GUMBO
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【オールドルーキー】
Jim MORRIS


テキサスのとある高校。
野球部の監督は、ナインを鼓舞するべく
彼らとある約束をする。
『チームが地区大会で優勝したら、自分はメジャーのテストを受ける』

その約束は実現するに至った。
チームは見事地区大会で優勝の栄冠を勝ち取ったのだ。
監督は、約束を守り、プロテストを受けた。

監督の名はジム・モリス、35歳。
実はモリスは1983年にミルウォーキー・ブルワーズからドラフト1位指名を受けた
元プロ野球選手なのであった。
結局メジャーでの登板は叶わず引退し、物理の教師として働きながら
野球部のコーチを勤めていたが、
速球のスピードは衰えてはいなかった。

テストの結果は合格。
タンパベイ・デビルレイズに入団し、
マイナーリーグでの活躍を経て、
99年9月、ついにメジャーのマウンドに立った。
この年、5試合に登板し防御率5.79 0勝。
翌年2000年は16試合で防御率4.35 0勝。
2年で21試合に出場し、2度目の現役生活を終えた。

登板した21試合で、勝ち星もセーブもホールドも0。
が、35歳のルーキーの感動は、
『オールド・ルーキー』というタイトルで映画化され、
ジム・モリスの名もメジャーリーグの歴史にささやかながら永遠に残る事となった。


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【名捕手から名将へ】
Mike SCIOSCIA

1976年、ドラフト1位指名でドジャースに入団したソーシアは、
80年にメジャーデビュー。
81年には、22歳の若さで、
ベテランのスティーブ・イェガーを押しのけ、
チームの第一捕手の座についた。
この年、打率.276 2本塁打 29打点、
ドジャースのリーグ優勝に貢献、
ヤンキースとのワールドシリーズでは、打撃好調のイェガーに出番を奪われ、
3試合でわずか6打席の出場にとどまるが、チームは優勝。
ほろ苦くも、嬉しい一年になった。

その後は冴え渡るリードと堅い守備でホームを死守。
完全なる正捕手の座に登り詰め、
84年から引退までの9年間、100試合以上マスクをかぶる事になる。

85年、打率.296 7本塁打 53打点 出塁率.407の好成績で
チームを地区優勝に導くと、
88年は、打率.257 3本塁打 35打点ながら、メッツとのチャンピオンシップで
ドワイト・グッデンから同点本塁打を打つなど活躍。
ワールドシリーズでも正捕手として出場し、今度は堂々世界一に貢献。
翌89年からは2年連続でオールスターに選出され、
リーグを代表する捕手に成長した。

92年に、怪我の影響もあって現役を引退したソーシアは、
2000年にエンゼルスの監督に就任。
2002年にワールドシリーズ制覇を果たし、名将として君臨。
その契約は2018年まで結ばれている。

現役成績は、1441試合 1131安打 打率.259 68本塁打 446打点 出塁率.344。


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【一瞬の栄光】
LaMarr HOYT


アパラチアリーグで活躍したのち、
1973年にヤンキースからドラフト指名を受け入団。
一度もメジャーに上がれないまま、
77年にホワイトソックスにトレード移籍したホイトは、
79年、ようやくメジャー初登板を成し遂げると、
80年に防御率4.57 9勝をマーク、頭角を表すに至った。

抜群のコントロールを武器に
キレのあるカーブ、スライダー、チェンジアップを投げ分け、打者を翻弄。
82年には防御率3.53 19勝で最多勝。
83年は防御率3.66ながら24勝をあげ、チームを地区優勝に導き、
最多勝とサイ・ヤング賞を受賞。
木こりのような風貌のムサい髭男が輝かしい栄冠を手中におさめた。

84年、防御率4.47 13勝をマークするも18敗を喫し
85年にはサンディエゴ・パドレスに移籍。
ホイトは新チームでキャリアハイの防御率3.47と好投、
16勝をあげサイ・ヤング勝投手の面目を保つ。

が、終焉はいきなりやってきた。
86年の初頭、2度に渡り麻薬所持の現行犯で逮捕されると
防御率5.15 8勝と低迷。
シーズン終了後の12月、三たび麻薬所持でお縄を受け、
そのままメジャーのマウンドに立つ事なく現役を終えた。


