GUMBO

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file .313 Mike SCIOSCIA【マイク・ソーシア】

2014-01-19 | STU
【名捕手から名将へ】
Mike SCIOSCIA

1976年、ドラフト1位指名でドジャースに入団したソーシアは、
80年にメジャーデビュー。
81年には、22歳の若さで、
ベテランのスティーブ・イェガーを押しのけ、
チームの第一捕手の座についた。
この年、打率.276 2本塁打 29打点、
ドジャースのリーグ優勝に貢献、
ヤンキースとのワールドシリーズでは、打撃好調のイェガーに出番を奪われ、
3試合でわずか6打席の出場にとどまるが、チームは優勝。
ほろ苦くも、嬉しい一年になった。

その後は冴え渡るリードと堅い守備でホームを死守。
完全なる正捕手の座に登り詰め、
84年から引退までの9年間、100試合以上マスクをかぶる事になる。

85年、打率.296 7本塁打 53打点 出塁率.407の好成績で
チームを地区優勝に導くと、
88年は、打率.257 3本塁打 35打点ながら、メッツとのチャンピオンシップで
ドワイト・グッデンから同点本塁打を打つなど活躍。
ワールドシリーズでも正捕手として出場し、今度は堂々世界一に貢献。
翌89年からは2年連続でオールスターに選出され、
リーグを代表する捕手に成長した。

92年に、怪我の影響もあって現役を引退したソーシアは、
2000年にエンゼルスの監督に就任。
2002年にワールドシリーズ制覇を果たし、名将として君臨。
その契約は2018年まで結ばれている。

現役成績は、1441試合 1131安打 打率.259 68本塁打 446打点 出塁率.344。

file .306 So TAGUCHI【田口壮】

2013-07-11 | STU
【99】
So Taguchi

日本でブルーウェイブの外野手として10年間活躍した田口が
FAで渡米し、カージナルスに入団したのは2002年。
折しもマリナーズのイチローがセンセーショナルな働きを見せた2001年のオフであった。

イチローの活躍もあって注目を浴びた田口だったが、
試練が待ち受けていた。
開幕ロースターから外れ、シーズン途中にはメジャー昇格を果たすも、
結局は定着出来ず、打率.400と健闘するが、19試合の出場に終わる。

翌03年も開幕はマイナーで迎え、夏場に昇格。
その後はメジャーに残り、43試合、打率.259 3本塁打 13打点。
翌年に期待を持ったままシーズンを終えた。

04年は開幕からメジャーに定着。
109試合で打率.291 3本塁打 25打点をマーク。
チームのリーグ優勝に貢献し、
名将トニー・ラルーサから優秀なユーリティリープレーヤーとして認められるに至った。
堅実な守備、徹底したチームバッティング、チャンスでは勝負強いシェアな打撃を披露する。
決して派手では無いが、ここぞという時に必要な玄人好みの仕事人として、
チームに欠かせない重要な選手となった田口は、
05年、143試合 打率.288 8本塁打 53打点に加え
リーグ1位となる得点圏打率.407をマーク。
名門球団で、いぶし銀の輝きを放った。

田口がセントルイスでファンから大きな賞賛を浴びたのは06年。
シーズンは134試合 打率.266 2本塁打 31打点に終わったものの、
リーグ優勝シリーズ第2戦で、メッツの守護神ビリー・ワグナーから、
値千金の決勝ホームランを放つ大活躍。
チームもワールドシリーズ制覇を果たし、
田口は輝けるチャンピオンリングを手中に収めた。

07年も打率.290 3本塁打 30打点、代打打率.406。
代走や守備固めでも堅実な働きを見せチームの勝利に貢献した田口であったが、
08年はカージナルスが契約をせず、フィリーズで、開幕を迎える。
シーズン前半に守備でミスを犯した田口を、
フィリーズの監督マニエルはラルーサほどには重用しなかった。
チームはワールドシリーズを制覇し、
2個目のリングを手にした田口であったが、
88試合の出場にとどまり、打率.220 0本塁打 9打点と、
決して満足のいくシーズンでは無かった。

