てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

公募展の初夏(1)

2012年06月03日 | 美術随想

〔「第67回 春の院展」のチケット〕

 東京の話ばかりだらだらと書いているので ― しかもたった一日しか行っていないのに、まだ終わりが見えないのだが ― ときには近況報告も挟んでおく必要があろう。

 東京ばかりでなく、近畿の展覧会にも毎週のように出かけているが、「これはぜひ書いておきたい」という絵になかなか出会えない。もちろんその気になれば書けないでもないが、より刺激的で、しかも考察を深める好機となるような内容ということで選ぶと、やはり今書いている東京の件を優先したくなる。別に、関西には観どころのある展覧会が少ないというわけではないけれど・・・。

 それでも、ほぼ毎年欠かさず行っている「春の院展」には出かけたかった。今年は久しぶりに大阪でも開かれたそうだが、会場がJR大阪駅の三越伊勢丹と聞いて、そっちはやめにした。以前に観た「石踊達哉展」の劣悪な環境に懲りたので、できればもう行きたくなかった。

 それで、いつものように京都高島屋のグランドホールへと足を運ぶ。ここは会場内に絨毯が敷かれていて足に優しいのと、順路の表記が非常にはっきりしているので、好きなのだ。ただ、隣接する売り場の呼び声やBGMが聞こえてきてしまうのは玉にキズだが、贅沢はいっていられないだろう。特に午後6時から料金が半額になるというのは、手元不如意の身分にはありがたい。

 けれども「春の院展」は点数が多いのと、時間を気にせずできるだけじっくり観たいのとで、あえて特典を利用せず早めに入るのがならわしになっているのである。

                    ***

 近況報告、などといいながらもここで昔のことを思い出したいのだが、まだ美術に関心をもつずっと前の小学生のころに、生まれ故郷である福井で「院展」と「日展」と「二科展」を観たことがあった(ということはモーパッサンの表紙絵で出会うよりも前に織田廣喜の絵を観ていたはずだが、覚えていない)。もちろん自分の意志ではなく、親か祖母に連れられて行ったのだろうと思う。

 なぜそれらの公募展を観たのかがわかるかというと、展覧会の記念にいつも絵はがきを一枚だけ買うことが許されていたからだ。作者が文化勲章クラスの有名人か、それとも無名の新人か、そんなことは全然関係なく、子供だったぼくの琴線に触れたものだけを選んで買ってもらった。

 「二科展」のときは、たしか弟と一緒に行った。ぼくが買った絵はがきは覚えていないが、弟が買ったのは、東郷たまみという画家の絵だった。この人が東郷青児の娘さんだということを知ったのは、ずいぶんあとのことである。

 そして「日展」で買った絵はがきは、のちに東山魁夷の絵だったことがわかった(タイトルは失念)。もうひとつ、「院展」で買った一枚は、緑のテーブルの上に赤ピーマンが乱雑に置かれているという色鮮やかな図柄がとても印象に残っていたのだが、もうすっかり大人になってから滋賀県立近代美術館で思いがけず再会することになった。小倉遊亀(ゆき)の『厨のもの(二)』という絵がそれであった。

                    ***

 ろくに美術の知識もない小学生のぼく(と弟)が数多くの出品作のなかから選んだ絵はがきが、東郷たまみと東山魁夷と小倉遊亀だったとは、なかなか観る眼がたしかではないか、と褒めてやりたくなる。もちろん東山と小倉は亡くなってしまったので現在の公募展では観ることができないし、東郷たまみもなぜか最近の「二科展」には出品していないようだ。

 けれども、幼き日にぼくたちの心をわくわくさせるような作品との出会いがあったように、毎年描かれるおびただしい新作絵画のなかにも、心が撃ち抜かれてしまうような素晴らしいものがあるのではないか。そんな期待を抱きながら、今年も「春の院展」に向かったのだった。

つづく
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (18)

2012年06月02日 | 美術随想
所蔵品つまみ食い その3


村山槐多『バラと少女』(1917年)

 夭折の画家、村山槐多の『バラと少女』は、以前から観たかった絵のひとつだった。それがここにあったのか、と思いながら近づいてみる。

 けれども、「火だるま槐多」と称されるほどの燃えるような激しさをこの絵から感じることはできなかった。そこにあるのは、「分別くささを被った」絵であるように思えた。槐多の代名詞であるガランス(茜色)の鮮やかな色彩も、ごく控えめにしか用いられていない。

 ことに気になるのは、背後に描かれた耽美的ともいえる薔薇の花々である。花びらの一枚一枚に至るまで繊細に描かれたそれは、やや少女趣味じみて見えなくもない。

 そして、手前に立つ着物姿の女。彼女は何かポーズをとるわけでもなく、田舎者のような赤い頬をして、ただぬっと突っ立っているだけだ。おそらくモデル馴れしていないこの少女の顔は引きつっていて、極度の緊張状態にあるのが絵を通して伝わってくる。