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【ゾロ】
Zoilo VERSALLES


キューバ出身のヴェルサイレスは
1959年、若干19歳にしてワシントン・セネターズの遊撃手としてデビュー。
61年にミネソタツインズに移籍して
打率.280 7本塁打 53打点でレギュラーに定着すると、
以降、華麗な守備でチームを支え、
63年にはオールスター出場に加え、ゴールドグラブも受賞。
リーグ屈指の遊撃手となった。

65年、打率.273 19本塁打 77打点をマーク、
126得点、45二塁打、12三塁打は共にリーグ最多で
チームのリーグ優勝の原動力となり、
打率.321 98打点のチームメイト、トニー・オリバを抑えMVP獲得。
二度目のオールスター出場とゴールドグラブにも輝き、
キャリア最高の年を過ごした。

66年以降は一転、打撃面で苦しむようになり
成績は下降の一途。
68年からチームを転々とし、
72年は来日し広島カープに入団。
元MVPプレーヤーの片鱗を見せつけるには至らず、
打率.189 4本塁打でそのまま現役を引退した。


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【ヘッド・ハンター】
Pedro MARTINEZ


ドジャースでエースに君臨していた兄ペドロを追うように
1992年に同チームに入団したペドロ。
93年にメジャーに定着し、リリーフ投手として65試合に出場
防御率2.61 10勝 2セーブをマーク、
兄と共にチームの勝利に貢献するも
オフにエクスポズへトレード移籍の運びとなる。

エクスポズ1年目の94年、先発に転向し防御率3.42 11勝をあげると
95年は防御率3.51 14勝をマーク、96年も兄ラモンと投げ合うなど防御率3.70 13勝と
チームに欠かせないエース級の投手に成長を遂げた。

が、ペドロの伸びしろは、こんなもんじゃなかった。
97年、投手コーチのボビー・クエイヤーからチェンジアップの強化を勧められたペドロは
見事これに成功。落差の大きな新チェンジアップを軸に、
投球の幅が格段にアップし、防御率1.90 17勝を記録。
サイ・ヤング賞を受賞し、
一躍、超一流投手の仲間入りを果たす。

150キロ後半の豪速球に加えコントロールは抜群。
キレ味鋭いハードカーブに件のチェンジアップを織り交ぜ
時には打者を威嚇すべく頭付近をえぐるように投げ込む。
付いたニックネームは『ヘッド・ハンター』
才能を満開に開花させたペドロを打ち崩すのは容易では無かった。

98年にレッドソックスに移籍すると
防御率2.89 19勝でチームのポストシーズン進出に貢献。
99年は防御率2.07 23勝をあげ、最優秀防御率・最多勝・最多奪三振・二度目のサイ・ヤング賞を受賞。
2000年も防御率1.74 18勝で、最優秀防御率・最多奪三振・三度目のサイ・ヤング賞と
まさに八面六臂の大活躍を見せた。

「呪いなんて俺は信じない。バンビーノの奴をここに連れて来い。ケツにぶち込んでやる!」
レッドソックスはバンビーノことベーブ・ルースを放出して以来、
ワールドシリーズ制覇から遠ざかっていた。
あと1勝で世界一というチャンスを4回迎えて全て逃しているような事実も
『バンビーノの呪い』の神秘的な信憑性を高めていた。
闘争本能剥き出しのペドロは、レッドソックス入団後、
当然の如く、チーム最大の仇『バンビーノ』に噛み付いた。

01年は怪我で途中離脱し18試合の登板に終わったペドロだったが
02年は防御率2.26 20勝、03年は防御率2.22 14勝…と看板に恥じない投球を披露。
そして04年ペドロは、防御率3.90 16勝と調子を崩したものの、チームはリーグ優勝。
カージナルスとのワールドシリーズでも1勝をあげ、レッドソックス86年ぶりの世界一に
大きく貢献し、前述の公約(?)を守った。

05年からはニューヨークメッツに移籍。
ボソックス時代の圧倒的な投球は若干影を潜めるものの
正確無比のコントロールとキレのある変化球は健在、
06年に通算200勝、07年に通算3000奪三振を記録した。

09年、フィリーズに移籍。
チームのリーグ優勝に貢献するも、
ワールドシリーズではヤンキースの松井秀喜の打棒の前に屈し、
2敗を喫し、そのまま現役を引退した。

通算476試合 防御率2.93 219勝 3154奪三振。
メジャーの歴史でも屈指の右投手で、
マウンド上では、打者に牙をむく鬼神のような獰猛さを見せたが
実際は悪フザケが好きな、陽気なドミニカンであった。


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【the KID】
Ken GRIFFEY Jr.