09年はカブスに移籍するが6試合のみの出場に終わり、
10年から日本球界復帰を果たした。

メジャー通算 672試合 打率.279 19本塁打 163打点。

如何なる場面でも堅実、かつ勝負強いプレーを見せた田口。
その明るくて気さくなキャラクターも手伝って、
セントルイスでの人気は絶大。
09年に地元紙が行った2000年代のカージナルスのベストナイン投票では、
ベストベンチ要員に選出。
日本においても、その文才を活かしたホームページでの日記が人気を博した。

file .302 Daryl SPENCER【ダリル・スペンサー】

2012-04-24 | STU
【Big Dee】
Daryl SPENCER

1952年、ニューヨークジャイアンツでデビューを飾ったスペンサー。
53年に118試合に出場、打率.208ながら20本塁打を打ち、
その才能の一旦を見せつけた。
54~55年は兵役に就き、プレーの機会は無かったが
56年に復帰すると、二塁/遊撃をこなしながら
打率.221 14本塁打 42打点をマーク。
57年は遊撃に定着し、打率.249 11本塁打 50打点、
大型内野手として、着実な成長を見せた。

本拠地がサンフランシスコに移動した57年は打率.256 17本塁打 73打点。
主砲ウィリー・メイズに次ぐ、打点/出塁率をマークすると
59年は打率.265 12本塁打 62打点。
ポジションこそ二塁に変わったが、レギュラーの座を確固たるものにした。

60年以降はカージナルス/ドジャース/レッズとチームを転々とし、
64年、日本に渡り、阪急ブレーブスに入団。
65年には打率.311 38本塁打をマークするなど、
7年で打率.275 152本塁打 391打点の活躍を見せた。

内野手/捕手を吹っ飛ばす激しいスライディングで敵を震え上がらせる一方、
190cmの巨体ながら二塁守備を器用にこなし、
対戦チームの投手のクセを熱心に研究し、攻略した。
そういったプレーぶりや姿勢は日本の野球に大きな影響をもたらしたのであった。
サイクルヒットの概念を日本に定着させたのもスペンサーだといわれている。

メジャー通算 1098試合 打率.260 105本塁打 428打点。

file .298 Deion SANDERS【ディオン・サンダース】

2011-09-29 | STU
【ネオン・ディオン】
Deion SANDERS

高校~大学時代、
野球/バスケ/アメフト/陸上と
あらゆるスポーツで才能を発揮。
若きトップアスリートとしてその名を馳せたサンダースは
1988年、ドラフト27位でヤンキースに入団。

89年春にメジャー昇格し、
14試合で打率.234 2本塁打をマークすると
6月にはNFLのファルコンズからドラフト1位指名を受ける。
紆余曲折の末、ファルコンズとも契約を交わしたサンダースは
8月のアメフトでの開幕戦でタッチダウンを決め、
また同じ週に野球でホームランを放つという離れ業をやってのけた。

派手好きで目立ちたがり屋、
ファッションも含めた、きらびやかなその佇まいから
「ネオン・ディオン」のニックネームで呼ばれたサンダース。
一方でトラブルメーカーとしても一流で、
チーム、チームメイト、ファン、解説者に至るまで
あらゆる人々を敵に回した。
怠慢プレーを批判したカールトン・フィスクとは
人種問題を持ち出して論争した程だったという。

90年打率.158に終わったサンダースは
91年、ブレーブスへ移籍。
この年も打率.191に終わり、
才能を発揮して活躍していたアメフトとは違い、
野球では苦戦を強いられていた。

が、92年、97試合で打率.304 8本塁打 28盗塁をマークしブレーク。
ようやく二刀流としての成功をおさめる事と相成った。

93年、95試合 打率.276 6本塁打 19盗塁(ブレーブス) 
94年、92試合 打率.283 4本塁打 38盗塁(ブレーブス→レッズ)
持ち前のスピードを活かしたプレーで
安定した活躍をみせていたサンダースだったが、
アメフトでも大活躍。
94年には最優秀守備選手賞を受賞し、49’Sをスーパーボウルに導き、
95年度もカウボーイズでスーパーボウル出場を果たした。

96年はNFLに専念したサンダース、
97年、レッズに復帰すると
打率.273 5本塁打 56盗塁をマーク。
一旦、この年限りで野球は引退し、
2001年に再復帰。
この年、正式に引退を表明した。

