GUMBO

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file .200 Early WYNN【アーリー・ウィン】

2007-05-25 | VWX
【GUS】
Early WYNN

ブラッシュボールで相手を威嚇し
並みいる打者を恐怖で震え上がらせた名物投手。

1939年、セナターズでデビューを果たす。
42年に10勝、43年に18勝するなど
早くから頭角を表したウィンだったが
安定感に欠ける投球を続け、チームの信頼を得るに至らなかった。

49年、29歳の時にインディアンズに移籍。
速球のみに頼るスタイルを変え、変化球をマスターし開花。
50年に18勝すると、51年には防御率3.02 20勝をマーク、
52年にも、防御率2.90 23勝を記録し、
ボブ・レモンらと並ぶチームの大黒柱に成長した。

血走った目で、溢れすぎの闘争心をムキ出しにし、
対戦する打者は、皆、ウィンにとっては親の仇のごとく。
ホームベース寄りに立つ打者には容赦なくブラッシュボールを放った。
練習の最中、15歳の息子にヒット性の当たりをを立続けに打たれると、
事もあろうに、ウィンは愛息めがけてブラッシュボールを投付けた。
「どっちが偉い人間か解らせる必要があったからな!!」
ミッキー・マントルにピッチャー返しのヒットを打たれると
牽制球でマントルにぶつけようとした事もあった。

「俺は頭は狙わないぜ!..............ただ、あばら骨なら話は別だ。」

その後もウィンは、恐怖の投球で安定した成績を残し、
54年、防御率2.73 23勝でインディアンズの、
59年、防御率3.17 22勝でホワイトソックスのリーグ優勝に貢献。
特に59年は史上最年長の39歳でのサイ・ヤング賞受賞と相成った。

63年、43歳になったウィンは1勝をマーク、
通算300勝とし、現役を引退した。

溢れる闘志は打撃面においても遺憾なく発揮され、
通算打率.214 17本塁打 173打点と、
しばしば代打で起用されるほどの実力を誇った。

1999年、この世を去っている。

「俺の邪魔をする打者は、例えそれが自分の婆ちゃんでも容赦はしないぜ。」

file .199 Rocky COLAVITO【ロッキー・コラビト】

2007-05-24 | ABC
【球界きってのハンサムガイ】
Rocky COLAVITO

その端正な顔つきと、明るいキャラクターで
絶大な人気を誇った名外野手。

1955年、インディアンズでメジャーデビューを飾ったコラビト。
56年には打率.276 25本塁打 65打点を記録。
新人王レースでは次点に終わったが、
上々のキャリアスタートをきった。

58年、打率.303 41本塁打 113打点と大活躍。
強肩を活かした外野守備も大きな武器で、
ミニー・ミニョソやラリー・ドビーと共に
中心選手としてチームを支えた。

59年は、打率.257 42本塁打 111打点をマーク、
本塁打王に輝く活躍ぶりを見せ、
チーム一の人気選手の座を不動のものにするが、
翌年、同じリーグの首位打者、ハービー・キーンとのトレードで
タイガースへ移籍。
首位打者と本塁打王のトレードは、大きな話題となったが、
インディアンズのファンはコラビトの移籍に怒り、
球団には抗議が殺到する。

移籍先のタイガースでもコラビトは
変わらぬスラッガーぶりを見せつけ、
特に61年は打率.290 45本塁打 140打点と
キャリアハイの成績を残すに至った。

その後も安定した働きを見せ、
14年のキャリアで、7度の30本塁打以上、
6度の100打点以上をマーク。
68年にヤンキースで現役を退いている。

通算374本塁打 1159打点 打率.266

58年に1試合、68年に1試合ずつ
投手としても登板しており、
引退した68年にはリリーフ登板し、1勝をあげている。

file .198 Cecil FIELDER【セシル・フィルダー】

2007-05-19 | DEF
【Big Daddy】
Cecil FIELDER

1985年にメジャーデビューを果たしたフィルダー。
87年に14本塁打 32打点をマークするなど、
長距離砲としての片鱗を見せつつも、
出場機会には恵まれていなかった。