ビッグレッドマシーンの一員である
ケン・グリフィーを父に持つサラブレッドのジュニアは、
高校時代に2度の最優秀選手に輝くなど、
天賦の才を遺憾なく発揮。
シアトル・マリナーズから1位指名を受け入団する。
1989年、19才でメジャーに昇格したジュニアは、
打率.264 16本塁打 61打点で新人王投票3位に付ける活躍を見せ、
90年には打率.300 22本塁打 80打点でセンターのレギュラーに定着。
早々とブレークを果たす。

しなやかで美しいフォームから力強い打球を放ち、
走れば俊足、守れば広い守備範囲でスーパープレイを連発。
やんちゃなルックスと、天真爛漫かつ、華やかな佇まいも相まって
若くして当代きってのスーパースターの座に座る事となった。

また90年には現役を続けていた父がマリナーズに入団。
史上初となる親子でスタメン出場を果たし、
更に2者連続本塁打を記録、野球ファンに爽やかな感動を提供した。

91年には打率.327 22本塁打 100打点、
史上最小年齢での100打点をマークすると、
その後も着実にステップアップ。
93年、打率.309 45本塁打 109打点、
ストライキにより8月にシーズンが終了した94年は
打率.323 40本塁打 90打点で本塁打王を獲得、
ストライキが無かったら60本超えも夢では無かった。

フォトジェニックなグリフィーのトレードマークは、
練習中などに帽子を後ろ前に被るスタイルだ。
一部のお堅い関係者からは批判めいた発言もあったが、
グリフィーは、気にする事なく、逆に94年オールスターのホームラン競争で
帽子を後ろ前に被ったスタイルで優勝。
その実力をまざまざと見せつけ周囲を黙らせた。

スーパープレイの代償で左手首を骨折した95年は、
怪我の影響で打撃も鈍り打率.258と調子を落とすも
96年は打率.303 49本塁打 140打点と負傷前よりパワーアップ。
さらに翌97年は打率.304 56本塁打 147打点でチームを地区優勝に導き、
本塁打・打点の二冠王とシーズンMVPを獲得。
ジュニアは父を超え、メジャーリーグを代表する超一流のスーパースターに登り詰めた。

98年、56本塁打。99年、48本塁打と97年も合わせて3年連続で本塁打王に輝いたグリフィーだったが、
自らトレード志願し、2000年からかつて父が在籍したシンシナティ・レッズに入団。
マリナーズファンから脅迫めいた手紙が届くなど、大騒ぎとなった。

レッズ移籍後、30才になっていたグリフィーは、
長く人工芝の球場でプレーしていた所為か、足の故障に苦しめられ、
2000年こそ打率.270 40本塁打 118打点となんとか面目を保つが
01年、打率.286 22本塁打 65打点(111試合)。
02年に至っては、70試合の出場で打率.264 8本塁打 23打点と低迷する。

その後も故障で03、04年と二桁試合数にとどまり、かつての輝きを失ったジュニアは
05年、打率.301 35本塁打 92打点、
07年は、打率.277 30本塁打 93打点とややしばし成績を持ち直すも
足の状態は良くなる事はなく、
08年シーズン途中にホワイトソックスへ、
09年は古巣のマリナーズに戻り、
10年、現役を引退した。

マリナーズ時代は、11年連続オールスター出場に加え、
10年連続ゴールドグラブ賞を受賞。
華々しいキャリアのイメージは大半がマリナーズ時代のものである。
が、ジュニアが90年代最高のスーパースターだった事に異論を持つ者は皆無だろうし、
なんといってもステロイドをはじめとした薬物の噂とは無縁でクリーンだった事実が
グリフィーの価値を大いに高めている。