 まだ青臭い少女の初心(うぶ)さと、背景に咲き乱れる爛熟した薔薇の放埒さが、この絵に大きな断絶をもちこんでいるとはいえないだろうか。それもそのはず、槐多は実際にこの少女を薔薇の前に立たせて描いたのではなく、別の薔薇園で描いた風景を背後に合成したもののようだ。

                    ***

 村山槐多といえば、奔放な生きざまばかりが語られ過ぎるきらいがあるのもたしかだろう。一方的ともいえる熱愛と失恋、結核による早過ぎる死。いってみれば、燃えさかる情熱の見返りとして常に究極の失意を味わった、苦行ともいえる人生だったのではないか。

 ただ、『バラと少女』が槐多21歳の作品であることを考えると、その技術的な水準はかなり高いようにも思われる。先ほどから触れている薔薇は、槐多らしい描き方ではないけれども、もし雑誌の挿画や図鑑のイラストなどの仕事が与えられれば、じゅうぶんに通用するだけのうまさを感じる。

 しかし、それだけでは彼の精神が満たされなかったのだろう。破滅型の芸術家がいる、というのは前にも書いたことだけれど、村山槐多には破れかぶれの魂をもてあます情熱家としての一面と、冷静にペンや絵筆をコントロールし得るような別の一面が混在していて、両者を和解させることは本人にもできなかったのではあるまいか。それを如実に証明するのが、この『バラと少女』にみられる断絶であるような気がする。

 詩作もよくした彼は、「一本のガランス」という刺激的な詩を残している。

 ためらふな、恥ぢるな
 まつすぐにゆけ
 汝のガランスのチユーブをとつて
 汝のパレツトに直角に突き出し
 まつすぐにしぼれ
 そのガランスをまつすぐに塗れ
 生のみに活々と塗れ
 一本のガランスをつくせよ

 (以下略)

 こんな詩を書きなぐりながらも、たったこれだけでは決して優れた画家にはなり得ないことを、村山槐多は知っていたにちがいない。

つづく
この随想を最初から読む
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (17)

2012年06月01日 | 美術随想
所蔵品つまみ食い その2


安井曽太郎『金蓉』(1934年)

 安井曽太郎の『金蓉』は、写真やテレビでは何度も観てきた。切手の図柄になったことも知っている。この日ようやく、実物との対面を果たすことができた。

 それにしても思うのは、なぜこの絵がこれほど有名になったのだろう? ということである。高階秀爾か誰かが書いていたが、このモデルのポーズはちょっと変だ。首が斜めに向いているわりには、上半身はほぼ正面向きになっている。

 ごく普通に人が斜め向きに座ったかっこうを観察してみると、遠近法の原則からいって、奥のほうの肩が手前の肩より高くなることはあり得ない。ましてや手前の腕は肘掛けの上にのせられているのだから、当然ながら肩は少し高く持ち上げられてしかるべきだが、『金蓉』ではそうなっていない、というのだ。たしかに、いわれてみればそうである。

 ただ、念のためにことわっておくけれど、高階は安井の絵を批判するために上記のようなことを書いたのではなかったはずだ。今その本が手もとにないのではっきりしたことは覚えていないが、単なる写実的な描写からは生まれてこない屈折した人物像のおもしろさが、この肖像画にはあるのだろう。

                    ***


参考画像:安井曽太郎『玉蟲先生像』(1934年、東北大学史料館蔵)

 印象的な肖像画を多く残した安井曽太郎だが、『玉蟲先生像』はそのモデルの名前のインパクトとともに、強く記憶に残る作品である。ぼくは何年か前に、関西で開かれた展覧会でこの絵を観た。そして、いい絵かどうかは別に、ある奇妙な感覚にとらわれた。眺めているうちに、自分の体が少しずつ傾いていくような気がしたのだ。

 だがよく観ると、傾いているのは玉蟲先生のほうではないか? そんなふうにも思えてくる。絵に定規をあてがってみるわけにはいかないので、改めてよくよく眺めてみると、先生(旧制第二高等学校の校長だった玉蟲一郎)は威厳のある偉い人であるはずなのに、何となく絵の中心からずれて描かれている。

 その代わりに画面の左側には煙草盆か、何かの容器みたいなものが顔を出しているが、学府の長としての先生の肩書きにはあまり関係ないといわざるを得ない。その結果、「自宅でくつろぐ好々爺」といったくだけた効果を醸し出す小道具となっている。あるいは、それが安井の狙いだったのかもしれない。