野球では通算558安打 39本塁打 打率.263 186盗塁と平凡な数字に終わったが
アメフトでは通算8回のプロボウル出場に加え、
1990年代のオールタイムディケイドプレーヤーに選ばれるなど多大な実績を残した名選手であり、
2011年には殿堂入りも果たしている。

ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手である。

file .294 Enos SLAUGHTER【イノス・スローター】

2011-04-03 | STU
【マッドダッシュ】Enos SLAUGHTER

1935年、カージナルスに入団したスローター。
38年にメジャーへ昇格すると
39年、.320 12本塁打 86打点という好成績を残し
2年目にして早くも頭角を現す。
この年から5年連続で打率.300以上をマーク、
42年は.318 13本塁打 98打点
46年は.300 18本塁打 130打点で打点王を獲得、
両年共にチームの世界一に大きな役割を果たす。

特に46年のボソックスとのワールドシリーズでは、
死球による怪我の所為でシリーズ出場も危ぶまれる中、
ドクターストップを制して強行出場。
世界一を決める大事な第7戦の8回で
走者として一塁にいたスローターは
次打者の単打性の当たりで大激走。
あっけにとられたジョニー・ペスキー遊撃手の判断ミスを誘い
一気にホームを陥れる事に成功した。
結局、この得点が決勝点になり
カージナルスは世界一の栄冠に輝いたのである。
この走塁は『マッドダッシュ(狂気の走塁)』と呼ばれ
伝説になるわけだが、スローターにしてみれば
平常時から心がけているハッスルプレーの一旦に過ぎないわけだった。

その後も49年に.336 13本塁打 93打点をマークするなど
安定した勝負強い打撃を披露。
40~53年の間10年連続でオールスターに出場し(43~45年は兵役)
リーグを代表する名選手としての地位を確立した。

54年からはヤンキースやアスレチックスを渡り歩き、
56年と58年はヤンキースで世界一の美酒に酔った。

通算2380試合 2383安打 打率.300 169本塁打 1304打点。
絶頂期の3年の兵役が無ければ、あるいは3000安打も達成していたかもしれない。

殿堂入りは1985年。
これほどの名選手の殿堂入りが遅れたそのわけは、
ジャッキー・ロビンソンに絡む人種差別問題があったからと言われている。
ロビンソンのドジャース昇格時には大いにそれに異を唱え、
ストもやむなし・・とナ・リーグ会長のフォード・フリックに詰めよった・・・とか
内野ゴロを打った時に、一塁を守るロビンソンに強烈なスパイクを浴びせた・・・とか
この件にまつわる逸話は少なく無い。

が、いずれも確証のない逸話の域を出てはいない。

file .292 George SISLER【ジョージ・シスラー】

2010-10-16 | STU
【現役引退後】
George SISLER

通算2055試合、2812安打、打率.340、102本塁打、1175打点、
1920年に記録した年間257安打は、
イチロー(鈴木一朗)に更新されるまでメジャー記録であった。
守備・走塁も一流、当時最高の一塁手と言われていた。

現役を引退したシスラーは、
ブランチ・リッキーの右腕として
ブルックリン・ドジャースでスカウトを担当。
数多いニグロリーガーからジャッキー・ロビンソンを見いだしリッキーに推薦。
メジャーリーグの歴史において最大の案件の一翼を担った。
ロビンソン入団後は、
慣れない一塁の守備に就かなくてはならない彼に一塁守備を伝授。
プレー面でもロビンソンをサポートした。

その後、ピッツバーグパイレーツの打撃コーチに就任したシスラーは
1961年のシーズン前に、ロベルト・クレメンテを指導。
スイングが早過ぎるクレメンテに重いバットを使うようアドバイスし、
これに従ったクレメンテはこの年、
打率.351で首位打者を獲得。
大ブレークを果たす事となった。

プレーヤーとしてだけではなく、
フロントとして、
指導者としても優れた眼力と指導力を見せつけたシスラー。

年間最多安打だけで語るような人物では無いのであった。

file .290 Manny SANGUILLEN【マニー・サンギーエン】

2010-03-28 | STU
【Sangy】
Manny SANGUILLEN

1969年、129試合に出場し
打率.303 5本塁打 57打点をマーク。
25歳で、強豪パイレーツの正捕手となったサンギーエン。
70年には打率.325 7本塁打 61打点。
71年は打率.319 7本塁打 81打点、
オリオールズとのワールドシリーズでも打率.379と活躍し、
チームの世界一に大きく貢献した。