イチローをはじめとして、多くのメジャーリーガーの憧れの存在であり、
殿堂入り確実な、歴史に残る偉大なレジェンドである事に間違いない。

通算2671試合、打率.284 630本塁打 1836打点 184盗塁。


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【Godzilla】
Hideki MASTUI


読売ジャイアンツでの10年で、1390安打、332本塁打、889打点をマーク、
日本を代表するホームランバッターだった松井が海を渡ったのは2003年。

俊足巧打タイプのイチローが既にスターの仲間入りを果たしていたメジャーリーグに
初のパワーヒッターとして挑戦する事となった松井は
名門ニューヨークヤンキースに入団する。
本拠地の開幕戦で満塁本塁打を放ちファンを熱狂させた松井だったが、
日本時代のような豪打は影を潜め、
ゴロでの凡打が多かった所為で『ゴロキング』などと揶揄される事もあった。
が、結果として打率.287 16本塁打 106打点。
本塁打こそ期待した数字には及ばなかったものの、100打点をマーク。
ポストシーズンでも活躍。
勝負強い打撃はファンの心を掴み、
その穏やかで真摯な物腰の所為かNY記者の投票による『グッドガイ賞』に輝いた。

2004年は一転長距離打者の片鱗を見せつけ
打率.298 31本塁打 108打点。
今のところ日本人野手で唯一となる30本塁打超えを果たす。
勝負強い打撃にも磨きがかかり、
名門ヤンクスの中軸打者としての地位を確立した。

05年は打率.305 23本塁打 116打点。
本塁打こそ減りはしたものの、打率、打点は前年より上昇。
フォアザチームに徹したクラッチな打撃を披露し、
チームメイト、ファンから絶大な信頼を得るに至った。

06年、5月、好調な打撃を見せていた松井だったが
好事魔多し、左翼守備の際に左手首を骨折するアクシデントに見舞われ、
日本時代から続けていた連続試合出場も1768で途切れてしまう。
治療とリハビリを終え、9月にスタメン復帰した折には
ファンからの大きなスタンディング・オベーションで迎えられた。

07年も打率.285 25本塁打 103打点と、勝負強い打撃を披露した松井だったが、
08年は今度は、膝の故障で思うようにプレー出来ず、93試合の出場に留まる。

が、09年、松井はキャリア最高の瞬間を迎える。
シーズン打率.274 28本塁打 90打点でチームを地区優勝及びリーグ優勝に導いた松井は
フィリーズとのワールドシリーズで脅威の大爆発。
1試合6打点を含む打率.615 3本塁打 8打点(6試合)をマーク、
シリーズMVPにも選出され、名門ヤンキースの歴史にその名を英雄として残す事となった。

シーズンオフ、FAとなった松井だったが、
ヤンキースとは契約の折り合いが付かず、
10年、エンゼルズに移籍。
移籍後、初のヤンキースタジアムの試合では、
ファンからのスタンディング・オベーションで迎えられる感動の一瞬もあったが、
数字の方は、打率.274 21本塁打 84打点と、まずまずといったレベル。
期待された数字には至らなかった。

11年はアスレチックスに移籍し打率.251 12本塁打 72打点
衰えを隠せない松井は12年、レイズで34試合に出場したのみで現役引退を表明した。

メジャー通算1236試合、1253安打、打率.282 175本塁打 760打点。
日本時代の松井の数字を考えれば、メジャーでの成績は少々物足りないようにも見える。
だが、その無類の勝負強さと名門ヤンキースにピッタリな穏やかで紳士な佇まいは、
ニューヨークのファンの心に刻み込まれている。
ポストシーズンの通算成績は56試合で、打率.312 10本塁打 39打点。

2013年7月28日、ヤンキースは松井と1日契約を結び、引退セレモニーを開催、
その功績に対し、おおいに報いた。

日本が誇る『ゴジラ』そして『ワールドシリーズMVP』である。

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【break out】
Ron LeFLORE

デトロイトのスラム街生まれのルフロアは、
9歳で酒を
11歳でタバコを覚え、
12歳でコールガール相手に筆おろしを済ませ、
13歳で麻薬に手を出すなど、
すくすくとスラムの悪童として育ち、
小学校を何度も変えるレベルの問題児にまで成長した。