 それにしても不思議なのは、畳のへりの線が斜めに描かれていることだ。普通、こんな見え方をするものだろうか? 家の建て方のよしあしを調べる際によくやられることだが、地面にビー玉を置いたら勢いよく転がっていきそうに思える。そのせいでもう老境にあるらしい先生は、傾いた自宅に座って何とか姿勢を真っ直ぐ保とうとしているという、かなり酷な状況に置かれているような気がしてならない。

                    ***

 こういうアンバランスな遊びが、安井の絵にはあるようだ。調べてみると、『金蓉』と『玉蟲先生像』はちょうど同じ年に描かれている。

 『金蓉』も実在のモデルを描いた作品だが、顔を識別するぶんには役に立つかもしれないけれど、たとえば私の腰の部分はどうなっているのですか、と本人に聞かれたら、誰も答えられないだろう。とても椅子に腰掛けているようには思えず、左肘の一点だけで全身を支えているような不思議な構図になっている。だいたいその椅子自体も、部屋のどのへんにどうやって置かれているのか定かではない。

 だが、そのときの安井曽太郎には、そんなことはどうでもよかったのだ。彼は意識するとしないとにかかわりなく、絵画のなかでしか実現し得ない空間のねじ曲げ方を体得していた。そしてそのほうが、眼で見えたありのままの姿を描くよりも、モデルの存在感が豊かに表現できることに気がついていたのであろう。

つづきを読む
この随想を最初から読む
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

赤い帽子の画家 ― 織田廣喜を悼む ―

2012年05月31日 | 美術随想

〔新潮文庫版「モーパッサン短編集II」(青柳瑞穂訳)、表紙絵は織田廣喜〕

 声楽の畑中良輔、音楽評論の吉田秀和、映画監督の新藤兼人と、90歳から100歳にかけての大御所が相次いで世を去っていき、何ともさびしい思いをしているさなかに、今度は洋画家の織田廣喜の訃報が伝わった。二科会の理事長を退いてからわずか10日目、98歳での大往生だった。

                    ***

 今から20年ほど前、ぼくは無謀にも作家を志していた。とにかく物書きになるためには「書くこと」のみならず、一方で積極的に「読むこと」を怠ってはならぬと思い、手に入りやすい文庫本の短編集をよく読んだ。日本の作家では、志賀直哉が特に気に入っていた。そして海外の作家では、O・ヘンリーとモーパッサンがぼくのバイブルとなった。

 今となってはモーパッサンという存在はかなり古びてしまい、彼の作品を手本にして小説を書こうという人はまずいない。けれども、戦争直後の日本ではブームといってもいいぐらい多くのモーパッサンの著作が訳され、読まれたようだ。今でも新潮文庫に入っている新庄嘉章(よしあきら ― 彼のことは「名前について」という記事も参照)や青柳瑞穂の訳は、おそらく当時のものだろう。

 さてそのモーパッサンの本の表紙には、どことなくアンニュイな、デッサンの狂ったような女性の絵が描かれていた。ぼくは決して上手な絵だとは思わなかったが、今思えばこれが織田廣喜との最初の出会いだった。端整ともいえる引き締まった構成のモーパッサンの短編に、熟しすぎた果物のような妖しい香りを放つ織田の画風はあまり似つかわしくないような気もしたが、それから社会に出てさまざまな経験を積み重ねるにつれ、なるほどこういう生々しい世界を反映させた絵なのだな、とひとりで納得することになる。

 本格的に美術にのめり込むようになってからは、ぼくは洋画よりも日本画を観ることに熱心になり、二科会にはほとんど足を運ぶことはなかった。ただ、それよりずっと昔の記憶を引っ張りだしてみると、たった一度だけ、実家の近所の大型ショッピングモールにあったボウリング場をぶっつぶして開かれた団体展のようなものに出かけたことがあり、そこで天井から床まで届きそうな巨大な織田廣喜の絵と出くわしたのを覚えている。

 どんな絵だったかはさすがに忘れてしまったが、どこから搬入したのだろうと思わせるほどの画布の大きさと、にわか作りの展示場の床が歩くたびにぎしぎしという不快な音を立てたことと、学生アルバイトらしい監視員が椅子に座ったまま前のめりになって居眠りをしていたことが、何の関連もなく思い出されるのである。

                    ***

 1998年のこと、滋賀県にある農業公園「ブルーメの丘」の内部に「赤い帽子 織田廣喜ミュージアム」というのができた。建物の設計は安藤忠雄である。織田の作品に赤い帽子を被った女性が多く登場することから、この名がついたという。

 織田は戦後間もないころ、電気の通じていないバラックに住み、太陽が出ているあいだだけ絵を描いた。それになぞらえて、この美術館も照明設備がなく、自然光だけで鑑賞するようになっていたそうだ。日が暮れたらクローズするという徹底ぶりであったそうだが、7年ほどで美術館そのものが閉館してしまった。関西にいながら織田絵画を身近に観られる貴重な場所であったのだが、ぼくはついに一度も行かずじまいだった。