そんなフィルダーに転機が訪れたのは89年。
この年、日本のタイガースと契約、
四番打者として猛打をふるい、
9月に怪我で戦線離脱を余儀なくされるも、
106試合で打率.302 38本塁打 81打点の大活躍を見せた。

90年、デトロイト・タイガースと契約し
メジャー復帰を果たす事になったが、
日本で変化球に対応できる打撃技術を学んだフィルダーは
この年、打率.277 51本塁打 132打点で二冠王に輝く大爆発。
特に50本塁打以上の本塁打数は、
77年にジョージ・フォスターが記録した52本以来、
実に13年ぶりの快挙と相成った。

翌91年も打率.261 44本塁打 133打点で2年連続の二冠王。
92年124打点でリーグ1位に輝き、
メジャー復帰以降、3年連続の打点王獲得...と、
パワーと共に、勝負強い打撃も披露した。

96年、シーズン途中でヤンキースに移籍したフィルダーだが、
タイガースと2チーム合計で39本塁打 117打点をマーク。
ヤンキースのリーグ優勝に貢献し、
プレーオフ、ワールド・シリーズでも活躍を見せ、チームを世界一に導いた。

この後、98年まで現役を続け、
インディアンズを最後に引退。

通算319本塁打 1008打点 打率.255 盗塁2を記録した。

引退後は離婚や、ギャンブルによる破産、失踪など、
私生活は荒れ模様を見せ、
現在、ブルワーズで中軸を打つ息子プリンスとも
断絶状態が続いているという.........。

file .197 Roger MARIS【ロジャー・マリス】

2007-05-14 | MNO
【61*】
Roger MARIS

1957年、インディアンズでメジャーデビューを果たしたマリス。
この年、打率.235 14本塁打。
スラッガーとしての片鱗を見せつけるも、
58年シーズン途中でアスレチックスへトレード移籍、
2チーム合計で28本塁打をマークした。

16本塁打に終わった59年を経て、
60年、ヤンキースへ移籍。
すると、ついにその才能を開花させ、
打率.283 39本塁打 112打点と爆発。
チームをリーグ優勝に導き、シーズンMVPを獲得。
40本塁打 94打点のマントルと『MM砲』を形成、
一躍チームの主力打者というだけでなく
リーグを代表するスラッガーに成長した。

シャープかつコンパクトなスイングで、
弾道の低い打球がスタジアムの右翼席に飛び込む。
マリスは右翼までの距離が短いヤンキースタジアムにうってつけの打者であった。
また、打撃だけでなく、強肩も含めた右翼守備も一流であった。

ヤンキースへの移籍で開花したマリスであったが
もともとが、ノースダコタ州の田舎者だったせいか、
大都会・ニューヨークには、なじめないでいた。
マスコミやファンとの折り合いも、決して良くなく、
良きライバルのマントルとは正反対の、
寡黙で内向的なキャラクターであった。

1961年、マリスとマントルは
激しい本塁打王争いを演じる。
次々と量産される本塁打、
二人のどちらかがベーブ・ルースの
年間本塁打60を更新するのは明白となった。

ただでさえ、マスコミ嫌いのマリスは、
毎日のように記者に追い掛け回され、
記録について取り沙汰されるのを激しく嫌った。
加えて、ルースを神聖視するファンや、
『ルースの記録を抜くのは、生え抜き選手で華やかなマントルではなくてはならない』
...とするファンから野次や、誹謗中傷を散々受ける羽目になる。

いつしか脱毛症に悩まされるようになったマリスであったが
打撃を崩す事なく、見事年間61本塁打の大偉業を達成。
(怪我に泣いたマントルは54本塁打でシーズンを終えた)
チームの世界一にも貢献し、2年連続のシーズンMVPを受賞。

が、コミッショナーのフォード・フリックは、
『ルースの記録は154試合制での記録であり、
 162試合制の時代の、マリスの記録を公式とするには154試合目までに
 記録を更新しなければならない』とケチを付ける。

マリスの記録は161試合目での達成だったために
レコードブックには『61』の右上に、注釈マークである『*』が付けられてしまった。
いわゆる参考記録程度の扱いになってしまったのである。

