九谷焼陶房から、九谷焼と日常生活を綴る。
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九谷焼陶房日記・・九谷美陶園から・・
友 遠方より来る・・・

友 遠方より来る 又楽しからずや!
その友は、年輩の友人と思うでしょう・・・それが違うのです。
紅顔の若者達が5人なのです。
実は彼らも50歳になったのですが私共から見るとまだまだピカピカの 青年でしたよ!
息子の中学・高校の野球部の友人たちが50歳記念に東京から山中温泉に 来られ、私共に寄って下さったので、ゆっくり昼食をしてもらいました。
その昔も、野球の先生や同期の部員全部に自宅で沢山お料理をしたことも ありました。今度も皆に手料理で沢山食べてもらうのは嬉しい事でした。
息子は、この日は子供のPTAの野球で来られませんでしたが、 彼らだけでも来て下さり20年〜25年振りにお会いする人もいました。 帰えりがけに 何と!彼等は私共のお高い九谷焼をそれぞれお求め下さり 本当に恐縮しました。やさしい皆様有難う!
さて、K君は高校の夏休みにカナダにホームステイした話をその頃 聞いていましたが、ホームステイの家では毎日夕食時に何か話す事になっていて 苦労したと言っていた彼は、その英語のお陰で、外国への仕事で何十億の会社に 発展させてしているようでした。それ以前は本当に無口だったと言っていました。
S君は家も近いので親しかったのですが、いつかお庭に芝生を張る時に、 丁度泊まっていた彼にも芝生張りを手伝っ貰ったりしました。 彼が私共の家に白アリが出て息子と二人で床にもぐってシロアリを 調べたと言うは、私共は全然思い出せませんでしたが、ひどい手伝いですね。
彼は188センチで、息子も182センチなので床下に入るのはさぞ大変でしたでしょう。
彼は、息子一家と一緒に新婚の時に ご夫婦で泊まっても下さいました。
彼と息子は卒業旅行に2人でオーストラリアなどに行って、 英語も出来ませんのに、他の学友達ととケアンズか何処かで落ちあったりし、 頼んでおいたカラスミを沢山お安く買ってきたので私は大喜びでした。 (30年余前でしたので、多分5000円位で 1〜2キロくらいでした) 息子の家は、居間、ダイニングキッチン、ベランダなど広く作ってあり、 今でも 彼らが来て下さって、楽しんでいるようです。
大きな会社で偉くなっているD君は初めからきちんとした紳士でしたし、 元気なM君はちゃんと社員も雇ってコンサルの会社を続けています。
N君のお父様は私共も知っている加賀市出身の方でしたが、N君は東京から 長靴持参で来て雪の中の父親のお墓と母方のお墓をお詣りしで遅くなり、 皆がホテルに入ってからですのに私共に寄って下さいました。
相続税も払いこの大変な時代に父親の仕事を継いでいるとの事で偉いですね。
彼らの野球部の先生は甲子園にも出場した早稲田出身の とても良い先生で、 部員にアンパンを買って下さったり、ずっと後に息子が外国駐在の時に 先生のお宅に孫娘を連れて伺った時には24色のクレヨンと 画帳を 用意して下さりお土産に頂いたりしました。
部員に慕われいて、四国に帰られてからも 先生が上京する度に年に何回も 彼らが集まって居たのですが急に昨年亡くなられ、 息子も大いに驚いて長い電話でその様子を話しておりました。
先生の「しのぶ会」には100人程の元野球部員が集まりましたが、 それはお世話になった私共の息子が中心になって催したとS君が言っていました。 中学・高校時代に一人の素敵な先生がいらしたおかげで、30余年の経った今でも 野球部員だった皆がこうして仲良くしていて、 私共にまで寄って下さるのは有難いことだと思っています。
この素敵な友が 今度遠方より来られるのは何時の事でしょう。