 けれども、織田の描く女性には明るく健康的な日光よりも、なまめかしい夜の人工の灯りのほうがよく似合う気がする。少し陰のある人物像は、華やかな観光都市パリではなく、明らかに裏の顔である。そんな、まるでロートレックやモディリアーニのDNAを引き継いだような絵を描きつづけた画家が日本にいたというのは、不思議なことだと思う。

                    ***

 ご冥福をお祈り申し上げます。

(了)
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (16)

2012年05月30日 | 美術随想
所蔵品つまみ食い その1


〔美術館2階のベランダには重厚な柱が並ぶ〕

 ポロック展のあとに、上の階に展示されている「所蔵品ギャラリー」を観ることにした。

 京都国立近代美術館に行ったときも、最上階にある「コレクション・ギャラリー」には必ず足を踏み入れることにしている。けれども、たいていはその前の企画展を観るのに精も根も尽き果て、半分は抜け殻のような状態になっているので、冷静に鑑賞する気力はほとんど残っていないというのが正直なところだ。

 今回もポロックを観て、頭のなかがカラフルな絵の具の線で充満してしまい、もはや他の芸術を受け入れる余地はないようにも思われた。本音をいえば、そのまま家に帰って寝てしまいたいほどだ。

 けれどもせっかく東京まで来て、生まれてはじめて“東近美”を訪問しているのだから、せめて所蔵品の一端でも観ておこう、というような気持ちでエレベーターに乗り込み、4階で吐き出された。その瞬間、すっかり眼が覚めてしまう。これまで何度も画集で観たことのある名品がずらりと並んでいたからだ。

 まず、写真ではお馴染みの彫刻が並んでぼくを迎えてくれた。荻原守衛の『女』『文覚』、高村光太郎の『手』、中原悌二郎の『若きカフカス人』など。

 ポロックが地面に敷いた大きなキャンバスの上でいくら格闘しても、ついに人間の姿を完全に消滅させることはできなかったように、これらの彫刻に囲まれていると、人間にとって「かたちあるもの」に心を寄せるのはごく自然な心理ではないかと思えてくる。無茶を承知でいいかえれば、ぼくたちは「拡散と凝縮」との絶妙なバランスの上で生活しているのであり、それを「精神と肉体」に置き換えることも可能だろう。そのどちらかが欠けても、人間は気が狂ってしまうものなのか。

 先ほどまで銀河系の渦巻きのようにぼくの周りを取り囲んでいた何物かが、にわかに集まり、形態をなし、重みを得て、ずしんと心のなかにおりてきたような気がした。いわば「足が地についた状態」になって、他の所蔵品を観てまわる心の余裕が生まれた。

                    ***


和田三造『南風』(1907年)

 和田三造の『南風』は、美術の教科書などで大変広く流布されたイメージである。ぼくも展覧会にかよいはじめる前から、その絵の存在は何となく知っていたけれども、和田三造という名前にはなかなか親しむ機会がなく、いまだにぼくの頭のなかでは定位置をもたない画家である。いってみれば『南風』のイメージだけが悠々とひとり歩きをつづけている、稀有な事例かもしれない。

 この絵の実物を観るのは、はじめてではなかった。今から10年前にオープンした兵庫県立美術館の開館記念展か何かに、たしかこの絵は来ていた。久しぶりにまじまじと眺めてみると、素晴らしい絵だと感心するよりも、描かれている4人の人物が奏でる不協和音というか、妙にぎくしゃくした感じが眼についてしまう。

 中央に、それこそ彫像のように堂々と立って上着を頭からかぶっている筋骨隆々たる男は、南洋の日差しを全身に浴びて燦然と照り輝いているけれど、その手前で後ろ向きに座っている男は全体が陰に沈んでいて、まるで別の次元の生き物のようである。船べりには膝を抱えた麦藁帽子の男が不安そうな視線をこちらに向けているし、いちばん後ろに描かれている煙草を手にした男は、哲学者みたいに難しい顔をして虚空を睨んでいる。

 同じ船に乗り合わせていながら、各自が勝手にバラバラな動きをしていてほとんど視線を合わせようともしないさまは、マネの作品を連想させないでもない。けれどもマネのように、なかば色彩に溶け込みかけたような曖昧な存在でなく、皮膚も筋肉も体重も備えて人間らしく描かれた4種の肉体が、間違ったジグソーパズルを無理やりはめ込んだようにひとつの画面に会している様子は、観れば観るほど異様なものに思えてくるのだった。

つづきを読む
この随想を最初から読む
コメント (0) |  トラックバック (0) |