自然治癒力セラピー協会 : Spontaneous Healing Therapy Japan:自分の体って?心って?

形而上的癒しは超物質の自分を知ることから
アートマに還ろう!
アートマは仏性・神性・本質
そう、あなた自身の本質

形而上的癒しと 悟りの関係:スポンテナス・ヒーリングの本質(後)

2017-04-25 15:34:54 | ATOMA Therapy~自己セラピー

 

観自在菩薩と自然治癒力(後)2017.4.25

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4月20日(推敲して22日再投稿)に、禅宗の公案に

”未生以前本来の面目如何“ というのがあることを書いた。

この公案の面目とはどういう意味だろう?

’めんぼく’ と読む場合と’めんもく’と読む場合が、あり、めんぼく のぼくは漢音で、もくは呉音だと辞書(注*)にある。

① 世間対する名誉や体面世間からうける評価。人にあわせる顔

② 外に表れている様子めんもく


〔「もく」の場合は呉音

①「 めんぼく(面目)」に同じ。

②顔かたち。容貌。 (注*~三省堂大辞林)

 

つまり、面目はこの場合、“外に現れている様子”とか、”容貌”という意味だろう。

”生まれる前の姿(様子)が、如何なるものや?”というのがこの公案の意味になる。

これは今、貴方がご覧になっている記事右上に書かれた、拙協会の”癒しのためのテーマ”、

“形而上的癒しは超物質の自分を知ること”に通じる。

さて、この公案の答え?

前回、”まだ、五感の感覚器官ではつかめない、実在の生命だった“と思うと書き、

” それがいろいろな因縁で、現在の父母を選び(我々生命自身が)この世に、

やり残しのカルマ清算を果たすべき生まれてきたということだ。” と続けている。

さらに、

”般若心経”では、“空” という言葉があてはめられているとも。 

サンスクリット語でいえば、“アカーシャ”的な ”アートマ自体”をさすのだが、

アカーシャとは、サンスクリット語でもともとは、大空のエネルギーをさす。 

その大空とは ‘無’ と異なる。 

空っぽの空ではなく、目に見えない”極小の創造エネルギー”、それが“空”といえよう。 

私たちは皆、この“空”を 自分の本質として秘めもち、生かされている”。

 

般若心経には、“空”とは、何か 説明されている。

不生不滅”“不垢不浄〝”不増不減“ つまり、

”生まれることもなく滅することもない“、

”垢が無い(浄)とか、浄ではない”、

“増えたり、減ったりしない” 

というように、二つの対照的事象を超えた”超現象的存在”であることが書かれている。

 

超物質的存在とは?

たとえば、思考のエネルギー とか 五感の認識はできないが、確実に

存在しているとされる”無形の本質体”をさすのだろう。 

人間でいえば 永久的に存在する”生命体(しかも、アイデンティーの意識をもった)の本質”を

“空”と呼ぶのだろう。

 

身体として存在していても、幽体だけでも、霊体として浮遊していても、その実態は“空”である。

色即是空 という言葉で 般若心経に要約されている。

そう理解できると、生きているとか死ぬというのは、確かに相反する事象にみえるが、

超物質エネルギー的に言えば、その存在にとっては、死も生もなく、永遠に存在し続けるという

ことになるだろう。

 

その存在を、言葉を換えて、生命 という言葉で置き換えてみる。

悟れば恐怖がなくなると 心経では説いている。

私たちの命は、生命体ということを悟れば、それに付随する“恐怖”はなくなる~ということだ。 

恐怖がなくなれば、ああだこうだという取り越し苦労がなくなるから、心は平安に、

本来の、空(生命)のエネルギーに満たされている状況を作りやすい。 

 

そのことを、お経の中に、菩薩がこの真理に”照見(しょうけん)”(悟りの境地に

達した)時の状況を具体的に 後半に以下のように描かれている。

“心無けいげ” “無有恐怖” “遠離一切顛倒妄想” ”くぎょう涅槃”

つまり、 心にわだかまり、思い込みなどがなくなり、恐怖はなくなり、

価値観(五感器官で知る世界が実在だという)が ひっくり返って生まれるすべての妄想と離れ、

自由自在の境地に達することができる。~と。

 

さて、自然治癒力(spontaneous healing)との関連はここから始まる。

協会ブログ右上のキャッチフレーズの残りのフレーズにこうある;

“形而上的癒しは超物質の自分を知ることからアートマに還ろう!