加賀市の光闡坊はかっての光教寺跡にあり。
蓮如時代の有名な光教寺の跡地にある 光闡坊の現在。
北陸を浄土真宗が支配した時代に、絶大な権威を保ち「三山の大坊主」と言われた お寺は、河内郡若松の本泉寺(蓮悟)、能美郡波佐谷の松岡寺(蓮綱)、江沼郡山田の 光教寺(蓮誓)の3か所でいずれも蓮如上人の子息が住職になっていました。
北陸のの加賀市に住むようになって、私は其のお寺は今は何処にあるのかと思っていましたら市内の光闡坊が かっての光教寺だった事が分かりました。この境内には蓮如上人の大きな石像や、その子息の蓮誓のお墓が有ります。
北陸は本願寺8世の蓮如上人の布教(1471年)以来浄土真宗王国と言われた土地柄です。守護や土豪等を離れつつあった農民を門徒にして本願寺はお寺と道場の系列を 組織しました。
今でも山の中の小さな部落にも立派な道場が残っており、末端の農民の心温まる集会場は真宗教団の基になったと思われます。これに土豪達も門徒に加わり勢力の維持を
計ったと言われます。
かっての江沼郡山田の光教寺(蓮誓)は1470年代に蓮如上人によって建立され、 第四子の蓮誓が入寺し、浄土真宗の布教や一向一揆の中核となりましたが、1531年に浄土真宗の内乱で焼き討ちされ廃絶しました。
その時に米蔵も焼かれ今でも「焼け米」が掘り出されると言います。
現在の光闡坊は当時の昨見町の有志を中心に昭和28年に建てられ、光闡坊という名前は、蓮誓の坊名から付けられ,今は佐野明弘氏がご住職になって居られます。
”佐野明弘住職と原発”
佐野住職は原発災害で計画的避難区域に指定される前の3月20日に福島県飯舘村に入られ、緊急にご自分で集められた200万円余の寄付金を妊婦や乳幼児の避難に使うように、村長さんに渡して来られました。 その後も度々寄付金を集めて災害地に送っておられます。
佐野住職が原発に関心を持たれたのは、1986年のチェルノブイリ原発事故に衝撃を受けた事からでその後、原発や放射能について勉強され、京都在住の時は、京都で原発反対の市民団体を立ち上げて、京都府議会に関西電力への意見書可決を働きかけたりもされました。
加賀市に来られてから、何年も前に市内の小学校に高額な放射線量計を寄付されたこともあり、度々原発の危険性について勉強会を開かれておられます。 私共夫婦もそんなご縁で佐野住職のお人柄に接するようになりました。
”アレン・ネルソン ピースプロジェクト”
佐野住職は米海兵隊員としてベトナム戦争に従軍した経験を語り続け、2009年に死亡したアレン・ネルソンさんが、日本各地に平和を願うメッセージを届けてきた遺志を 受け継ごうというプロジェクトを立ち上げておられます。ネルソンさんのニューヨークでの葬儀に参加された佐野住職によってネルソンさんは光闡坊に納骨されています。
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”親鸞上人の勉強会”
光闡坊では 毎月28日 午後7:30〜親鸞上人についての勉強会が続けられており、どなたでもご参加できます。
親鸞上人の関東を尋ねて・・・
親鸞上人は比叡山等の旧仏教徒の讒訴に依って1208に越後の国府(直江津)に流された後に、関東の常陸地方に約20年程過ごされたこのは良く知られています。
息子一家がつくば辺りに住んでいますので、私共夫婦は青い冬空の彼方に筑波山を 眺めながら彼らの車で親鸞上人の旧跡少々を廻りました。
報恩寺
親鸞上人に関係のあるお寺として息子がネットで調べた 報恩寺に参りました。
静かな場所にぽつんと建って居るお寺でした若い息子さんにお話を伺いますと・・・・
何と!かの有名な性信坊が開かれたとの事。
目の前の方が小説等で色々書かれている性信坊のご子孫でした!
