GUMBO
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【サブマリンストッパー】
Dan QUISENBERRY

1975年、ドラフト外契約でロイヤルズに入団したクイゼンベリー。
79年にメジャー初登板を果たし、32試合 3勝 5セーブ 防御率3.15をマーク、
まずまずの結果を残した。

が、当時の監督ジム・フレイは、今のままだと、
この程度が限界の並みの投手に終わってしまうと考え、
コントロールに光る物があるクイゼンベリーを伸ばすため、
アンダースローへの転向を画策。
80年のオープン戦、対戦相手のパイレーツにいた
サイドスローのストッパー、ケント・テカルヴィに引き合わせる。
テカルヴィに師事し、アンダースローに転向したクイゼンベリーはこの年、大変身。
75試合 12勝 7敗 33セーブ 防御率3.09、リーグ最多セーブをマークする。

クイゼンベリーの武器はなんと言っても、コントロールの良さと
精度の高いシンカーである。
相手をねじ伏せるような速球は無く
ランナーをしばしば出したが、必殺のシンカーでゴロを打たせ打ち取る。
当時のロイヤルズは、フランク・ホワイトを始め、ジョージ・ブレットら
内野に名手が多かった事もクイゼンベリーに幸いしていた。

「クイゼンベリーは、30-30-30を達成したんだぜ
 100イニング以上投げて三振がわずか37
 で、30セーブをあげて、奴が投げてる間・・・
 30ものファインプレーが産まれたんだよ」
これは、ジョージ・ブレットの弁である。

その後も、クイゼンベリーは、
チームのストッパーとして活躍。
82年〜85年にかけて4年連続でリーグ最多セーブを記録。
83年には、32試合 5勝 45セーブ 防御率1.94、
ア・リーグでは前人未到の40セーブを記録し
85年は84試合 8勝 37セーブ 防御率2.37、
カージナルスとのワールドシリーズでも4試合に登板し1勝 防御率2.08。
チームの世界一に貢献した。

チームとも、終身雇用の契約を交わすなど、
まさに絶頂のクイゼンベリーだったが、
86年以降、徐々に調子を落として行く。
88年には、終身雇用だった筈がチームを解雇され、
カージナルスに移籍。
89年は63試合 3勝 6セーブ 防御率2.64で
セットアッパーとしてチームの勝利に貢献するも、
90年、大けがの影響もあって、そのまま現役を引退した。

愛嬌のある風貌と、頭の回転の早さを活かした軽妙な発言で
大いに、人気を博したクイズことクイゼンベリーだったが、
98年、ガンでこの世を去った。

通算674試合 56勝 244セーブ 防御率2.76

メジャーリーグの歴史で、最も成功した
アンダースロー投手といえるだろう。


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【でも憎めないよね〜】
John ROCKER

1999年、ブレーブスは、メッツとの
リーグチャンピオンシップを控えていた。
この年、4勝 38セーブ 防御率2.49で
チームの守護神に成長したジョン・ロッカーは
対戦前、「メッツは、あんだけ好打者を揃えながら、なんでウチに3勝しか出来ねえの??」
(この年、メッツはブレーブスに対し、3勝9敗)
とメッツを挑発した。
当然、メッツファンの怒りを買ったロッカー、
第3戦で、9回を抑えると、試合後ファンを挑発するような態度を見せ、
メッツファンの怒りは倍増した。
「メッツのファンは人間以下、野蛮な奴らだ」
「メッツファンなんて地獄に落ちろ!」等、
ブーイングを浴びせるメッツファンに、ロッカーは更なる挑発を繰り返す。

結局、このブレーブスはワールドシリーズ進出を果たすも、
シリーズではヤンキースに敗れ去った。

同年、年末・・・
スポーツイラストレイテッド誌に掲載されたロッカーのインタビューは、
衝撃的な内容だった。
「ニューヨークは最悪だよ、疲れるし、イライラするな
 地下鉄の7番線で球場に行くとするだろ・・
 ありゃまるでベイルートだね!
 髪を紫に染めたガキはいるわ、そんで隣にはエイズ患者だな、
 で、その隣が刑務所に4回入った野郎で、
 さらにその隣は4人の子がいる20歳のママってわけさ
 気が滅入ってしょうがないね!」

「ニューヨークで最悪なのは外国人の連中だね。俺は奴らの事があんまり好きじゃねえな
 タイムズスクエアに行って1ブロックほど歩いてみ、誰も英語で話しちゃいねえ。
 アジア人や、韓国人、ベトナム人、インド人、ロシア人、スペイン系、なんでもござれだ
 奴ら、どうやってこの国に入ってこれたんだよ?」
...等

この記事により、
ロッカーは、一躍メジャーリーグのヒールとして名を馳せる事となり
ハンク・アーロンや、同僚のトム・グラヴィン、チッパー・ジョーンズなどが
公式にロッカーを避難した。

さらに、ニューヨーク市長のジュリアーニが、
ロッカーの地下鉄利用を禁じ、怒るファンにも自制を求める事態にまで発展。
ロッカーは試合後の移動にも警護をつけなくてはいけなくなってしまった。