パナマ生まれの陽気なサンギーエンは、
チーム屈指の人気者で、同僚のロベルト・クレメンテとは
大の親友であった。

巧打者でありながら極度の悪球打ち。
それだけに四球は極端に少なく、
プロ13年で四球が30を超えたのは一度だけである。

72年にクレメンテが飛行機事故で海に消えると、
73年は、クレメンテが守っていた右翼を60試合近く守った。

75年、打率.328 9本塁打 58打点と、
変らぬ好打者ぶりを発揮したサンギーエンだったが、
77年、監督とのトレードという珍事でアスレチックスに移籍。
が、翌年にはパイレーツに戻り、
79年、控え捕手ながら、チームの世界一に再び貢献した。

1980年、現役を引退。

通算1448試合 打率.296 65本塁打 585打点 1500安打

同年代にマンソン、フィスク、ベンチなど
殿堂級の偉大な捕手が揃っていただけに、決してメジャーな存在では無いが
70年代を代表する、名捕手の一人である事に間違いは無い。

72年のオフ、
ロベルト・クレメンテの葬儀にサンギーエンは唯一参列していない。
何故なら、その時サンギーエンは、
クレメンテの遺体を探すダイバーチームに参加していたからである。

現在は、パイレーツの本拠地PNCパーク内で
バーベキュー屋を営んでいる。

file .280 Joe TORRE【ジョー・トーリ】

2009-05-16 | STU
【名選手/名監督】
Joe TORRE

1960年、19歳でフリーエージェントとして
ミルウォーキー・ブレーブスと契約を交わしたトーリ。

その年にはメジャーデビューを果たし
翌61年には正捕手としてレギュラーを獲得、
ハンク・ハーロン、エディ・マシューズといった錚々たる面々と共に
チームを支える一角を担った。

63年、打率.293、14本塁打、71打点をマークすると
64年には打率.321、20本塁打、109打点と打撃開眼。
65年は打率.291、27本塁打の猛打に加え、
ゴールドグラブも獲得するなど、
24歳にしてアーロン、マシューズに並ぶ、
チームの中心選手となった。

66年も打率.315、36本塁打、101打点...と好成績を残し、
63年~67年まで5年連続でオールスターに出場。
押しも押されぬリーグのトップ選手となったトーリだったが
69年、カージナルスへトレード入団すると、
同じポジションに名捕手ティム・マッカーバーがいた影響で
内野手にコンバート。
主に、一、三塁を守りながら、打棒でチームに貢献、
70年、打率.325、21本塁打、100打点、
71年には打率.363、24本塁打、137打点、
首位打者と打点王の二冠に加え、最多安打、シーズンMVPにも輝き、
最高のシーズンを送った。

75年からメッツでプレー、
77年にはシーズン途中からプレーイングマネージャーとなるも
この年限りで現役を退いた。

その後、
メッツ、ブレーブス、カージナルスで采配をふるったものの
さしたる結果を残せず、名監督と呼ばれるには程遠かったトーリだったが、
96年にヤンキースの監督に就任すると運命が変った。
ポール・オニール、ティノ・マルティネス、デビッド・コーン、
チャック・ノブロック、クレメンス、さらには
バーニー・ウィリアムス、デレク・ジーター、
ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラら、
チームの勝利に並々ならぬ執念を燃やすプロ集団を見事にまとめあげ、
12年間で地区優勝10度、リーグ優勝6度
ワールドシリーズ制覇を3年連続を含む4度、達成するなど
名将の名を欲しいままにした。

2008年からはドジャースを指揮、
08年はチームを地区優勝に導いている。

選手としては通算2342安打、252本塁打、1185打点、打率.297。
名監督として名高い人物であるが、
選手としても一流であった。


file .269 Lonnie SMITH【ロニー・スミス】

2008-12-17 | STU
【3つのリング】
Lonnie SMITH

1974年、ドラフト1位指名でフィリーズに入団したスミスは
80年、100試合、打率.339、3本塁打、20打点、33盗塁...という
見事な成績をおさめ、チームのリーグ優勝に大きく貢献、
ロイヤルズとのWSでも打率.263と健闘、
世界一の覇業の一翼を担い、
華々しい活躍で、スピードスター誕生と相成った。