性信坊は1187年に鹿島神宮の嫡男として生まれましたが、気性が激しく
悪五郎と言われていたそうです。
天覧相撲の為に常陸から選ばれて京都に行き、そこで縁あって法然上人の弟子になり、後に法然上人による親鸞の特度の際にも立ち会いました。
以来親鸞上人とは深い縁で結ばれ、越後への流刑の際にも一緒に行きましたが、
その後常陸に帰り、上人が常陸に来られる時にはお迎えに行ったと言われます。
当時荒れ果てた寺がこの地にあり、これを親鸞上人が性信坊に貰い受けるよう
に言われ、それが現在の報恩寺の始まりになっています。
ご子孫は明るい感じの良い青年で興味深いお話を伺う事が出来ましたした。
西念寺 この茅葺屋根の山門は、も古い歴史を感じさせました。 親鸞上人は1214年に領主の稲田九郎頼重の招きで来 られ、このあたりの草庵に20年ほど住まれ、 主著「教行信証」も書かれました。
(その後62歳頃京都に帰られました。)

稲田の西念寺という立派なお寺の本堂は1995年に再建されたもので,親鸞上人のゆかりのお寺とされています。
田園の中にありますが後ろが山になっていて、登ると見晴らしが良く気持ちの良い処です。
ここは何処にも属さない独立のお寺です。(そこに行きますと言い伝えによって、親鸞上人のお墓も建てられています)
蛇足・・
親鸞は公に妻帯し、長男の善鸞を関東布教に出していましたが、親鸞の教えを
守ろうとする性信に対して、善鸞は違った教えを広めた為に1256年親鸞84歳の時に、
息子に義絶状を出して義絶しました。
其の6年ほど後に親鸞は90歳で息子(有房)娘、門弟二人に見守られながら90歳で
亡くなり京都の大谷に納められました。流罪後は非僧非俗の立場を貫きました。
年末は歴史散歩をしましたよ
お正月は2日から九谷美陶園のお店が営業しますので、私共には年末の僅かな休みしかありません。私共は京都で過ごす事が多かったのですが今年は東京に行きました。
Blogにも書いた様に、シュリーマンの日本滞在記に当時のイギリス公使館があった東禅寺の豪壮な様子が書かれていて、その複雑な曲がり廊下等の有る立派な遷源亭の写真が本に出ていたので尋ねてみました。
東禅寺は港区とは思えない静かな佇まいの中の樹々に囲まれた境内には三重塔も建っています。建物の前の柱には1861年に尊王攘夷派がイギリス人たちを襲撃した時の「鉄砲の痕」が今でも残っていました。 殺傷したイギリス人に当時で1人3000〜10,000ドルの賠償金が支払われたそうです。
「鉄砲の痕」の事は、江戸の歴史を歩いている方に其処でお会いし、教えて頂きましたが、今年定年になってから随分沢山歩かれたそうで羨ましいですね。吉良邸〜泉岳寺までも勿論歩かれたのは、下町から随分長い距離と思います。(半籐一利氏がタクシーに乗って調べたところによると約11キロとの事です)
泉岳寺は東禅寺から歩いて15分位の処でしたので行ってみました。泉岳寺駅は度々電車では通過した事が有りましたが今回初めて訪れました。門前に赤穂の塩饅頭が売っていましたら、夫は以前IHI本社から赤穂の近くにある播磨造船の方に度々出張した時に頂いた思い出が有り早速その塩饅頭を孫にと求めました。(明日は息子夫婦の処に参ります)

さて泉岳寺には、まず吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供える前に洗うらしく「首洗いの池」が有りました。(写真はその池)勿論47士の墓が並んでいて73歳の堀部安兵衛が歳年長と思いきや83歳の人も居ました。浅野内匠頭の大きなお墓の近くに内蔵助45歳のお墓があり、 300余年前のこの物語も本当に身近に感じられました。 3月米国に行く飛行機で「最後の47士」とかいう最近の映画も見ました。
ついでに、1859年にアメリカの公使館になった善福寺は麻布にあります。階段を上る高台のお寺の真後ろには巨大な億ションが聳えていました。写真の様に 先ずすごいマンションばかりが目につきました。(ゴーン社長も此処の住人だったそうです)
境内には「タウンゼント・ハリスが勤めた公使館が有った」と言う石碑が立っていました。ここも攘夷派によって襲撃され書院など焼失したそうです。
麻布十番の階段広場の前の「ラ・ボエーム」でパスタランチにしました。若い元気な人たちが大きな店一杯に居て、賑やかな雰囲気は外国に居るよう・・・パスタもケーキやサラダも沢山でリーゾナブル!