その後・・・
インデジアンズやレンジャーズを経て、
2003年に、現役を引退。
通算13勝 22敗 88セーブ 防御率3.42

引退後は、タレント活動にも熱心で
数々のコメディ番組に出演。

引退前の2002年には
The Greenskeeper(邦題・殺戮職人芝刈男)にも出演。
※映画学校の一年生でも、もうちょっとマシな映画作るだろ・・と思うよな
 超が付く程のゴミ映画で、ロッカーは、演技力なぞ微塵も必要としないような役を
 嬉々として(?)演じている。


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【最強オリオールズの頭脳】
Ellie HENDRICKS


1969年〜71年にかけて
アール・ウィーバー率いるオリオールズは
3年連続でリーグ優勝を果たした。
(ワールドシリーズ制覇は70年)
チームには、ブルックス/フランクの両ロビンソンを筆頭に
ブーグ・パウエル、デイブ・ジョンソンなど
名選手がズラリと並んでいた。

また、投手陣においては、
71年に、ジム・パーマーやパット・ドブソンら4人が20勝以上するなど
まさにオリオールズ史上、最強の布陣であった。
その最強投手陣を牽引したキャッチャーが
エリー・ヘンドリックスである。

メジャーデビュー(68年)は27歳と遅い。
69年にレギュラーに定着し、打率.244 12本塁打 38打点。
チームはリーグ優勝を果たすも、
ワールドシリーズではミラクルメッツの引き立て役となってしまった。

70年もチームはリーグ優勝。
ヘンドリックスは、ジム・パーマーなど
名投手をリードしつつ、打率.242 12本塁打 41打点。
レッズとのワールドシリーズでも
打率.364 1本塁打 4打点と活躍、
チームの世界一に大きく貢献した。

71年は、パーマー、ドブソン、クェイヤー、マクナリーの4人が20勝以上をマーク。
ヘンドリックスは、この豪華投手陣の女房役として奮闘し
打率.250 9本塁打 42打点をマークした。

その後、72年にトレードでカブスへ移籍したのを皮切りに
古巣オリオールズに戻ったり、出たりを繰り返しながら
79年までプレー、同年、現役を引退した。

ヘンドリックスがレギュラーだったのは、
オリオールズ黄金期の1969年〜1971年の3年だけである。
メジャー史上屈指の名捕手・・・というわけにはいかないものの、
この輝ける3年間はヘンドリックスの栄光であったに違いない。

2005年、死去。

感情を抑えられないウィーバーや
プライドの高いパーマーの間に入って
淡々と、自分の仕事をこなしていただけあって
ヘンドリックス自身は温厚そのものであった。
ウィーバーと犬猿の仲で知られる名物審判のロン・ルチアーノは
自身の著書で、
「ヘンドリックスのクレームの付け方は、
 メジャーでも随一のスマートさを誇っていた」
と書いている。


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【意外と、勉強は出来たらしい】
Albert BELLE


実働12年ながら
その間、圧倒的な打撃力と、
同じく圧倒的なトラブルメーカーぶりで
異様な存在感を示したスラッガーである。

大学時代から、その実力を遺憾なく発揮し、
1987年、インディアンズから2位指名を受け入団。
89年にメジャーデビューを果たすと
91年、打率.282 28本塁打 95打点をマーク。
当時、貧打に喘いでいたチームにとって
待望のスラッガーの登場であった。

以後も、チームの主力打者として
その打撃力を遺憾なく発揮したベル。
93年、打率.290 38本塁打 129打点で打点王を獲得すると
95年には、打率.317 50本塁打 126打点で二冠王。
チームのリーグ優勝に大いに貢献した。
ちなみに、この年のリーグMVPは
打率.300 39本塁打 126打点のモー・ヴォーン(レッドソックス)。
数字上ではベルの方が上を行っていたが、
マスコミに対する粗暴な態度が災いしての落選・・と言われている。

96年も打率.311 48本塁打 148打点(打点王)・・・と
豪打爆発のベルだったが、
97年、FA移籍でホワイトソックスへ入団。
同チームには、かのフランク・トーマスもおり、
稀代のスラッガーの競演は、ファンの期待を膨らませた。
この年・・・
ベル/打率.274 30本塁打 116打点
トーマス/打率.347 35本塁打 125打点
翌98年・・・
ベル/打率.328 49本塁打 152打点
トーマス/打率.265 29本塁打 109打点
コンビを組んだのは上記の2年だけであったが、
どちらかが突出した成績をおさめると、
どちらかが少々調子を崩す・・・・・、
数字だけ見れば、そろい踏み・・・
という訳には行かなかったようである。

99年からは、オリオールズに在籍
2000年の打率.281 23本塁打 103打点という成績を最後に
以後は、故障等で試合に出場出来ず、
そのまま引退してしまった。