81年、怪我で62試合の出場にとどまるも打率.324、21盗塁をマークすると、
そのオフ、カージナルスへトレード移籍。
打率.321、8本塁打、69打点、68盗塁、
シーズンMVP投票で2位につける活躍で
チームをリーグ優勝に導くと、
WSでも打率.321をマーク。
ブルワーズを撃破し、2個目のリングを手に入れた。

83年も打率.321、8本塁打、45打点、43盗塁と
看板通りの活躍ぶりを見せたスミスだったが、
ドラッグ服用が明るみに出て、
85年、シーズン途中でロイヤルズへ放出さる。
.........が、驚くべき事に、
移籍先でもスミスは打率.287、6本塁打、41打点、40盗塁と大活躍、
なんと、チームはリーグ優勝し、
自分を追い出した因縁のカージナルス相手のWSでも、
『コノウラミハラサデオクベキカ』とばかりに
打率.333、4打点、2盗塁の大暴れ。
大いに溜飲を下げる3度目のリングをゲットした。

87、88(この年からブレーブス)と
怪我でそれぞれ40試合程度の出場にとどまったスミス。
89年、打率.315、21本塁打、79打点、25盗塁をマークし、
91年は打率.275、7本塁打でブレーブスはリーグ優勝。
在籍4球団目で4度目となるWSで、スミスは致命的なボーンヘッドを犯してしまう。
ツインズとの対戦となったこのシリーズ、
勝負は7戦目までもつれこむ。
スミスは0-0で迎えた8回にヒットで出塁。
次打者のテリー・ペンドルトンは外野フェンスにブチ当たる長打を放つ。
スミスの脚力なら悠々とホームに帰還できる当たりだったが、
彼は、セカンドベースにスライディングしてしまう。
理由はツインズの二塁手/チャック・ノブロックと遊撃手/グレッグ・ギャグニーであった。
打球を見ないで走るスミスのクセを知っていたのか、
二人は内野ゴロダブルプレーのジェスチャーで
この一塁走者をまんまを騙したのであった。
事態に気づいたスミスは慌てて3塁まで走るも、その後得点には至らず、
試合は延長10回、1-0でツインズが勝ち、WSを制覇した。
スミスはブレーブスファンから轟々の避難を浴びてしまう。

その後、92年にもWSに出場したがチームは敗退。

94年、スミスは38歳で現役を引退する。
最後の球団はオリオールズであった。

通算1613試合、1488安打、打率.288、533打点、370盗塁、出塁率.371、
巧打と選球眼と快速を併せ持った素晴らしいリードオフマンだった。

余談になるが、1999年あたりから
チャック・ノブロックは謎の「悪送球病」いわゆるイップスに悩まされる事になる。
野球ファンはそれを「ロニー・スミスの呪い」........と、まことしやかに噂した..........(?)


file .223 Darryl STRAWBERRY【ダリル・ストロベリー】

2007-11-11 | STU
【セックス、ドラッグ&ベースボール】
Darryl STRAWBERRY

高校時代から、エリック・デイヴィスらと共に、
その名がとどろいていたストロベリーは、
1980年、メッツから1位指名を受け、プロ入りを果たす。

83年、21歳でメジャーデビュー。
打率.257、26本塁打、74打点をマークし、
堂々、新人王を獲得、大器の片鱗をおおいに見せつける。

足を高くあげた構えから、
しなやかなスイングでボールをスタンドに叩き込むーーー
この、線の細いニュー・ヒーローは同時期にデビューした投手のドワイト・グッデンと共に
メッツの明るい未来を感じさせるニュー・ヒーローであった。

その後も、看板通りの活躍を続け、
86年には、27本塁打、93打点、28盗塁の活躍を見せ、
チームのリーグ優勝及び、WS制覇に大きく貢献。
84年~91年まで8年連続でオールスターに出場し、
名実共に、球界のスーパースターの一員となった。

