てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

無精ひげ南丹紀行 ― 麻田辨自のふるさとへ ― (1)

2007年05月20日 | 美術随想


 麻田辨自(べんじ)という日本画家を知ったのは、いったいいつのことだったろう。その風変わりな名前が広く知られているとは思えないし、展覧会で作品にお目にかかる機会も多いとはいえない。ただ、京都の美術館にはいくつか彼の絵が所蔵されていて、こまめに常設展にかよっているとしばしば出くわすことがあるという程度である。

 ぼくは麻田辨自よりもむしろ、息子である麻田鷹司(たかし)のほうを先に知ったような気がしないでもない。この人もまた日本画家で、かつて回顧展を観たときに強い印象を受けたことがあったのだ。父の辨自に関しては、数枚の絵をときたま見かける以外に何も知るところがなかったが、『唐崎之松』(上図)という絵が以前からずっと気になっていた。

 これは近江八景のひとつとしてよく知られた琵琶湖畔の松で、古来さまざまな日本画家が手がけている画題だが、それにしても松の木を黒一色で描き切っているのがぼくには驚きだった。やや不謹慎なたとえをすれば、焼けて炭化してしまったようにさえ見えるではないか?

 だがこの絵に何度か対面するうち、ずっしりと量感をたたえた松の表現がぼくを惹きつけはじめた。それは一本の木というよりも、ある得体のしれないかたまりとして描かれているように見えてきたのだ。対岸に三角の頭を小さくのぞかせる近江富士と、広大な湖を隔てて対峙するこの不思議な植物が、何ともいえない凄みをもって迫ってくるように思われたのである。

 最近になって、フランスのギメ東洋美術館から里帰りした浮世絵の展覧会を大阪で観た。そこに、同じ松を描いた歌川広重の『近江八景之内 唐崎夜雨』(下図)があったのだが、ぼくはどうしても辨自の松を思い出さざるを得なかった。湖面が背後に広がる辨自の絵とはちがって、広重は湖の上から松を眺めたような構図になっているが、黒々とした量塊のような松の表現と、背景に描き込まれた三角の山とが、辨自の絵とはるかに響き合うような気がしたのだ。



                    ***

 そんな麻田辨自の絵を集めた展覧会が、京都府の真ん中あたりにある南丹(なんたん)市というところで開かれていることを知ったのは、ポスターやチラシなどではなく京都新聞のサイトを閲覧しているときである。南丹市というのもあまり聞きなれない地名だが、去年の1月にいくつかの町が合併してできた新しい市なのだそうだ。なんでも麻田辨自はそこの生まれだということで、郷土出身の画家を広く知ってもらおうと、このたびはじめて地元での展覧会が企画されたものらしい。

 その記事を読んでぼくは食指が動いたが、行くことを長い間ためらっていた。というのもぼくは夜勤の仕事をしているので、昼間の遠出をするにはスケジュールの綿密な調整が必要だからだ。どうしても普段は寝ている時間帯に動きまわらなけらばならないからである。

 ある土曜日の朝、意を決して出かけることにした。その日は家に帰らず、大阪の職場から南海電車と地下鉄と阪急電車と、さらにJRに乗り継ぐという強行軍で京都駅にたどり着き、やっとのことで嵯峨野線の車両に乗り込んだ。そこから園部という駅までのおよそ1時間、車内でゆっくり仮眠でもとろうと思っていたのが大きな間違いで、4両しかない電車はすでに家族連れで満員御礼の盛況だった。考えてみれば、土曜日の朝だからまあ当然といえば当然である。

 しばらく立ったまま電車に揺られていると、トロッコ電車への乗り換え駅で潮が引くように人々が降りていった。ぼくは疲れた体をようやく座席に落ち着けたが、もはや眠気はなく、電車の振動とともに心地よい興奮がみちてくるのを感じていた。ひげの伸びかけた顎をさすりながら外を眺めると、田植えを終えたみずみずしい田んぼがどこまでもつづいているではないか。日本画を観る前のオードブルとしてはもってこいの景色だな、とぼくは考えた。

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乗り換え駅 ギメ東洋美術館
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