山口華楊『鶏頭の庭』(1977年)
山口華楊というと、動物の絵をよくした画家ということになっている。ぼくも以前、華楊の作品を網羅した展覧会を観たときに、動物たちを描いた数々の絵に接した。狐とか猿とか馬とかの、日本画ではお馴染みのモチーフのほかに、珍しい黒豹を描いたものもあった。
けれども、ぼくは華楊のなかで特に、植物を描いた一枚の絵に親しんできた。京都市美術館に行くと、『鶏頭の庭』がよく展示されているからである。こんもりと盛り上がった毛糸玉のような花から、鮮やかな赤がこぼれ落ちそうだ。まるで指先に小さな刺し傷を付けてしまったときの、血の盛り上がりを見るようである。
題名は『鶏頭の庭』だが、鶏頭が庭いちめんに咲き乱れているような景色ではない。背後には何の個性もないような庭石が3つばかり。あとは草むらなのか、むき出しの地面なのか、はっきりとは描かれていない。感じ方によっては、石が宙に浮いているようにさえ思われるだろう。曖昧な風景である。
そこに丈の高い勇壮なる鶏頭が一本と、やや小さいのが一本、並んで咲いている。天に向かって直立しているようで、寄り添うようにほんの少し傾いでいるところが、何とも微笑ましい。それにしても、この庭に鶏頭が描き込まれただけで、度の合った眼鏡をかけたときみたいに視界がくっきりと冴え返る。あの退屈な庭石も、おさまるべきところにおさまったように感じられるのは不思議だ。
おもしろいのは、色彩の扱いである。垂れ下がっている鶏頭の葉が、途中から紅葉したように赤く色づいている。実際の鶏頭はどういう色をしているものか、ぼくはよく知らないのだが・・・。さらによく観ると、背景の庭石の周囲もぼんやりと赤らんでいる。鶏頭の色が、大気のなかにしみ出してしまったように思える。
今の言葉でいえば、この鶏頭には“オーラがある”とでもいうのだろうか。多くの人を酔わせるほど爛漫たる花を咲かせるわけではないが、まるで高潔な貴族が静かに立っているのを見るように、侵し難い品格を放っているのである。
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小野竹喬『夕雲』(1965年)
小野竹喬も、何気ない風景のなかに気品を見いだす天賦の才を備えていた。『夕雲』には、葉っぱ一枚描かれていない。うら枯れた、ものさびしい光景である。細く伸びた枝の先端は白茶けて、過敏な神経のように天に突き刺さっている。
でも、それがあたたかい茜空に包まれると、あふれる詩情がそれこそ雲のように湧き出してきて、たちまち画面を覆ってしまう。若いころは模索を繰り返した竹喬だが、この茜色に出会ったことで、忘れがたい名画を多く残すことになった。
彼の描く茜雲には、戦死した息子を偲ぶ思いが反映されているといわれる。竹喬はこんなふうに述懐している。
《戦死の報を受け取ったとき、その魂が空にあるような気がした。あのふわりと浮ぶ雲に、その霊が乗っているのではないだろうかとよく想った。このごろ、画室にばかりこもって仕事しているわたくしは、窓外の雲を見るのが、ゆかしく、また楽しかった。いつの日だったか、赤い雲を写してみた。それから雲に対して深く興味がわいてきた。》(「小野竹喬展」図録より)
この絵に描かれた木の枝が、心を刺し貫くように鋭いのは、画家の心の痛みをあらわしているからだった。そして茜色は、彼にとって癒やしの色であり、平安への祈りそのものでもあったのだ。
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洋画と日本画にしぼっていくつかの作品を観てきたが、京都市美術館にはさまざまなジャンルの工芸や書道、版画などもあり、それらが横断的に並べられるのがここの常設展示の魅力だといえる。
また機会があれば、他の所蔵品を紹介することもできるだろう。ぼくが一年のうちでいちばん多く足を運んでいるのは、おそらくこの美術館なのだから。
(所蔵先の明記のない作品は京都市美術館蔵)
(了)
DATA:
「京都市美術館コレクション展 第1期 京都にさぐる 美術の『こころ』」
2011年10月28日~2012年1月15日
京都市美術館
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