 アートマは仏性・神性・本質 そう、あなた自身の本質”

ここでいう形而上的癒し とはわかりづらい言い回しかもしれない。

形而上学というのがある。 ウイキペディアによると、

 

形而上学(けいじじょうがく、: μεταφυσικά、: Metaphysica、: Metaphysics、: métaphysique、: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在としその世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根本原因)や、物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える[4]。対立する用語は唯物論である[1]。他に、実証主義不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場[1]や、ヘーゲルマルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと[1]。”

 

余計ややこしくなりそうだが、上記説明の赤線部分の2行だけに注目していただきたい。

つまり、感覚(五感機能で脳に入る情報)の次元を超えた世界が本当に実在するという考え方。

~ これは、今までみてきた般若心経の‘空’観と矛盾しない。

その世界の普遍的原理とここでいうそれが、いわゆる、真理 である。

だから、形而上学のことは、カンタンに言えば、

”五感で取得する世界の価値観を超えたところに真の価値基準があり、

その価値基準の普遍性が何か探る学問”~ということになる。

 

自然治癒力(スポンテナス・ヒーリング=spontaneous healing )は、そういう意味で、

五感で取得する病状(に見える状況)に対して、

その次元を超えたところに働く生命力(‘空’)に 自分の意識を飛ばせることで、

認識=体現 という法則から、自然と、引き出されるということになる。

形而上的な自分の本質を照見(しょうけん)=明らかに観て悟る~と、

その状態では 病が存在しない ということになる。

ろうそく(病の種)が燃焼するまで、燃える炎(症状)同様、熱は、出すだけ出せば、良くなる~と

いう自然治癒力的考え方だ。

病の間、セラピー(アートマを意識する方法ならどんな方法でも、セラピーと呼ぶとすると)中、

施術者の頭の中の信念が 半信半疑のレベルを超えて、心の中で確信になるときがある。 

その時点ですでに、形而上的自分=生命体とつながっている場合が多い。

被施術者はその波動を受けて、確実に良くなる。もちろん、被施術者に、施術者への信頼があってのことだ。 

が、どちらかの立場の者が、もし、半信半疑ならば、この方法は、危険だ。

 

すぐ病院に行って医師に薬を処方してもらうのを薦める。 

”形而上的”という意味を納得できず、”観念的”に頑張る方が”危険”であるのは、死にいたることも

あるからだ。

一方では、形而上的に死んだ人を生き返らせたという話も残っている。

聖書にキリストが死んだラザロを生き返したという話。

キリスト教信者以外の大方は、こうした奇跡話を、逸話程度に思っていらっしゃるだろう。

あるいは

漠然とそういうこともあろうかとあまり真剣に考えたりすることもないだろう。

筆者の知っているインドの聖人も同様に、心肺停止の状態で信者を生き返らせたり、

危篤状態でも、元気に回復させた話を見聞きしている。

実際、キリストは

“芥子粒ほどの信仰があれば、山をも動かせる”と教えている。

ラザロを生き返らせてくれと頼んだ信者はほんとうにキリストの祈りで、ラザロは生き返ると

信じていた。 

同様、芥子粒ほどの 自分の内側に燃えている生命力への信頼があれば、

癌も(あの世に行く時期という運命的な場合以外は)治るのである。 

治るのではなく、消えるのである~と言い換えよう。 

 

そういう例は多くあるし、私もその体験者の一人であることはブログで、お話ししたと記憶する。

 

 

 

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