通算打率.295 381本塁打 1239打点、
殿堂入りも可能な成績ではあるが、恐らく無理だろう。
理由は何といっても、そのトラブルの多さである。

●ファンにボールをぶつけて骨折させる。
●デッドボールに怒り、ピッチャーをボコボコにする
●ハロウィンの日に、お菓子をねだりに来たチビッ子達を車で追いかけ回す。
●コルクバットの使用がバレると、
同僚のジェイソン・グリムズリーを使って証拠隠滅を計る
 (審判団の部屋に忍び込ませ、審判団に没収されたバットを同僚のそれとすげ替えさせた)
●賭博
●暴言
・・・etc・・・
トラブルのデパート状態である。

最近、ここまでの悪童はMLBでは聞かなくなってしまった。
・・・不謹慎かもしれないが寂しい気もする。


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【最強のプレーヤー】
Barry BONDS


1985年、パイレーツからドラフト1位指名を受けたボンズは
86年にはメジャーデビューを果たし、
打率.223 16本塁打 48打点 36盗塁をマーク。

その後は、やや伸び悩むも
90年、打率.301 33本塁打 114打点 52盗塁と
その果てしない才能が開花。
92年にも打率.311 36本塁打 103打点 43盗塁をマークするなど
トリプル3は当たり前クラスの
球界を代表する5ツールプレーヤーとして
その名を全米に轟かす事となった。

1993年、父ボビー・ボンズも所属した
ジャイアンツへ移籍。
ゴッドファーザーのウィリー・メイズの背番号「24」を希望したが
さすがに永久欠番だったため諦め、父の「25」に収まった。

選球眼が良く三振は少ない。
バットを長く持つ事はせず、
並外れたスイングスピードでコンパクトに振り抜く、
確実性とパワーを兼ね備えた、ボンズにしか出来ない完璧な打撃。
加えて、ゴールドグラブを8度獲得するなど左翼の守備も抜群。
さらに通算514盗塁でも証明されている走塁のセンス。
ジャイアンツ移籍1年目の93年も
打率.336 46本塁打 123打点 29盗塁。
圧倒的な成績で本塁打/打点の二冠を獲得した。

以後も90年代最高のプレーヤーとして
好成績をマークし、史上初の400本塁打/400盗塁を記録するなど
快走を続けるボンズだったが、
マリナーズのケン・グリフィーや、
98年に本塁打狂騒を巻き起こしたマグワイア/ソーサなどに比べると
その評価は正当とは言い難く、全米クラスの知名度で見ると
上記スター選手よりも低い位置にいると言わざるを得なかった。

が、そんなボンズが一気にスーパースターの座に登り詰めたのが
2001年であった。
2000年も、打率.306 49本塁打 106打点という好成績だったボンズだが
2001年、打率.328 73本塁打 137打点。
98年にマグワイアが記録した年間最多本塁打70をあっさりと更新。
2002年には打率.370 46本塁打 110打点でキャリア初の首位打者を獲得、
さらに出塁率は.582...と、本塁打こそ減ったものの
圧倒的な存在感を示した。

2004年には打率.362 45本塁打 101打点に加え
120の敬遠を含む232の四球を選び、出塁率は脅威の.609。
守備/走塁に衰えは隠せなかったが、打撃では比類無き力を見せつけた。

が、この頃からボンズに「薬物使用疑惑」の影が忍び寄りつつあった。

あらゆる記事や暴露本によって、
ボンズの薬物使用は決定的となり、
アウェーの試合では、観客の激しいブーイングを受け、
グラウンドに注射器が投げ込まれた事もあった。
2007年にはハンク・アーロンの通算本塁打755を抜き去るも
疑惑の所為で全米のファンの歓迎を受けたとは言い難い状況になってしまった。
また、この年限りでジャイアンツとの契約が切れると、
その後、契約を結ぶ球団も現れず、
2009年現在、実質引退の形となっており、
数年後の野球殿堂入りの投票でも苦戦が予想されている。

父ボビーが甘やかして育てた所為か、
従兄弟にレジー・ジャクソンがいる...という血の所為か
若い頃から不遜な性格でチームメイトから孤立し、記者の受けも悪かったボンズ。
さらに薬物疑惑の影響も加わって、
バリー・ボンズといえば、メジャーリーグ史上
トップクラスのヒール.......というイメージが固まってしまっている。
また、その華々しいキャリアも、薬物の力を借りた物として
疑問視する声も多い。

しかしながら、多くのメジャーリーガーが
ボンズの打撃成績は、薬物使用が事実でも、その価値が損なわれる事は無いと語っているように
私的な考えながら、通算打率.298、762本塁打、1996打点、514盗塁、出塁率.444という輝かしい数字は
彼がメジャー史上最高のプレーヤーの一人だという事を如実に物語っていると思う。


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【ミラクルメッツ】
Gil HODGES


19歳でメジャーデビューを果たしたホッジスが
その後、兵役を得て
本格的に、そのキャリアをスタートさせたのは1947年。
この年は、かのジャッキー・ロビンソンの
メジャーデビューの年でもあった。

