
桜の季節の京都は、どこも大変な人だ。岡崎公園も例外ではない。大型の観光バスがひっきりなしに行き交い、入学式を終えた学生たちが笑いさざめきながら歩く。子供が泣き叫ぶ声、バイクを吹かす音、そして数え切れないほど大勢の足音・・・。
夕暮れが近づき、そんな騒々しさがようやく下火になりかけるのを待って、美術館へと向かった。いつもならもう閉館してしまう時間だが、今だけ特別に、夜だけ開かれている展覧会があるのだ。といっても、普通の美術展ではない。鈴木昭男とロルフ・ユリウスというアーティストによる、いわば“聴く”ことを主体とした展示で、「ノイズレス」と名づけられているものである。
ロルフ・ユリウスの名前は知らなかったが、鈴木昭男のことはテレビ番組をとおして知っていた。6年ほど前にNHKの教育テレビで「音のかなたへ」という講座があり、その中で鈴木のことが紹介されていたのである。彼は“音を聴く”ことの意味を問い直しつづけている人物らしい。
それから何年かして、大阪港にあるレンガ倉庫の薄暗い空間で、鈴木の作品に接する機会があった。彼が考案した楽器「アナラポス」を使ったインスタレーションである。ブリキの缶をバネでつないだ糸電話のようなものが上からぶら下がっていて、バネを指ではじいたりすると金属的なエコーがかかり、不思議な響きを奏でた。それはたしかに、生まれてはじめて聴く音であった。
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今回の「ノイズレス」も、そのような創作楽器の展示かと思っていたのだが、そうではなかった。別の日には、鈴木昭男自身がそれらの楽器を持ち込んでライブ演奏をしたりもしたようだが、ぼくが出かけたときには、美術館のだだっ広いロビーの片隅にひっそりと作品があった。
いくつかのモニターが床に置かれていて、どこかの池を写した映像が流れる。池はかすかにさざ波立ったり、雨にうたれて揺らめいたり、鏡のように静まったりする。しばらく眺めていると、少しずついろんな音が聞こえてきた。虫のすだく音、どこか遠くで鳥が鳴く声、雨の降る音・・・。よく見ると、あちこちに小さなスピーカーが置かれている。中には、お吸い物を入れるお椀の中から音が聞こえてくるものまである。
それぞれの音は、とても小さい。この展覧会が夜間に開かれているのも理解できる。ちょっとした騒音にも掻き消されてしまいそうな、可憐な、弱い音なのだ。だが、じっと耳をすましてたたずんでいると、それらの音が重なり合い、得体のしれないオーラとなって、ぼくの体をゆっくりと包み込んでくるのがわかるのだった。
作品の周りには20人ほどの人がいたが、誰ひとり口をきかず、床に敷かれたカーペットの上を音もなくゆっくりと歩く。地面に座り込んだまま、じっと耳を傾ける人もいる。昼間の雑踏の中から抜け出してきた、選ばれた何人かだけが、この静かな、それでいて豊かな空間を共有することを許されたかのようだった。
30分ほども、そこにいただろうか。この場を去らなければならないことを心残りに思いながら、出口をくぐって美術館のエントランスへと出ていった。何人かの人が売店で買い物をしたり、足音を響かせて歩いたりしている。そんなごく当たり前の音が、耳を聾するほどうるさく感じられるのにぼくは驚いた。
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ぼくは以前、クラシック音楽にのめり込んでいたころ、“聴く”という行為の難しさをつくづくと味わったことがある。音楽は“流す”ものではなく、意志をもって“聴く”べきものだと信じていたぼくは、どうすれば一音たりとも聴き逃すことなく音楽を鑑賞できるか、本気で悩んだものだ。眼を閉じたほうがいいのか、眼の前のどこか一点を見つめていたほうがいいのかなどと、あれこれ試行錯誤を繰り返した。