その後も順調に道を踏み外すルフロアは、
19歳の時に、近所のバーへライフルを持って強盗に入り、
あっけなく御用。
3年の実刑判決を受け、刑務所に入った。

とっとと娑婆に出たいルフロアは、
刑務所内で野球を始める。
スポーツに勤しんでいると印象が良くなり、
仮釈放の機会が増えるからだ。
また、野球を通して看守と親しくなれるというのも大きな利点であった。
元々ズバ抜けた身体能力の持ち主だったルフロアは、
周囲の人間にルールなどを教えてもらいながら
アスリートとしての才能をグングン伸ばし、
塀の中のスタープレーヤーにまで昇りつめた。

やがてめでたく仮釈放と相成ったルフロアは、1973年、
ム所で知り合った人間のコネでデトロイトタイガースの入団試験を受け、なんと合格。
それどころか、74年のシーズン途中にメジャーへ昇格し、
59試合で打率.260 23盗塁をマーク。
翌75年は打率.258 8本塁打 37打点 28盗塁。
突出した成績とはいかないまでも、
学生時代に野球の経験が無いとは思えない活躍を見せる。

76年は大幅な成長を遂げ、
打率.316 4本塁打 39打点 58盗塁。
オールスターにも出場。
数年前には強盗で収監されていた男は、
ついにアメリカンドリームを実現させた。


77年は、打率.325 16本塁打 57打点 39盗塁。
78年は、打率.297 12本塁打 62打点 68盗塁で初のタイトルとなる盗塁王を獲得。
リーグを代表するスピードスターへと登り詰めたルフロアは、
80年にエクスポズへ移籍し、打率.250 4本塁打ながら97盗塁で2度目の盗塁王。
その後、82年にホワイトソックスで現役を引退した。

通算1099試合 1283安打 打率.288 59本塁打 455盗塁。

街のゴロツキからメジャーリーグのオールスター級の名選手へ、
映画のようなサクセスストーリーを演じたルフロア。
しかし、生来の盗み癖が完治した訳ではなく、
ロッカールームに無造作に置かれてる現金をかっぱらいたい衝動にかられたり、
街に出ては、ショウウィンドウを叩き割って商品を持ち去る妄想にとらわれたりと、
ルフロアなりの葛藤もあったという。

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【99】
So Taguchi

日本でブルーウェイブの外野手として10年間活躍した田口が
FAで渡米し、カージナルスに入団したのは2002年。
折しもマリナーズのイチローがセンセーショナルな働きを見せた2001年のオフであった。

イチローの活躍もあって注目を浴びた田口だったが、
試練が待ち受けていた。
開幕ロースターから外れ、シーズン途中にはメジャー昇格を果たすも、
結局は定着出来ず、打率.400と健闘するが、19試合の出場に終わる。

翌03年も開幕はマイナーで迎え、夏場に昇格。
その後はメジャーに残り、43試合、打率.259 3本塁打 13打点。
翌年に期待を持ったままシーズンを終えた。

04年は開幕からメジャーに定着。
109試合で打率.291 3本塁打 25打点をマーク。
チームのリーグ優勝に貢献し、
名将トニー・ラルーサから優秀なユーリティリープレーヤーとして認められるに至った。
堅実な守備、徹底したチームバッティング、チャンスでは勝負強いシェアな打撃を披露する。
決して派手では無いが、ここぞという時に必要な玄人好みの仕事人として、
チームに欠かせない重要な選手となった田口は、
05年、143試合 打率.288 8本塁打 53打点に加え
リーグ1位となる得点圏打率.407をマーク。
名門球団で、いぶし銀の輝きを放った。

田口がセントルイスでファンから大きな賞賛を浴びたのは06年。
シーズンは134試合 打率.266 2本塁打 31打点に終わったものの、
リーグ優勝シリーズ第2戦で、メッツの守護神ビリー・ワグナーから、
値千金の決勝ホームランを放つ大活躍。
チームもワールドシリーズ制覇を果たし、
田口は輝けるチャンピオンリングを手中に収めた。