87年、打率.284、39本塁打、104打点、36盗塁、
大きく打撃成績を飛躍させ、30/30も達成。
88年は打率.269、39本塁打、101打点で本塁打王を獲得し、
91年にはFA権を取得し、生まれ故郷のLAはドジャースに移籍。
5年で約2000万ドルの契約を結ぶなど、
順風満帆なキャリアを送っていたストロベリー。

......が、その実、見えないところでは、私生活でのトラブルが絶えず、
その体は麻薬・アルコールに蝕まれていた。

ドジャース1年目の91年こそ、27本塁打、99打点をたたき出すが、
翌92年からは、故障もあってか、全く別人のような平均以下の選手に成り下がり、
まともに出場すらままならない状況。
93年にドジャースを解雇され、
94年はジャイアンツでプレーするも、やはり、まったく奮わず
終いには、コカイン使用が発覚し出場停止及び、
解雇の憂き目に遭ってしまう。

95年、独立リーグでプレーしているところをヤンキースに拾われ、
96年には63試合の出場で11本塁打、チームのリーグ優勝に貢献すると
ポストシーズンでも大活躍、キャリアで2個目のチャンピオン・リングを
指にはめる事が出来た。

98年には24本塁打するも大腸ガンが見つかり、手術。
99年、コカインの使用により出場停止をくらい、
そのまま現役を引退した。

妻や、恋人への暴行、大好物のコカイン摂取、交通違反、大規模な脱税..........。
刑務所やリハビリセンターを第二の家とし、度重なる脱走。
あらゆるトラブルを巻き起こしたストロベリーだが、
実は、チャンピオンリングを3個も所有している。

また、スポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を7度も飾るなど、
絶頂期の人気はやはり絶大だったが、
引退後は、アニメのシンプソンズファミリーに出演(?)したり、
ネバーランドで行われたマイケル・ジャクソン主催のパーティーに参加したり、
違った意味での人気ぶりを発揮した。

20世紀を迎えたここ数年も、
トラブルメーカーぶりを発揮しているが、
キリが無いので省略。

通算1401安打、335本塁打、1000打点、221盗塁。
意外に選球眼が良く、通算打率.259に対して、出塁率は.357と悪く無い。

人生の選球眼は.....悪い。

file .222 Andre THORNTON 【アンドレ・ソーントン】

2007-10-25 | STU
【thunder】
Andre THORNTON 

1973年、カブスで一塁手として
メジャーデビューを果たしたソーントン。
3年目の75年には、打率.293、18本塁打、
さらに88四球を選び、出塁率.428をマーク。
その才能を開花させた。

76年は、シーズン途中でエクスポズにトレードされた上に
打撃も不調に終わったソーントン。
が、ソーントンは77年に移籍したインディアンズで
再び輝きを取り戻す。
打率.263、28本塁打、70打点をマーク。
相変わらずの選球眼で70四球を選び出塁率は.378。
貧打のチームを支える活躍を見せた。

この年のオフ、ソーントンは最悪の悲劇に見舞われる。
自身が運転する自動車で事故に巻き込まれ、
最愛の妻と娘を失ってしまう。
悲しみにくれるソーントンだったが、
信仰と野球への情熱でそれを乗り越え、
78年、打率.262、33本塁打、105打点をマーク。
それまでで最高の成績をおさめ、天国の母娘に捧げた。

また、この頃から奉仕活動に力を入れはじめ、
「プロ運動家社会奉仕委員会」のメンバーとして
精力的に活動を牽引。
79年にはロベルト・クレメンテ賞を受賞した。

80年、ソーントンを今度は、膝の故障というアクシデントが襲う。
この年は1年まるまる全休するも、81年シーズン途中で復帰し。
82年は打率.273、32本塁打、116打点と華麗に復活。
カムバック賞やハッチ賞を受賞。
変わらぬ、強靭な精神力を見せつけた。

その後もインディアンズの主力打者として活躍。
1987年に現役を引退した。
通算253本塁打、895打点。
通算打率は.254だが、抜群の選球眼で出塁率は.360を誇る。