47年はキャッチャーとして
24試合に出場、打率.156で終わるが、
翌年、ロイ・キャンパネラの入団に伴い
一塁手にコンバートされると、49年、才能が開花
打率.285 23本塁打 115打点をマーク。
オールスターにも出場を果たすなど、
チームの主力打者としてブレークした。

以降、7年連続で100打点をマーク、
その間、オールスターにも毎回出場し
リーグを代表するスラッガーとして名を馳せたホッジス。
49年、打率.283 32本塁打 115打点、
52年、打率.254 32本塁打 102打点、
53年、打率.302 31本塁打 122打点....と活躍、
チームをリーグ優勝に導くものの、
ワールドシリーズではヤンキースにどうしても勝てず、
特に52年のシリーズでは、21打数無安打....と
屈辱を味わった。

55年、打率.289 27本塁打 102打点と、
相変わらずの打棒でドジャースのリーグ優勝に貢献したホッジスは、
この年のワールドシリーズで打率.292 1本塁打 5打点をマーク、
勝負どころでクラッチな活躍を見せ、
チームのワールドチャンピオンに大きく貢献。
5度目の挑戦にして、ようやくヤンクスを打ち破った。

その後も、ドジャースの主力打者として活躍するが
年齢と共に、成績も下降。
1962年にはメッツに移籍し、
63年、現役を退いた。

打撃だけでなく、一塁の守備でも好守を見せ、
ファンの人気も絶大。
ブーイングを浴びた事が無いとまで言われている....。

ホッジスが現役引退後、
再び脚光を浴びるのは1969年の事である。
68年にリーグのお荷物球団メッツの監督に就任したホッジスは、
1969年、チームを奇跡の逆転優勝に導き、
ワールドチャンピオンの座まで押し上げた。
俗にいう、ミラクルメッツの指揮者は、ホッジスである。

1972年、心臓発作で急死。

現役通算2071試合 打率.273 370本塁打 1274打点。
監督としての成功もありながら、
野球殿堂入りは果たせていない。

監督時代、
橋から飛び降り自殺を計ろうとした選手を説得し、
自殺を思いとどまらせた事もるという。


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【Herman take a hike!】
Masanori MURAKAMI

1962年、鶴岡一人率いる南海ホークスに入団を果たした村上は、
64年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A、フレズノへ
野球留学という形で派遣された。

いきなりの米国生活に戸惑いもあった20歳の村上だったが、
必殺武器のスクリューボールと、アメリカで会得したチェンジアップが冴え渡り、
リリーフ左腕投手としてマイナーで結果を出し始める。
珍しい日本人選手という事で、同僚からからかわれたり、
イヤミのような事を言われる事もあったが、
血気盛んな村上は、なめられてなるものかと相対し、
周囲から認められる存在になってゆく。

本来なら6月までの野球留学だったが、
どういうわけか、ホークスから帰国の令は出ず、
そのままフレズノで投げ続け、
村上は、マッシーと呼ばれ、
いつしかアメリカでの選手生活を満喫するようになっていた。

8月31日、
メジャー昇格が伝えられる。
1Aからメジャー.....という『二階級特進』。
村上は、急ぎ、チームの遠征先ニューヨークへ飛んだ。
翌日のメッツ戦で、メジャー初登板を果たし、
この年、9試合で1勝、1セーブ、防御率1.80。
メジャーリーガーとして、日本人で初めての登板/勝利/セーブをあげ、
歴史にその名を刻んだ。
チームメイトも村上を暖かく迎え入れ、
とりわけウィリー・メイズは困った時に助け舟を出してくれたり
自宅でのパーティーに招待したりと、何かと気を配ってくれたという。

翌65年、村上はこの年もジャイアンツと契約していたが、
南海が返却を要請。
両球団は、所有権をめぐり、激しく対立する。
結局、65年のみ、ジャイアンツでプレーするという形で双方が和解。
マッシー村上は、メジャーで一ヶ月遅れの開幕を迎えた。

当時のジャイアンツは、野手にウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダら
投手にホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、ウォーレン・スパーンらを擁する
後に殿堂入りを果たすスターがゴロゴロいるタレント集団であった。
村上はそんな面々と並んでチームの勝利に貢献、
二年目の65年も、45試合で4勝1敗、8セーブ、防御率3.75と大活躍。
8月には『ムラカミデー』も開催され、メジャー初先発、
3回も持たずにKOされるが、打線が奮起しチームは勝利を飾った。

ウィリー・メイズの超絶守備をバックに投げ、
ロベルト・クレメンテから三振を奪い、
サンディ・コーファックスからヒットを放つ...........。
かの有名なホアン・マリシャルとジョニー・ローズボロの乱闘騒ぎも
村上はその場にいた。
パーティーでジャッキー・ロビンソンやスタン・ミュージアルとも交流を持った。