07年も打率.290 3本塁打 30打点、代打打率.406。
代走や守備固めでも堅実な働きを見せチームの勝利に貢献した田口であったが、
08年はカージナルスが契約をせず、フィリーズで、開幕を迎える。
シーズン前半に守備でミスを犯した田口を、
フィリーズの監督マニエルはラルーサほどには重用しなかった。
チームはワールドシリーズを制覇し、
2個目のリングを手にした田口であったが、
88試合の出場にとどまり、打率.220 0本塁打 9打点と、
決して満足のいくシーズンでは無かった。

09年はカブスに移籍するが6試合のみの出場に終わり、
10年から日本球界復帰を果たした。

メジャー通算 672試合 打率.279 19本塁打 163打点。

如何なる場面でも堅実、かつ勝負強いプレーを見せた田口。
その明るくて気さくなキャラクターも手伝って、
セントルイスでの人気は絶大。
09年に地元紙が行った2000年代のカージナルスのベストナイン投票では、
ベストベンチ要員に選出。
日本においても、その文才を活かしたホームページでの日記が人気を博した。

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【野次】
Ben Chapman

1930年代前半のヤンキースにおいて、
俊足巧打の外野手として名を馳せたチャップマン。
31年から3年連続で盗塁王を獲得。
100打点を2度マーク、クラッチヒッターぶりもみせつけ、
41年にホワイトソックスを最後に引退するまで、
オールスターにも4度の出場を果たした。

引退後、45年にフィリーズの監督に就任。
その年、ドジャーズでジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューを果たした。
チャップマンはドジャースとの試合で、
口汚い侮辱的罵詈雑言をジャッキーに対して野次った。
ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーから、
怒りを押さえる事を固く約束させられていたジャッキーはただ黙っている。
その時、ジャッキーに冷たい態度を取っていたドジャースの選手が
フィリーズベンチに向かって野次を返す。
「うるせえ! 口答え出来る奴に野次りやがれ! 臆病者め!」
ドジャーズベンチが一体になった瞬間であった。

ジャッキー・ロビンソンをめぐるストーリーにおいて、
チャップマンは何かと悪役を強いられる。
が、南部のテネシー州出身のチャップマンからしてみれば
致し方ない事だったのかもしれない。

チャップマンは疑う余地のない名選手だ。

ジャッキーの一件も、悪いのは人種差別であって、
チャップマンでは無いのだ。


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【マイナー知らず】
John OLERUD

大学時代、野手・投手の二刀流で八面六臂の大活躍のオルルドだったが、
就学中にくも膜下出血を煩い、頭部の手術を施された。

1989年のドラフトにおいては、件の手術の影響で、
大学時代の活躍の割には低い3位という順位でブルージェイズから指名。
その年の9月にはマイナーを経ずにメジャーに昇格、
6試合、8打席のみではあったが、3安打し、早速メジャーで結果を残した。

翌1990年は打率.265 14本塁打で新人王投票で4位。
1991年は打率.256 14本塁打を打ち、地区優勝に貢献すると
1992年には打率.284 16本塁打 66打点で、
今度はチーム初のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

93年、オルルドは脅威の覚醒を見せた。
打率.363 24本塁打 107打点 出塁率.473。
初のオールスターにも出場し、首位打者も獲得、
2年連続の世界一に、これ以上無い形で貢献し、
大ブレークを果たすに至った。

その後は、93年程の派手な数字を残す事は出来ないものの、
卓越した選球眼で高い出塁率を記録、
97年にトレードでメッツに移籍した。
メッツでの1年目は打率.294 22本塁打 102打点、サイクルヒットも記録。
翌98年には打率.354 22本塁打 93打点をマーク、再び存在感をアピールし、
99年にはプレーオフで大活躍、リーグ優勝こそ逃すものの、
勝負強い一面を見せつけた。



2000年には故郷ワシントン州のマリナーズへFA移籍、
一塁手部門で、自身初となるゴールドグラブ賞を受賞。
イチローが加わった2001年は打率.301 22本塁打 95打点で
2度目のサイクルヒットを記録するなど、ぶっちぎりの地区優勝に貢献した。
2002年も打率.300をマークするが、
以降は徐々に成績が振るわなくなっていく。
2004年シーズン途中にヤンキースに移籍すると
2005年、レッドソックスを最後に現役を引退した。

卓越した打撃術でヒットを量産すると同時に
選球眼も確かで、通算の出塁率は、打率.295に対し.398を誇った。
学生時代に手術を受けた頭部を守る為、守備中もヘルメットを着用。
シリアスな原因ではあったが、それがユニークな存在感につながった。