マリスは、翌62年も33本塁打 100打点と活躍したが、
以降は、成績が大幅に下降。

67年にセントルイスへ移籍、
精神的なプレッシャーからは解放されたが、
プレーに精彩は戻らず、68年、現役を引退した。

12年の現役生活で、所属チームの7度のリーグ優勝と3度の世界一に貢献。
通算275本塁打 851打点 打率.260をマーク。

1991年、マリスの記録『61*』から『*』が外され、
年間61本塁打は、晴れて公式記録となったが、
マリス自身は1985年に亡くなっている。

マリスの『記録』は、今では歴代7位の数字に過ぎない。
が、『73』や『70』といった数字に負けない特別な光を『61』は放ち続けている。

file .196 Kent TEKULVE【ケント・テカルヴィ】

2007-05-11 | STU
【teke】
Kent TEKULVE

リリーフ登板のみで1050試合に出場した
細身のサイドスローピッチャー。

1974年、パイレーツで27歳、遅めのメジャーデビューを果たしたテカルヴィ。
75年には34試合に登板し、防御率2.25と安定した投球を見せ、
76年、64試合で、防御率2.45 5勝 9セーブ、
77年、72試合で、防御率3.06 10勝 7セーブと好成績をマーク。
チームの守護神としてなくてはならない存在となった。

78年に31セーブをあげたテカルヴィ、
キャリア最高の年はやはり79年であろう。
ウィリー・スタージェル、デイブ・パーカーら率いる
いわゆる『ファミリー』の一員として
実に94試合に登板したテカルヴィは、
この年、防御率2.75 10勝 31セーブ...と大車輪の大活躍を見せて、
リーグ優勝に大きく貢献。
オリオールズとのワールドシリーズでも3セーブをあげ
チームの世界一に大きな貢献を果たした。

その後も安定した活躍を続けたテカルヴィ。
82年には12勝 20セーブをマークするなど
30代半ばにして衰えを知らない投球を披露した。

85年にはシーズン途中でフィリーズへ移籍し、
87年、40歳にして90試合に登板するなど
タフネスぶりを大いに見せつける。

89年、レッズで、現役を引退。

タフなグラサンピッチャーは、
通算94勝 184セーブ 防御率2.85の数字をメジャー史に刻んだ。

file.195 Cesar CEDENO【シザー・セデーニョ】

2007-05-10 | ABC
【SAY-sar say-DAY-nyo]】
Cesar CEDENO

高い身体能力も持ち、
デビュー前から『ウィリー・メイズの再来』
と騒がれたセデーニョ。

1970年にアストロズで外野手としてメジャーデビューを果たし
90試合で打率.310 7本塁打 42打点 17盗塁、
19歳にして早くもそのポテンシャルの高さを見せつける。

72年には打率.320 22本塁打 82打点 55盗塁、
73年も、打率.320 25本塁打 70打点 56盗塁。
アグレッシブなディフェンスも大きな武器で、
両年共にゴールド・グラブ賞も獲得。
走・攻・守に冴えを見せ、
『メイズの再来』が嘘でない事を実証した。

74年、打率.269 26本塁打 102打点 57盗塁、
本塁打、打点、盗塁の3部門でキャリア・ハイを記録し
順調な選手生活を送っていたセデーニョだったが、
75年あたりからプレーに冴えが見られなくなってくる。
また、飲酒運転での逮捕や、ファンとのトラブル、
ガールフレンドに対する射殺疑惑........と
度重なるスキャンダルにも見舞われ、
イメージまで悪くしてしまった。

それでも、80年に打率.309 10本塁打 73打点 48盗塁で
アストロズを地区優勝に導き、
スピードを活かしたプレーでチームに貢献。
85年には、シーズン途中でカージナルスへ移籍、
移籍後、28試合で打率.434 6本塁打 19打点をマークし
チームのリーグ優勝に貢献するなど
随所に非凡な才能を発揮した。

86年ドジャーズで現役を引退。

「どう転んだって、メイズになれない事なんて自分が一番よく解っていたさ」
と、セデーニョは語ったというが.........、
通算2087安打 199本塁打 550盗塁 打率.285。
堂々の通算成績を残している。