ある試合では、キャッチャーのジャック・ハイアットから
「マウンドに監督(ハーマン・フランクス)がやってきたら
 Herman take a hike!と言えばいい」とアドバイスを受け、真に受け、実行。
Herman take a hike!とは『おととい来やがれ!!! ハーマン!!』という意味。
キョトンとする監督と試合中にも関わらず大爆笑する内野陣。
この事件は翌日の新聞に大きく扱われ、
『Herman take a hike!』はマッシー村上の代名詞となった。

66年からは、契約通り、日本球界に復帰。
南海や日ハムなどで、計103勝をマークした。

マッシー村上、真の『パイオニア』である。

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【sweet lou】
Lou PINIELLA

1969年、ロイヤルズで本格的なキャリアをスタートさせたピネラ。
主にレフトを守り、打率.282、11本塁打、68打点で、新人王を獲得。
翌70年も打率.301、11本塁打、88打点を叩きだし、
チームの主力の一人として活躍した。
72年には打率.312、11本塁打、72打点をマーク、
初のオールスター出場も果たし、その名を大いに売った。

74年、30歳でヤンキースへトレード。
移籍一年目こそ、打率.305、9本塁打、70打点と安定した打撃を見せたが
75年、76年は、怪我の影響もあって不調をかこった。

77年、あのレジー・ジャクソンがヤンキースへ移って来た年。
ピネラは規定打席には足りないものの、打率.330、12本塁打、45打点と復調。
ドジャースとのワールドシリーズでも3打点をあげる活躍を見せ、
チームの世界一に貢献した。

その後も、78年に打率.314、6本塁打、69打点をマークするなど
勝負強い打撃で、レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン、ミッキー・リバースといった
アクの強い面々と並び、チームの勝利に貢献したピネラ。
結局84年までプレーし、ヤンキーズのユニホームで現役を引退した。

通算1705安打、102本塁打、766打点、打率.291。

現役時代のピネラは、熱血漢で激情家。
スウィート・ルーなるニックネームで呼ばれていた程のハンサム・ガイだったが、
チャンスで凡退などした時には、
興奮状態でベンチに戻り、バットでウォータークーラ、椅子、天井のライト........etc
手当たり次第に破壊しつくした。
ピネラがこの状態になると、さしものレジー・ジャクソンも武闘派ビリー・マーチンも
立ち向かう事は敵わず、及び腰になって逃げ回った。

また、スタンドから罵詈雑言をファンから浴びせられた際には
「打てないのはテメエの所為だ。テメエのワイフがしつこいから
 俺はいつもクタクタだ。あの女をベットから連れ出してくれさえすれば、俺の体力も復活するんだがな!!」
などとやり返したという。

現役引退後は、レッズやマリナーズの監督として采配をふるい、
しばしば、現役時代を彷彿とさせる、瞬間湯沸かし器ぶりを見せつけている。



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【名選手/名監督】
Joe TORRE

1960年、19歳でフリーエージェントとして
ミルウォーキー・ブレーブスと契約を交わしたトーリ。

その年にはメジャーデビューを果たし
翌61年には正捕手としてレギュラーを獲得、
ハンク・ハーロン、エディ・マシューズといった錚々たる面々と共に
チームを支える一角を担った。

63年、打率.293、14本塁打、71打点をマークすると
64年には打率.321、20本塁打、109打点と打撃開眼。
65年は打率.291、27本塁打の猛打に加え、
ゴールドグラブも獲得するなど、
24歳にしてアーロン、マシューズに並ぶ、
チームの中心選手となった。

66年も打率.315、36本塁打、101打点...と好成績を残し、
63年〜67年まで5年連続でオールスターに出場。
押しも押されぬリーグのトップ選手となったトーリだったが
69年、カージナルスへトレード入団すると、
同じポジションに名捕手ティム・マッカーバーがいた影響で
内野手にコンバート。
主に、一、三塁を守りながら、打棒でチームに貢献、
70年、打率.325、21本塁打、100打点、
71年には打率.363、24本塁打、137打点、
首位打者と打点王の二冠に加え、最多安打、シーズンMVPにも輝き、
最高のシーズンを送った。

75年からメッツでプレー、
77年にはシーズン途中からプレーイングマネージャーとなるも
この年限りで現役を退いた。

その後、
メッツ、ブレーブス、カージナルスで采配をふるったものの
さしたる結果を残せず、名監督と呼ばれるには程遠かったトーリだったが、
96年にヤンキースの監督に就任すると運命が変った。
ポール・オニール、ティノ・マルティネス、デビッド・コーン、
チャック・ノブロック、クレメンス、さらには
バーニー・ウィリアムス、デレク・ジーター、
ホルヘ・ポサダ、マリアーノ・リベラら、
チームの勝利に並々ならぬ執念を燃やすプロ集団を見事にまとめあげ、
12年間で地区優勝10度、リーグ優勝6度
ワールドシリーズ制覇を3年連続を含む4度、達成するなど
名将の名を欲しいままにした。