通算2234試合 打率.295 255本塁打 1230打点。


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【ケンカ屋】
Billy MARTIN

1950年、ジョー・ディマジオ擁するヤンキースでメジャーデビューを飾ったマーチン。
52年に109試合に出場して二塁のレギュラーの座を勝ち取ると
53年には打率.257 15本塁打 75打点、
ワールドシリーズでは打率.500 2本塁打 8打点と大爆発。
シリーズMVPを獲得し、チーム世界一の原動力となった。

喧嘩っ早い性格も手伝って、
小さい身体ながら、プレーはハード。
大舞台になればなるほど、その闘志は燃え上がった。

その後も57年に打率.289 10本塁打をマークするなど、
いぶし銀のプレーでヤンキースを支え、
計4度の世界一に貢献。
その存在感を大いに知らしめていたが、
57年オフ、クラブで乱闘騒ぎを演じ、
ヤンキースはマーチンを放出。
1961年まで、実に5球団を渡り歩き、
同年、現役を引退した。

引退後、ツインズでスカウトやコーチを務め、
69年、同チームで監督に就任するといきなり地区優勝。
さらに71年からはタイガースを率い、72年に地区優勝。
さらにさらに73年~75年はレンジャースを指揮し、74年に地区優勝・・・と
手腕を発揮したマーチンは、75年ジョージ・スタインブレナーに請われ、
ついに古巣ヤンキースの監督に就任した。

愛するヤンキースの監督となったマーチンは、
1.監督常に正しい。
2.監督が間違ってると感じたら1を見よ。
などと書いた貼り紙をするなど、
その激しく熱いリーダーシップでチームを牽引、
77年にはワールドシリーズを制覇するが、
自分の言う事を守らなかった選手や、
怠慢プレーをした選手などには容赦なく怒号を飛ばし、
喧嘩寸前の罵り合いを演じる事も辞さなかった。
が、その反面、快くプレーしてもらうために
妙な管理体制はとらなかった。
門限なども特に設定せず、遊びたい時は遊びたいだけ遊べ。
と、プレーヤーを大人として扱った。
選手からは絶大な信頼を得たが、
自分を監督に据えたスタインブレナーとは実は犬猿の仲で
レジー・ジャクソンの起用法など、
たびたび衝突をくり返した。
http://www.youtube.com/watch?v=z_zDcQV6_6k
上記のように、仲の悪さを逆手にとったようなCMまで作られたが
結局スタインブレナーはマーチンを5度クビにし、4度復帰させた事になる。

その後、80年にアスレチックスの監督に就任。
機動力野球を展開し、リッキー・ヘンダーソンを育て、
81年にはチームを地区優勝に導いた。

89年、交通事故で命を落とした。

選手通算 1021試合 打率.257 64本塁打 333打点
監督通算1253勝 1013敗 


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【Big Dee】
Daryl SPENCER

1952年、ニューヨークジャイアンツでデビューを飾ったスペンサー。
53年に118試合に出場、打率.208ながら20本塁打を打ち、
その才能の一旦を見せつけた。
54~55年は兵役に就き、プレーの機会は無かったが
56年に復帰すると、二塁/遊撃をこなしながら
打率.221 14本塁打 42打点をマーク。
57年は遊撃に定着し、打率.249 11本塁打 50打点、
大型内野手として、着実な成長を見せた。

本拠地がサンフランシスコに移動した57年は打率.256 17本塁打 73打点。
主砲ウィリー・メイズに次ぐ、打点/出塁率をマークすると
59年は打率.265 12本塁打 62打点。
ポジションこそ二塁に変わったが、レギュラーの座を確固たるものにした。

60年以降はカージナルス/ドジャース/レッズとチームを転々とし、
64年、日本に渡り、阪急ブレーブスに入団。
65年には打率.311 38本塁打をマークするなど、
7年で打率.275 152本塁打 391打点の活躍を見せた。

内野手/捕手を吹っ飛ばす激しいスライディングで敵を震え上がらせる一方、
190cmの巨体ながら二塁守備を器用にこなし、
対戦チームの投手のクセを熱心に研究し、攻略した。
そういったプレーぶりや姿勢は日本の野球に大きな影響をもたらしたのであった。
サイクルヒットの概念を日本に定着させたのもスペンサーだといわれている。

