寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2475話) 豆ご飯

2017年07月18日 | 人生

 “十年ぐらい前、仕事から帰宅した娘がいきなり言った。「おばあちゃんちの匂いがする」と。何のことかと思ったが、そのときに作っていた豆ご飯の匂いのことだと気付いた。十五年ほど前に亡くなった夫の母は、私たち家族が訪ねると必ずといっていいほど豆ご飯を作って迎えてくれた。自分で育てたというエンドウ豆を使って炊くご飯は絶品で、夫にとってはおふくろの味だった。早くに母を亡くした私も、義母の豆ご飯がすぐに大好きになった。
 今では私が「おばあちゃん」と呼ばれる立場になった。孫たちはどんな匂いで私を思い出すのだろう。孫が来るとよく作る鶏のそぼろご飯や鶏の唐揚げかな?六歳と三歳の兄弟に食べてもらえるものを考えると、どうしてもいつも同じようなメニューになってしまう。
 私が死んでも、誰かの記憶にとどまっていれば、その人の心の中で生き続けていける。心地よい匂いを残したいものだ。”(7月2日付け中日新聞)

 愛知県清須市の主婦・仲吉さん(62)の投稿文です。料理で人を思い出す、匂いで思い出してくれる、それはありがたいことである。忘れられるより嬉しいことである。去る者は日々に疎しである。まして亡くなった人など、どこまで覚えていることだろうか。それでも何かの折りにふと思い出す。親子や身内のことであれば、その機会は多いことであろう。このように料理のことであったり、何かの仕草であったり、人々の中に強く残っていることはあろう。先日おばさんの一周忌法要があった。思い出すよい機会である。このおばさんの場合は花であった。よくもらった。
 しかし、このように思いだしてくれることがあるのか、全くないのか、死んだ本人はその後ことは何も知ることはできない。遺産相続など死後のことを考えないといけないこともあるが、多くは考える必要はない。それは生前で決まることだから。だから死後のことまで悩まない。ボクも余生に入った。余分な人生である。口で言うのはたやすいが、どこまで本心になれるのか、ますます試される気がする。誰の問題でもない、ボク自身の問題である。


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