2008年からはドジャースを指揮、
08年はチームを地区優勝に導いている。

選手としては通算2342安打、252本塁打、1185打点、打率.297。
名監督として名高い人物であるが、
選手としても一流であった。



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【缶ビール・ボイド】
OIL CAN BOYD

メジャーリーグ史上、屈指のカラフルな投手である。

1980年、レッドソックスに入団したボイドは
83年、本格的にメジャーデビューを果たし、
防御率3.28、4勝8敗...とまずますの成績を残した。

翌84年は、ローテーションの一角を占め、防御率4.37、12勝12敗。
85年は、272イニングを投げ、防御率3.70、15勝13敗...と
ブルース・ハーストや、若きロジャー・クレメンスらと共に、チームを支え、
86年は防御率3.78、16勝10敗で、リーグ優勝に大きく貢献、
リーグを代表するピッチャーの一人に成長した。

ボイドの名を全国区にまで知らしめたのは
投手としての実力だけでは無く、
むしろ、そのキャラクターの濃さであった。
エキセントリック/短気/派手なパフォーマンス....。
相手打者を打ち取ると、腕を突き上げ咆哮し、
時には、手をひらひらとそよがせて打者を小馬鹿にするような仕草をしてみせた。
86年、好成績を残していながらオールスターに選ばれなかった時は
我を忘れて怒り爆発、精神病院に担ぎ込まれ、
さらに同年、ワールドシリーズ7戦の先発を天候の影響で逃すと、
(スライド登板出来ず、ハーストにその座を奪われた)
子供のように泣きじゃくった。
尊敬するサッチェル・ペイジを真似て
『シンキング・シンカー』『スリッパリー・スライダー』など、
自分の持ち球に名前を付けたりもした。
ちなみに本名はデニス・ボイド。
『オイルカン』のニックネームは、ボイドが大のビール好きで
マイナー時代、試合前に6本もの缶ビールを飲んでいた事に由来する。
ボイドの故郷、ミシシッピでは、ビールをオイルと呼んでいたのだ。

ともあれ、メジャーリーグの名物男として
知られるようになったボイドだが、
87年以降は、腕の故障もあって、精彩を欠いた。
90年にエクスポズへ移籍し、防御率2.93、10勝6敗と好成績をおさめ
久方ぶりに光を放ったが、それまで。
91年を最後にメジャーリーグの世界から姿を消した。

.......が、しかし
『50歳まで投げるのが夢』と語りしボイドが
31歳で夢を捨てるわけが無かった。
その後、97年まで独立リーグを中心に投げ続け、
2005年、45歳にして、独立リーグの『カナディアン アメリカンリーグ』の
ブロックトン・ロックスと契約。
17試合を投げ、防御率3.83、4勝5敗、69三振と、
年齢を感じさせない投球を披露した。

メジャー通算78勝77敗、防御率4.04。

50歳まであと一歩の今も、
虎視眈々とメジャー復帰を目指している.......かもしれない。



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【良妻】
Ray KNIGHT

1970年、ドラフト10位でレッズに入団したナイト。
74年にメジャーデビューを果たしたが、
思うような結果を残すには至らなかった。
また、75〜76年の間、まさに『ビッグ・レッド・マシーン』の絶頂期には
メジャーでのプレーを果たせず、歴史的チームの一員になり損なってしまう。

77年に再度メジャーへ昇格し、
78年までの2年間、80試合程度の出場ではあるが
着実に力を付けていく。

78年オフ、ピート・ローズがチームを去り、
三塁のポジションが空くと、
ナイトに、そのポジションが与えられた。
ようやく定位置を得た26歳のナイトは奮起し、
79年、打率.318、10本塁打、79打点でブレーク。
MVP投票で5位につけるなど、大躍進する。

82年、アストロズへトレード移籍すると
この年、打率.294、6本塁打、70打点
83年も打率.304、9本塁打、70打点....と
抜群の安定感でチームに貢献。
レッズ時代に続き、新チームでもオールスター出場を果たすなど、
順風満帆に見えたナイトだったが、
84年、シーズン途中でメッツに移籍すると、
85年、打率.218、6本塁打、36打点.....と
極端に成績を落としてしまう。

『奴はいらない。放出してしまえ』
メッツのフロントはナイトを終わった選手として
不要論をぶちまけたが、
監督のデーブ・ジョンソンは、頑なにそれを拒否した。
ナイトの経験を必要な力と信じたのである。

そのオフ、意気に感じたナイトは猛ハッスル、
減量に務め、自宅の庭に設置したバッティングケージで
打撃練習に没頭した。
「頑張って、メッツのサードはあなたのポジションよ!!!」
82年に娶った二人目の妻ナンシー・ロペス(殿堂入りの名女子ゴルファー)
は、夫の練習中、可能な限り傍らにおり、エールを送った。

86年、ナイトは、ハワード・ジョンソンやケビン・ミッチェルといった
イキのいい若手選手を制して三塁の定位置を獲得、
打率.298、11本塁打、76打点...と華麗に復活。
カムバック賞を受賞したばかりか
レッドソックスとのワールドシリーズでも
打率.391、1本塁打、5打点、4得点の大暴れ!
メッツの世界一に大きく貢献し、シリーズMVPを獲得。
監督の妻の恩に十二分に報いたのであった。

