じています。
もう滅びてしまったかと思われる私たち先祖の血脈をいまも感じさせてくれるこういった集落を「限界集落」といった希望のない言葉で切り捨ててほしくないです。
奈良ファンならだれもが感じていることではないでしょうか。
麗しきコミュニティ (tetsuda)
2013-01-12 10:10:44
まりもさん、コメント有難うございました。

> 「限界集落」の範疇にはいる集落に暮らす人々の何とも穏やかで幸せそうに見えたこと
> でしょう。同行した友人は「ここは日本のブータンやな」と言いました。そういった集落には
> 物質でない、心の満足を得ている人がたくさんいるということが訪れればわかります。

はい、全くその通りです。私はここ何年か、毎年川上村を訪問しています。皆さん生き生きとしていて、お年寄りも元気に楽しく暮らしておられ、いつも元気をもらって帰ります。

> 私たち先祖の血脈をいまも感じさせてくれるこういった集落を「限界集落」といった希望のない
> 言葉で切り捨ててほしくないです。奈良ファンならだれもが感じていることではないでしょうか。

私はもう「限界集落」という言葉は使わないようにします。あまりにも失礼ですから。県下にはこのような「麗しきコミュニティ」がたくさんあります。こういう所に「寂しき都市生活者」を連れて行きたいと思います。
ご紹介ありがとうございます (たもり)
2016-06-14 20:52:27
読ませていただいて、ありがとうございます。
色々考えさせられます。

P.S.ジャケットとリュックはおnew(古いことばでしょうか)ですか??今朝は失礼なことを申しました(^_^;)
初瀬郷 (tetsuda)
2016-06-15 13:41:22
たもりさん、コメントありがとうございました。

> 読ませていただいて、ありがとうございます。色々考えさせられます。

はい、安易に「限界集落」と言わないようにしましょう。初瀬も人口が減っていますが、お年寄りの皆さん、とてもお元気でしょう?

> ジャケットとリュックはおnew(古いことばでしょうか)ですか??

あのリュックは退職祝いにいただいたもので、おろしたてです。デニムのジャケットは少し古いですが、気に入って使っています。何しろ私は、お父さんと同じビートルズ世代ですから。

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