引退後もクリーブランドに住み続け、
事業家として成功をおさめる傍ら、
奉仕活動にも携わり続けている。

file .196 Kent TEKULVE【ケント・テカルヴィ】

2007-05-11 | STU
【teke】
Kent TEKULVE

リリーフ登板のみで1050試合に出場した
細身のサイドスローピッチャー。

1974年、パイレーツで27歳、遅めのメジャーデビューを果たしたテカルヴィ。
75年には34試合に登板し、防御率2.25と安定した投球を見せ、
76年、64試合で、防御率2.45 5勝 9セーブ、
77年、72試合で、防御率3.06 10勝 7セーブと好成績をマーク。
チームの守護神としてなくてはならない存在となった。

78年に31セーブをあげたテカルヴィ、
キャリア最高の年はやはり79年であろう。
ウィリー・スタージェル、デイブ・パーカーら率いる
いわゆる『ファミリー』の一員として
実に94試合に登板したテカルヴィは、
この年、防御率2.75 10勝 31セーブ...と大車輪の大活躍を見せて、
リーグ優勝に大きく貢献。
オリオールズとのワールドシリーズでも3セーブをあげ
チームの世界一に大きな貢献を果たした。

その後も安定した活躍を続けたテカルヴィ。
82年には12勝 20セーブをマークするなど
30代半ばにして衰えを知らない投球を披露した。

85年にはシーズン途中でフィリーズへ移籍し、
87年、40歳にして90試合に登板するなど
タフネスぶりを大いに見せつける。

89年、レッズで、現役を引退。

タフなグラサンピッチャーは、
通算94勝 184セーブ 防御率2.85の数字をメジャー史に刻んだ。

file.192 Ken SINGLETON【ケン・シングルトン】

2007-04-21 | STU
【隠れた強肩】
Ken SINGLETON

1970年にメッツでメジャーデビューしたシングルトン。
72年にエクスポズへ移籍すると、
73年、打率.302 23本塁打 103打点をたたき出し
MVPレースで9位に付けるなど、ブレークを果たした。

安定感のある打撃だけでなく、
100四球以上を4度、90四球以上を8度マークするなど、
選球眼も抜群であった。
また、ゴールド・グラブ受賞こそかなわなかったが、
73年の20捕殺が物語るように、強肩の持ち主であった。

75年、オリオールズに移籍、
フランク・ロビンソンが抜け、
ブルックス・ロビンソンに衰えが見え始めていた
オリオールズ打線の主軸として期待を集めた。

75、76年と、主軸を打つ打者としては物足りない成績に終わるが、
77年は打率.328 24本塁打 99打点の好成績。
79年も35本塁打 111打点をマークし、
チームのリーグ優勝に大きく貢献、
MVP投票では惜しくも2位に終わったが、
この頃に頭角を現したエディ・マレーと共に打線を支えた。

80年の打率.304 24本塁打 104打点を最後に
シングルトンの打棒は衰えを見せ始める。
が、勝負強さは健在で、
83年には18本塁打 84打点をマーク。
マレーやカル・リプケンらと共に
チームをリーグ優勝に導き、
ポストシーズンは、あまり出番に恵まれなかったものの
フィリーズを破っての、ワールドシリーズ制覇を
チームメイトと共に味わう事が出来た。

84年、現役を引退。
通算で2029安打 246本塁打をマーク。

引退後はヤンキースのブロードキャスターを勤めた。

file.186 Ozzie SMITH【オジー・スミス】

2007-04-01 | STU
【Wizard of Oz】
Ozzie SMITH

メジャー史上、最高の守備を誇る遊撃手。
80年~92年まで13年間、当然のごとくゴールドグラブ賞に輝き、
88年には、メジャー最高年棒にまで登り詰めた。
通算2460安打、580盗塁が示すように、
『攻撃面』でも、非凡な数字を残している。

スミスは、1977年にパドレスに入団。
78年には、159試合に出場、
遊撃のレギュラーの座を獲得する。

パドレスには、78年~81年の4年間在籍、
平均打率.230、通算本塁打は1本と、打撃面では非力さを露呈したが、
78年に40盗塁、80年に57盗塁を決めるなど、
スピードのあるところを見せつけた。
遊撃守備では、80年に史上最多となる621捕殺をマークし、
初のゴールドグラブを獲得。
その類い稀なる守備力をおおいにアピールする。