86年の大活躍で燃え尽きてしまったのか、
ナイトは88年、タイガースでそのキャリアを終える。

通算1495試合、1311安打、84本塁打、打率.271。



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【Billy Buck is BACK!!!!!!!!】
Bill BUCKNER

ビル・バックナー=WSでのトンネル....。
一度付いてしまったイメージはいかんともし難いが、
バックナーは、当時メジャーでも屈指の、打撃の職人であり、
60〜90年代にわたりメジャーに在籍した
4ディケードプレーヤーでもある。


1968年、ドラフト2位指名でドジャースに入団したバックナー。
71年、21歳の若さでメジャーデビューすると、
72年には打率.319、5本塁打、37打点をマーク、
早くも、その好打者ぶりを発揮する事となる。

74年には打率.314、7本塁打、58打点、31盗塁、
76年は打率.301、7本塁打、60打点、28盗塁...と
安定した成績を残していたバックナーだったが、
77年、トレードでカブスへ移籍。
新天地でも78年に打率.323、5本塁打、74打点、
80年には打率.324、10本塁打、68打点で首位打者を獲得するなど活躍。
リーグを代表するヒットマシーンとしての地位を確立した。

バットコントロールに秀で、三振は少ないが
その一方で、早いカウントから打ちに行くので四球も少なく
出塁率は高く無い。
元々は外野手 兼 一塁手だったが、カブス移籍に伴って
本格的に一塁手へコンバート。
名手までとはいかないまでも、守備は悪くは無かった。

その後もカブスの主力打者として活躍、
82年には打率.306、15本塁打、105打点...と
勝負強いクラッチヒッターぶりも見せつけた。

84年、打率.209と低迷するバックナーは
シーズン途中でレッドソックスへトレード移籍、
初のアメリカンリーグであったが、
新天地では打率.278、11本塁打、67打点と
期待通りの働きをしてみせた。

85年、打率.299、16本塁打、110打点と、
ベテランらしい渋い活躍を見せ、
86年も打率.267、18本塁打、102打点..でチームを牽引、
ウェイド・ボッグス、ジム・ライスらと共に、
無くてはならない貴重な戦力として
レッドソックスのリーグ優勝に大きな貢献を果たした。

.......が、思わぬ出来事がバックナーを襲う。
メッツとのワールドシリーズ、
レッド・ソックスが3勝で優勝にリーチをかけた第6戦。
ランナーを置いた状況で、メッツのムーキー・ウィルソンの一塁ゴロをトンネル、
決勝の走者を還してしまい、
チームのサヨナラ負けを大いに演出してしまう。

結局、ワールドシリーズはメッツが制し、
バックナーは最大の戦犯として、
ファンから非難を浴びる事となってしまった。

その後、エンゼルス、ロイヤルズと渡り、
90年、因縁のレッドソックスで22年におよぶキャリアの幕を降ろした。

通算2715安打、183本塁打、1208打点、打率.289。

殿堂入りは果たせず、
バックナーについて語られるのは常にエラーの事ばかりである。
が、10回裏、あと1つアウトを取れば勝ち...という、二死走者無しの状態から、
三連打&ワイルドピッチで同点......。
これは異常ともいえる状況であり、件の敗戦はバックナーの所為とは言い難い。
結局、バックナーは、この歴史的敗戦の責を一人で背負わされてしまったに過ぎないのである。

2008年4月、フェンウェイパーク、
レッドソックスの本拠地開幕戦のオープニングセレモニーは
バックナーの始球式がハイライトであった。
すでにバンビーノの呪いは解かれ、
満員の観客はバックナーに割れんばかりの歓声を送った。
こみ上げる涙をこらえられないバックナー。

バックナーの長い『トンネル』が終わった瞬間であった。

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【クラウン・プリンス】
Max PATKIN

アメリカ野球ファンなら
知っておいて欲しい、有名な『野球道化師』である。

元々は、150km以上の速球を投げる速球投手だったパトキン。
が、制球力がからっきしの三級品だった事と
腕の故障でメジャーへは、上がれないでいた。

1944年、兵役に就いたパトキンは
同じく兵役中のジョー・ディマジオと
戦地での試合で対戦する機会を得た。
メジャーを代表するスター、大ディマジオと
ノーコンの三流投手では勝負になるわけもなく、
ポカーンと大ホームランを打たれてしまう。
が、この被弾がパトキンの人生を大きく変える事となるのだ。
ダイアモンドを優雅に回るディマジオの後を、
その真似をして、フザけて付いて回るパトキン。
球場は、大きな笑いに包まれたのであった。

兵役から戻ったパトキンは、
戦場での爆笑が忘れられなかったのか、
マイナーの試合で、同僚の物真似や、変テコなダンスで
ベンチや、観戦客を楽しませる方に夢中になっていた。
その噂を聞きつけたインディアンズのオーナー、ビル・ベックは、
パトキンを引き抜き、チームの『お笑いコーチ』に任命。
一塁コーチャーズボックスで相手捕手のサインを盗み見るジェスチャーなど
その『芸』は多くのファンを楽しませ、
球団の集客増加に大きな貢献を果たした。