メジャー通算 1098試合 打率.260 105本塁打 428打点。


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【Boogie】
Larry WALKER

高校時代はアイスホッケーの選手だったウォーカー、
ほぼ野球未経験だったにも拘らず、
その身体能力の高さを買われて、1984年、
エクスポズに入団。

1990年、打率.241 19本塁打 51打点 21盗塁をマークし、
チームのレギュラーに加わると、着々と力を付け、
92年には打率.301 23本塁打 93打点 18盗塁。
オールスター出場、ゴールドグラブ受賞、MVP投票5位…と
リーグを代表するスラッガーに成長を遂げた。

95年、ロッキーズに移ると、さらに打撃が開花。
この年、打率.306 36本塁打 101打点、
97年には、打率.366 49本塁打 130打点 33盗塁でMVP受賞。
98年、打率.363 23本塁打 67打点で首位打者獲得、
99年も打率.379 37本塁打 115打点で2年連続の首位打者に輝いた。

当時のロッキーズにはトッド・ヘルトン、
ヴィニー・カスティーヤ、ダンテ・ビシェット、
アンドレス・ガララーガといったパワフルな面々が揃っており、
特に97年はガララーガ、ウォーカー、カスティーヤが40本以上の本塁打を放ち、
相手投手を恐怖に陥れていたが、
ウォーカーは打撃だけでなく、走塁、守備も一級品。
90年代屈指の5ツールプレーヤーであった。

2000年、肘の怪我で87試合の出場にとどまったが、
2001年は打率.350 38本塁打 123打点と復活。

その後、2004年のシーズン途中にカージナルスへ移籍すると、
二番打者としてアルバート・プホルスらとチームを牽引。
チームを地区優勝に導くと、プレーオフでも大活躍。
惜しくも世界一には及ばなかったが、
その存在感を大いに知らしめた。

もともと故障に泣かされがちだったウォーカー、
シーズン140試合以上の出場は17年のキャリアで4度のみ。
2005年、肘の怪我とヘルニアに苦しめられ、
この年限りで現役を引退した。

陽気な性格で知られ、
オールスター出場時にランディ・ジョンソンと相対した際、
頭部後方に暴投したジョンソンに対し、
ヘルメットを後ろに被り、右打席に立ってみせるというパフォーマンスを演じた事もある。
さらに『3』の数字に異常なまでの拘りを持ち、
現役中の背番号は全て『33』
結婚式の開始時間も3:33分に設定する程だった。

首位打者3回、本塁打王1回、ゴールドグラブ7度受賞、
オールスター5度出場。

まさに時代を代表するスーパープレーヤーであった。

通算1988試合 2160安打 打率.313 383本塁打 1311打点 230盗塁。

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【レジーでは無く…】
Joe RUDI

1964年にアスレチックスと契約を交わしたルディは、
67年、20歳の時にメジャーデビューを果たす。
その後、数年間は伸び悩むが、70年に打率.309 11本塁打 42打点をマーク。
その才能を開花させた。

以来、レジー・ジャクソンや、サル・バンドーらと共にチームを支え、
72年、打率.302 19本塁打 75打点(MVP投票2位)
73年、打率.270 12本塁打 66打点
74年、打率.293 22本塁打 99打点(MVP投票2位)
…と、この間のアスレチックス3年連続世界一に大きく貢献。
勝負強い打撃と左翼手としての堅守、
そして何よりその真摯なプレースタイルが、高い評価を得るに至った。

その後も、チームの要として活躍し、
1977年にはエンゼルスへ移籍。

ボソックスを経て、
82年、古巣のアスレチックスで現役を引退した。

ちなみに、引退時のチーム監督ビリー・マーチン。
マーチンは、ヤンキース監督時代、
FA移籍でやってきたレジー・ジャクソンと度々揉めたが、
監督として本当に欲しかったのは、
尊大で、守備が下手なレジーではなく、
地味なれど、献身的なフォアザチーム精神を持つ
ジョー・ルディだったという。

通算1547試合 打率.264 179本塁打 810打点

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