82年、ホワイティ・ハーゾク監督に請われ、
ギャリー・テンプルトンと交換で、カージナルスへ移籍。
ハーゾグの推進する機動力野球及び、内野守備の強化に、
スミスはうってつけのピースだった。

パドレス時代、チームからの低評価に不満を持っていたスミスは、
ハーゾグという理解者を得、新天地でいきいきと活躍。
この年、打率こそ.248に終わったが、
内野の要として、守備でチームに大きく貢献、
カージナルスの世界一に大きな役割を果たした。

どんな難しい打球でも、その軽い身のこなしで難無く処理してしまい、
軽業師のようなアクロバッティングな動きで、ファンを魅了。
ズバ抜けて広い守備範囲、華麗さと堅実さを併せ持つスミスの守備は、
対戦チームの選手ですら、思わず見とれてしまう芸術品だった。

打撃面でも努力を重ね、徐々にではあるが、
ズミスは安定した打撃を見せるようになり、
85年には打率.276、31盗塁をマーク。
リーグチャンピオンシップでは、第5戦で決勝のサヨナラアーチを放つなど
パワーに欠けたスミスにしてみれば、まさかの大活躍。
結局打率.435をマーク、シリーズMVPに輝く。

87年には打率.303、40二塁打、78打点、43盗塁と、好成績を残し、
リーグ優勝に貢献、MVP投票でも2位にランクイン。
82年~93年まで、12年連続で20盗塁以上をマークするなど、
守備力だけでなく、スピードもトップクラス。
優秀なリード・オフマンとしてチームを支えた。

94年頃から、身体能力の衰えや、故障の影響もあって
出場機会を減らしていたスミス、
ジャイアンツからやって来たロイス・クレイトンの台頭もあり、
96年、41才で現役を引退した。

シーズンの開幕戦及び最終戦などでは
1回の守備に付く際、トレードマークのバック転を披露するなど
サービス精神も旺盛なスミス。
引退後は、そのさわやかさも手伝って、野球関連のテレビ、ビデオ作品などの
司会などもこなし、芸達者ぶりを見せつけた。
が、その爽やかとは裏腹に、自分から遊撃のポジションを奪った
ロイス・クレイトンや、当時の監督であるトニー・ラルーサを長年にわたって
恨み続ける....といった意外な一面もあったるする。

2002年、堂々の殿堂入りを果たし、満面の笑顔を見せた。

file.183 Mel STOTTLEMYRE【メル・ストットルマイアー】

2007-03-29 | STU
【1964】
Mel STOTTLEMYRE

1964年、ヤンキースは、
オリオールズや、ホワイトソックスと
激しいペナント争いを展開していた。
夏場――、チームのローテーションは崩壊寸前、
老兵フォードを初め、皆、怪我で調子を落とし始めていたのだ。

そんな中、監督のヨギ・ベラは、マイナーから22才のホープ、
メル・ストットルマイアーをメジャーに昇格させた。
――8月の事であった。

昇格後、ストットルマイアーは
新人とは思えない無駄の無いフォームと
抜群の制球力で快投を続け、
13試合に出場し、防御率2.06、9勝の大活躍。
救世主的役割を果たし、
チームの逆転優勝に大きく貢献した。
カージナルスと戦ったワールドシリーズでは、
第2戦に先発し、ボブ・ギブソンに投げ勝つ....という大金星をあげるが、
チームは惜しくも敗れ去った。

ストットルマイアーは、
その後も、ヤンキースのエースとして活躍。
65年には防御率2.63、20勝をマークし、
68年~69年には、2年連続で20勝以上をあげる。

結局、65年~73年までの9年間、
毎年250イニング以上投げて12勝以上をマークする...という
安定した投球を続けたが、チームが低迷していた為に、
ワールドシリーズ制覇はおろか、
リーグ優勝経験すら、64年の一度きりに終っている。

74年、肩の故障で現役を引退、
防御率2.97、164勝...の通算成績を残している。

引退後は、メッツや、ヤンキースなどのコーチを歴任。
メッツでは86年に1度、ヤンキースでは96年、98~2000年の4度
ワールドチャンピオンを経験し、現役時代に果たせなかった夢を
コーチとして実現させた、