やがて、もう役目は終わった....と考えたベックにより
マイナー・リーグに戻されたパトキンは
野球選手の道をあきらめ、現役引退。
ジョー・ディマジオの後押しもあって、
フリーの『野球道化師』として生きる道を選んだ。

野球道化師・パトキンは、
マイナーリーグの試合を中心に、
呼ばれれば、何処へでも駆けつけ、
ファンを楽しませた。
ゴムのように自在に変化する顔芸や
お得意の、変テコダンスに物真似。
グラウンド上をひたすらゴロゴロ転がると思えば、
砂塵を巻き上げる派手なスライディングを敢行。
口に含んだ水を観客や選手に噴射し、
バッターボックスに向かう選手の頬にキス。
キャップを斜めにかぶり、背番号『?』のヨレヨレのユニホームに身を包んだ
マイナーリーグの人気者は
いつしか『ベースボール・クラウン・プリンス(野球界の道化師王子)』
と、呼ばれるようになり、
約50年、毎日休む事なく土まみれになりながら、
4000試合に〝出場〟し続けた。

95年、怪我を理由に〝引退〟するが、
道化師王子は74歳になっていた。

1999年、79歳で死去。

3000本安打に500本塁打、300勝.........、
球界には、幾多の偉大な選手が存在するが、
パトキンのような人物も、彼らに負けず野球を愛した
堂々の殿堂級人物でろう。

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【ロウ師】
Charlie LAU

1956年から11シーズンに渡り、
タイガースや、オリオールズで
捕手としてプレーしたロウ。
選手としては、通算527試合、打率.255、16本塁打、140打点...と
平凡以下の成績しか残せず、67年に現役を引退する。

ロウの名が広く球界に知れ渡るのは
コーチとしてロイヤルズに入団してからであった。

打席で前屈み状態になり、
体重を軸足にかけ、ボールを待ち、
そして身体をひねるようにスイングする。
前屈み状態になる事でストライクゾーンを狭め、
打球は右へ左へ打ち分けるスプレーヒッティングを心がける。

その打撃法はメジャーリーグに広がり、
それまで打撃のバイブルとされていた
テッド・ウィリアムスの論理に取って変ったと言われており、
当のテッドはロウの方法論を忌み嫌っていたという...。

ロウの一番弟子といえば、
何と言ってもジョージ・ブレットであろう。
師の教えに忠実に従ったブレットの偉業は
今更語る事も無い事である。

特に76年は、ブレットとハル・マクレー、
同じ師を持つチームメイト同士が
激しい首位打者争いをくり広げ、
(結果は1厘差でブレットに軍配)
ロウの名を一層、世に知らしめる事となる。

他にも、ピート・ローズやトニー・グウィン、ウェイド・ボックスら、
錚々たる面々に影響を少なからず与えた...と考えられている。

1984年、51歳の若さで癌の為、死去。

ブレットは語る。
「ロウの教え.......、当初は、それが私の人生を
 どれほど変える事になるか、全く解っていなかったよ」



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【インスリン投手】
Bill GULLICKSON

高校時代、2年で23勝をあげ、
ノーヒットノーランを3度も達成する怪童ぶりを見せつけ、
1977年、ドラフト1位指名で
モントリオール・エクスポズに入団したガリクソン。
80年、21歳の時に本格的なメジャーデビューを果すと、
この年、防御率3.00、10勝5敗の好成績で
新人王投票2位に付ける活躍を見せ、
チームのローテーション投手の座を獲得する。

その後、
82年防御率3.57、12勝、
83年は防御率3.75、17勝をあげるなど
エクスポズの主力投手として活躍。
80〜85年の6年間、200イニング以上登板が3度、
10勝以上が5度、防御率は3点台を切った事はなく、
絶対的なエースとは言わないまでも、
ローテーションをきっちり守る、
優秀なイニング・イーターぶりを発揮する。

86年にはレッズに移籍するが、
ここでも防御率3.38、15勝をマークし、
87年はレッズとヤンキースで14勝をあげた。

88年、日本のジャイアンツへ通算101勝の実績をひっさげてFA移籍。
1年目は、防御率3.10、14勝をマークして
前年に現役を引退した江川卓の穴を埋める活躍を見せるが、
2年目は怪我に泣き、思うような成績を残せず、退団する。

アメリカに戻ったガリクソンは、
90年、アストロズで防御率3.82、10勝の成績を残すと、
翌91年はタイガースで防御率3.90、20勝。
キャリア唯一のタイトルとなる最多勝を受賞する。

その後、2年連続で10勝以上をマークし、
94年に現役を引退。

通算398登板、162勝、防御率3.86。

現役中は糖尿病を患っており、インスリンを打ちながら投球を続けた。

ジャイアンツ(日本)時代にチームメイトだった桑田真澄とは
固い友情で結ばれ、息子のミドルネームを『クワタ』とした程。



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