彦四郎の中国生活

中国滞在記

第十九回中国共産党大会が今週に開会される❹―習近平氏と徳川家康の共通点

2017-10-16 15:06:03 | 滞在記

 10月10日付の「西日本新聞」(日本)に新聞に掲載された記事が、インターネツトでも掲示されていた。「国家主席になるなんて」―習近平氏、寒村での過酷な日々、語られぬ「過去」も―という見出し記事だった。西日本新聞の記者が現地に行って取材もした記事だった。

 文化大革命時代、北京市民だった習氏は、15才から7年間を中国陝西省の延安近郊の寒村で生活をしていたことがある。このあたり一帯は、一つの国にも相当する 黄河中流域の広大な「黄土高原」の一角にある。黄土高原の土は、砂嵐などが降り積もってできた地層からなっている。この黄土高原に伝統的な住居である「窯洞」と呼ばれる。この崖の地層をくりぬいて住居としたものである。実際にこの寒村に行って取材をしたらしい。以下は、その記事の概要である。

 元副首相であった習仲勲氏(習近平の父)が1962年に反党活動の疑いをかけられ失脚すると、当時9才だった習氏の生活も一変、66年に始まった文化大革命では「反革命分子の子」として白い目を向けられ、69年に農村地域に「下放」され、労働教育を受けさせられたという厳しい経歴を若い頃もつ。下放地での生活はかなり厳しかったようで、土を練り固めたかたいベットの上に薄い布団を敷き、6人ほどが同じベットにて寝ころんで眠ったようだ。

 69年1月の厳冬期(マイナス20度以上)にここに初めて来た習近平氏は、実はその3カ月後に実家のある北京に逃げ帰ったということがあったらしい。寒さもさることながら、「一番我慢できなかったのはノミだ。皮膚が敏感な私は痒くて痛くてたまらなかった」と、後に国内メディアに述べたことがあった。北京に戻って習氏を待っていたのは楽な生活ではなかった。住民票が北京にないこともあり、工事現場で働く日々が続いたとされる。親族に説得された習氏は結局、数カ月後に再び寒村に戻った。村に戻った習氏はまず、延安地方の方言を習得し、気持ちを入れ替えたように村民に交じって耕作や土木作業に汗を流したという。真面目な働きぶりが信頼を集め、20才で村の党支部書記(トッブ)に選ばれ、75年には北京の名門「清華大学」の推薦入学が認められ、7年間近くに及んだ寒村生活に終止符を打つこととなったという。

 この寒村は「粱家河」という名前なのだが、2012年に習指導部がスタートした2012年以降、観光客が押し寄せるようになりその後も急増。補修修繕された習氏が実際に暮らした家は、党や・政府関係の団体客だけでなく、一般客も多くが訪れているようだ。大型バスが何台も並ぶというのが日常的な光景となり、住民約120人の村に1日数千人が訪れるという。伝統的なトウモロコシ栽培だけでなくリンゴ栽培などにも手を広げ、観光客からの収入も合わせ、村民の人の平均年収入は2011年の約6500元(約13万円)から、16年は約1万8千元(約36万円)へ3倍近くに伸びたという。(記事内容の概略は以上)

◆このような青年時代の習近平氏の体験は、彼にどのような人生の教訓を与えたのだろうか。この記事によると、「私にとって二つの大きな収穫があった。一つは何が事実か、大衆とは何かを学んだことだ。もう一つは自分を信じる心を持てたことだ」。習氏は当時を振り返ってこう語っているとも記事には書かれていた。

◆習氏が将来、党総書記にまで上り詰めるなど、誰も予想できなかった福建省勤務の時代。習氏の"福建閥"の筆頭として知られるのは、習氏が福建省アモイ市や福州市での勤務から福建省省長にまで上り詰めた時期に、ほぼ一貫して仕え続け、さらにその後、習氏について浙江省に移った蔡奇氏。今年5月に北京市の党書記(トップ)という重責を任されていた。2002年~2007年に習氏が浙江省共産党委員会書記(トップ)の時期、党の宣伝部長として仕えたのが陳敏爾氏だった。その陳氏を筆頭に、習氏に忠誠を誓う「之江新軍」という派閥がある。「之江」は浙江省を流れ、東シナ海に注ぐ「銭塘江」という大河の別名である。

 習氏は、河北省(1982年~85年)、福建省(85年~2002年)、浙江省(2002年~2007年)、上海市(2008年)という勤務経験を積み上げ、2008年の党大会で「常任委員(チャイナナイン9)」に選出され北京での勤務となった。下放時代から河北省時代の盟友が王岐山氏、河北省時代からの栗戦書氏、上海時代に重用した上海の復旦大学教授の王滬寧(※影のブレーン筆頭)や韓正氏など、長年の盟友関係や信頼関係を強く持っている部下などの「習軍団」とも呼ばれる人たちを形成し、今回の党大会ではその主役に抜擢しようとしている。

 習氏が若いころから信頼関係で結ばれた先輩や同僚、部下を総称したのが「之江新軍」とささやかれるが、江戸時代の徳川家と大名家の関係になぞらえる日本の記事もあった。それによると、<例えば、徳川家からみて関ヶ原の戦い以前から家臣だった「譜代大名」は、習氏からすれば陳氏や蔡氏、王滬寧氏、韓氏ら「之江新軍」に重なる。王岐山氏はより格の高い徳川御三家の「親藩大名」。一方、習氏が北京の中央政界に移った以降の同志(ライバル)である李克強氏や、「共青団」と近い副首相の汪洋氏や広東省党書記の胡春華氏は外様大名という位置づけとなる。>

  上記の徳川時代の大名分類などを読むと、徳川家康と習近平氏の人間的な共通性(若い時代の人生の苦労[※家康は今川・織田への長い人質生活]、慎重だが機が熟したら果敢に行動する忍耐力と決断性など)が幾つかがあるような気がする。「啼かぬなら 啼くまで待とう ほととぎす」と人柄を形容された徳川家康。「人生とは重き荷物を背負い生きることなり」という言葉を残したようだが、この言葉、習氏も同じように思っている人生訓なのかも知れない。いずれにしても、政治家として非凡な力量を持っている人物だと思う。

 習氏と家康の共通点がもう一つ頭に浮かぶ。それは、次回に記します。

 

 

 


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