〔京都市美術館に飾られたモネ展の看板〕
久しぶりにブログを再開しようとして、何から書きはじめたらいいのか迷った。
つい気持ちをゆるめてしまうと、美術などという非日常的なものは、あっという間に日々の生活から飛びすさってしまう。美術にとどまらず、芸術や文学といったものは、人々の全うな暮らしと相反するものにちがいない、という思いが最近しきりにする。
そのせいか、会社などでそこそこの地位についてふんぞり返っているような輩には、情操面が欠けているのではないかと思わせられることが少なくない。そうなるのがイヤで、ぼくは展覧会を観つづけているのだが・・・。
***
〔「モネ展」のチケット〕
先日、京都で開かれているモネ展に足を運んだ。もちろん、モネの絵はこれまで数え切れないぐらい観てきている。今さらモネでもあるまい、という気もするが、やはり思い出したように、時おり無心に眺めてみたくなるのがモネなのだ。
このたびの展覧会は特に、印象派の名前のもとになった『印象、日の出』が出品されるというので注目された(ただしこの稿を書いている時点で、京都展での展示はすでに終了している)。けれどもぼくはこの絵を、2008年から翌年にかけて名古屋で開かれたモネ展ですでに観たことがあった。以後ほんの数年で、それこそ絵の“印象”が変わるとも思えないのだが、やはり教科書や百科事典に載っているほどの名画が身近に来ているとなると、どうしても出かけてみたくなるのが人情というものだろう。
ただ、モネに関しては、昔からぼくの心に引っかかっている疑問がなくもない。それは、多くの画集や論文などに書かれている“モネと浮世絵との関係”といったようなものだ。たしかにモネは浮世絵の収集家だったらしいし、彼の自宅には多くの浮世絵が飾られていたという。庭に桜や柳を植えたり、太鼓橋をかけたり、日本趣味に影響されていることも明らかである。
しかし正直なところ、ぼくはモネの作品から浮世絵の影響を感じたことは皆無といっていい。彼は、セザンヌが看破したように異常なほどの眼の持ち主であった。ただ、そのことは視力のよさとは関係なく、また浮世絵という“他国の伝統”に左右されるものでもなかったのではないかという気がする。あくまで彼の眼と、絵筆を握る右手とは、何ものをも介さずダイレクトに繋がっていたのではないかと思うのである。
そしてさらにいえば、それこそがわれわれの“絵を観る喜び”に直結するのではなかろうか。そんなことを思いながら、京都市美術館に赴いたのだった。
つづきを読む
どこの組織の上層部もふんぞりかえってしまうのでしょうか。
悲しいものです。
くれぐれもご無理なさらずに、がんばってください。
いつも、無茶苦茶な文を読んで下さいまして、ありがとうございます。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。
これからもよろしくお願いします。