意志による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

魏志倭人伝の謎を解く(三国志から見る邪馬台国) 渡邉義浩 *****

2016年10月29日 | 本の読後感

魏志倭人伝の謎解きは数多いが、邪馬台国の位置、記述内容の解説に関する本書の仮説は、三国志が書かれた時代の中国の政治的背景から解説されていて、一番真実に近いと思わせる。その仮説は、三国に分かれて争っていた魏、呉、蜀、場所的には今の揚子江の北側の東シナ海側に位置する魏とその南に位置する呉、内陸部の蜀、という位置関係が重要になる。魏にとっては三国以外の近隣諸国との協力関係を示すことが重要であった。

その魏の視点と立場から、三国の周囲には魏との友好国であり有力な国があることを示すために、西には今のインドの位置にあったクシャーナ朝である大月氏国と東に位置する倭国に親魏XX王と記述する。全30巻である魏志の中で周辺国についての記述は1巻のみ、その中で親魏XX王と記述されたのは大月氏と倭だけであった。魏からみて東には朝鮮半島があり、そこには楽浪郡があり、その先には帯方郡があった。倭はそのさらに東にあることは魏としても認識していたのだが、その場所はもっと南にあってほしかった。なぜなら海洋支配を強めようとしていた呉の東に位置する場所に魏の友好国で有力な国である倭があってほしかった。魏志倭人伝を記述する際に倭国からの報告を聞いていた倭人伝の筆者は、嘘はかけないが、その位置を少し南にずらすことは政治的に必要なことだったのではないか、という仮説である。また、魏は当時の朝鮮半島の支配者公孫淵の討伐を行い、ちょうど卑弥呼の最初の使者が帯方郡に至った頃には公孫淵が魏の司馬懿に滅ぼされた頃であり、帯方郡、楽浪郡という2つの郡として朝鮮半島を支配下にいれたちょうどその頃であった。

三国志の魏志倭人伝とは魏書30巻、蜀書15巻、呉書20巻の中の魏にとっての夷狄伝が魏書の第30巻、烏桓・鮮卑・東夷伝の東夷の中の倭に関する記述約2000文字である。この文字数は東夷の中では最も多い記述であるが、筆者の陳寿は倭国に思い入れがあったのではなく、卑弥呼に親魏倭王に封建したことを詳しく書きたかった。そのためには、帯方郡から邪馬台国に至る道程と倭の諸国の記述、倭国の地誌と政治体制、朝貢の回数と親魏倭王に封建する制書が他の東夷に比べて極めて好意的に記述された。卑弥呼は最初の使者を帯方郡に送った景初三年(西暦239年)以来、240年、243年、245年と2-3年に一度という絶妙のタイミングで朝貢の使者を魏の洛陽に送っている。これは楽浪郡の太守からの適切なアドバイスがあったのではないかと本書の筆者は推察する。

当時、邪馬台国は倭人伝の道程として記述されている伊都(イト)国、奴(ナ)国、不弥(フミ)国、投馬(トウマ)国を始め30国程度の国家を支配していたが、現在の熊本県菊池に位置する狗奴(クナ)国とは敵対していた。そのことを伝え聞いた帯方郡の太守は、卑弥呼からの使者である難升米に魏の色を示す黄色の旗を下賜した。この意味するところは、狗奴国の人間はその黄色の旗を見て、魏の後ろ盾があることを知るはずだという考えがあったから。つまり、狗奴国は呉の支援を受けていたのではないかと推察する。倭人伝の筆者陳寿としては、帯方郡の制定という司馬懿の功績をたたえ、同時に呉の東方海上に重要な友好国である倭が位置することを表現しておきたかったという。

倭人伝にはその習俗を示す記述として、顔面と身体の入れ墨が紹介されている。これは中国にとっての北狄、東夷、南蛮、西戎の東夷は身体に入れ墨し、南蛮は額に入れ墨する、という礼記の記述があるからだという。この記述からも、倭国が魏の東南方向にあることを強調しているとする。

邪馬台国に至る道程の記述で、不弥国までは里数で記述されているのに、そこから先は水行、陸行で書かれているのは、「史記」の記述に周辺国を開拓した禹の苦労話があり、陸行、水行はその苦労を際立たせる書き方として採用されているからと推測する。未開の国を進むのは大変な苦労であるさまを表しているのである。帯方郡から邪馬台国までの距離は一万二千里とする「魏略」からの数値と、倭国を帯方郡の東南海上に記述したい陳寿の苦労の作であるというのだ。また、洛陽からクシャーナ朝までの距離とのバランスもあったという。バランスには倭人伝に書かれた倭国の大きさや戸数にも現れている。倭国は方五千里、高句麗は二千里、韓は四千里であり、東夷の中で最大である。また戸数は邪馬台国が7万余戸、投馬国は5万余戸、奴国が2万余戸その他を合計すると15万戸、人口にすると80万人程度の大国となる。大月氏国は戸数10万であり、東西の友好国として大きな国であることを示している。

倭人伝からみて邪馬台国が大和であるとする従来からの説の弱点は次のとおりである。

1.方位が実際とは異なる。

2.倭人伝の習俗が南方系である。

3.近畿以西に存在したはずの吉備(岡山)、出雲の記述が道程にない。

本書の仮説では、1は呉の背後に倭国という大国の存在を示したかった、2は魏の東南に位置することを示すための記述、3は「史記」からの辺境国開拓の苦労の記述である、としていて弱点とはならない、というのが本書筆者の主張である。邪馬台国の具体的な場所としては、桜井市の纏向遺跡が考えられるという。理由は、農機具の発掘はなく、全国に広がる土器や、日本には当時まだないはずの、鐙(あぶみ)や乗馬に必要な製品、日本に自生しない染め物の染料なども発掘されているからだとする。

最後に倭人伝の現代語訳が付録されていて、全容を確認できる。邪馬台国に関する様々な仮説を検証した上での本書の筆者による仮説であるが、真実に非常に近いという感想を持った。古代史、邪馬台国に関心がある人には必読書である。

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