だが、実際には音楽に集中しようとすればするほど、必ず雑念が邪魔をするのだった。早く寝よう寝ようと思っていると、反対になかなか眠れないということがあるが、それと似ているかもしれない。
鈴木昭男も、実は同じような体験をしていたようである。彼は音楽を“聴く”のではなく、もっぱら自然の音を“聴く”ことにこだわっているのだが、彼はその行為を徹底させるために、他の誰にも邪魔されない、“聴く”ためだけの場所を作り上げた。山の中に2万個ものレンガを積み上げ、向かい合わせに立つふたつの壁を築いたのである。音だけが行き交う空間に座り、日の出から日没までのあいだ、ひたすら自然の音だけを聴きつづけるために。
だが、予想もしなかった事態が彼を襲う。
《聴くということに集中すればするほど、音は逃げてゆき、概念(名称)だけが耳のなかでこだまし始めたのだ。「あっ、烏が鳴いている。こおろぎの声がする・・・・・・」。音は瞬間的に烏やこおろぎという名前に転化し、音そのものと向き合うことを阻んだ。概念の世界に捕らえられてしまったのだ。目の前の壁ですら、何かの模様に見えてくる。それを意識的に削らねばならないことが、苦しみを倍化させる。一見のどかなこのプロジェクトは、担い手に辛苦を与え始めた。こんなはずではないという焦り。それをどう乗り越えたらいいのか。
(略)彼のとった戦法は「聴く」ことから逃げることだ。集中を放棄して、ぼーっと座る。「聴く」のをやめる、というより「聴くという意識」から逃れ出る。それはしかし、プロジェクトの意義の根幹にかかわることだ。「聴く」プロジェクトであるのに、「聴く」ことをやめるとは。しかし彼は潔く聴くことを放棄した。
ところが、それが思わぬ転換を生む。何も聴かないようにしたとき、とても充実した気分が自分のなかに満ちてきた。リラックスした状態になると、こんどは思いもかけない音が耳に飛び込んできた。山の向こうを走っている車のタイヤが小さな石粒を跳ねる音など・・・・・・。完全に解放された気持ちにつつまれ、「耳がガリバーのように大きくなっていくのを感じた」という。》(NHK人間講座「音のかなたへ ― 京都・アジア・ヨーロッパの音風景」中川真)
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世の中には過剰な音があふれている。それを遮断するために、もっと大きな音を出す。この悪循環がいつまで繰り返されるのかと考えると、暗澹としてしまう。世の中は永遠に、うるさくなりつづけるばかりではないか?
だが、いちばんこわいのは、人間の耳がそれに慣れてしまうことだ。いや、われわれの耳はすでに、騒々しい環境に慣らされてしまっているのかもしれない。音を“聴き流す”とは、そうやって生み出された新しい習慣ではないだろうか。
「ノイズレス」は、そんなぼくたちが忘れかけていた“聴く”ことの原始的な喜びを思い出させてくれた。
DATA:
「“ノイズレス” 鈴木昭男+ロルフ・ユリウス展」
2007年4月3日〜4月15日
京都国立近代美術館
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昭男さんの音は自分がカラッポになれて、自然と体に入ってくる感覚がとても気持ちが良いので大好きなんです。
久々に音に触れる事ができ、本当に満足しました。
また訪問させていただきます。
本当にそのとおりだと思います。聴くことの意味を、改めて考えさせられました。
またのお越しをお待ちしております。
鈴木さんの表現される”音”はいろんなものを洗い流してくれるような気がしました。時間も少なめだったので又機会があれば、ゆっくり聴きたいと思っています。
他の随想読ませていただきました。
須田氏、イサムノグチ氏など、深い洞察と文章に読み入ってしまいました。
今後の随想、楽しみにしております。
鈴木さんはあちこちでいろんなコンサートをやられているみたいですね。ぼくはまだご本人をお見かけしたことがないのですが・・・。
拙ブログへのまたのお越しをお待ちしております。