さらに駒場にある旧前田侯爵家が公開されているので見に行きました。近くまで行くと樹々がひときわ高く聳えている処が前田家の庭園です。現在の十八代のご当主のお宅はそのお庭の一部にお住まいで其処に伺った事もあり懐かしく思いました。
ご夫妻は何度か私共の自宅にもお出で下さって、ご一緒に「プリテイウーマン」のヴィデオを見た事等ありました。
学習院時代のお友達とご一緒に私共の自宅にお出で下さった事もありました。このお友達のお父様は財界人ながら有名な陶芸家でしたが、恐れ多い事に何度か私共の食器のご注文を頂きました・・・
近代文学式館は以前は 旧前田家の建物を使っていて行った事があったのですが、夫は始めてでしたので行ってみました。 外国人の邸宅の様に広びろとして豪壮なイギリスのチューダー様式の建物が広いお庭の中に建っています。
各部屋にはそれぞれ彫刻を施した暖炉が有りその中に今はヒーターが入っていて暖かいのですが家具が殆ど無いのが残念でした。
いずれにせよ 当時(1930・昭和5年)東洋一の豪華な西洋風建物と言われたそうです 朝9時半に小松空港を発ち、10時半に東京羽田に着いてから 16000歩程歩き回って今日の歴史散歩は終わりです。以前東京に居ながら あちこちを見ませんでしたので、今回寒い師走の街を夫婦で歩いたのは爽快な一日でした。
「シュリーマン旅行記 清国・日本」も面白い!
果物と野菜は中央に美味しそうに描けました。
小さいの絵ですがを手にとってご覧いただきたい采果文様です。
これもお正月に向けて作り好評なものです。
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テレビの読書案内かで知った本ですが、シュリーマンは
貿易や銀行業等で十分にお金を蓄えた後でまず世界一周します。
1865年に清国と日本を訪れた部分が文庫本になっていますが、
清国の汚さ、わいろ、様々な酷さが世界の中でも類を見ないと書かれ、
日本に就いてはその反対の賞賛が目立ちます。
彼の凄い処は、北京から万里長城に行った時 その頃はあちこち
壊れていて登るのも歩くのも命がけの様な大変さだったようですが、
(高さ130m以上で60度の傾斜ながら階段は幅7cにも満たない処を
よじ登ったり・・・)其れにも拘らず長さ67cのレンガを2つ背中に
括りつけて持ち帰り長城の建築技法や建築材に就いてごく詳細に
調べて書いている巨人です。
私共も西域で万里の長城が途絶えた最後の所まで行きましたが、
ここは大分藁を入れて作ってあると思ったくらいで彼の観察力の
万分の1も見て来ませんでした。
日本人の清潔好き、賄賂が無く少しのチップも受け取らない社会などを、
彼から見ると丁度今の日本人がブータンを見ているような、西洋と反対に
物質ではない日本の幸せを賞賛しています。
“西洋の結婚難は家具調度を競う為に裕福なものしか結婚できない。
日本に来て生活不可欠と思うものの多くは少しも必要ではなかった“等と。
でも、船頭、人足などが下帯1本で体中に入れ墨をしている(6月)、
銭湯の傍を通る外人を見ようと混浴の男女が真裸のままでシュリーマンの
そばに群がって来る、車引きも下帯だけの裸で殆ど皮膚病にかかっている。
でも広い大名屋敷や寺院の庭園の美しさ等も述べています。
後書きに訳者がアテネのシュリーマン宅を訪れた事が書かれていますが、
8年前 私共夫婦が彼の邸宅を見に行った時は丁度夕方の閉館時間で、
残念ながら入れませんでしたが、その5年後に私共夫婦と妹との3人で
黒海クルーズの折りに、又アテネで念願のシュリーマンの住居を
再訪する事が出来たのです。
彼の細分わたっての意見で作られた家は、良質な材料で凝った造りでした。
最晩年彼が愛した家族と幸せに暮らした処を訪れる事がとうとう出来ました。
現在コイン博物館になっていますが、見たかったアレクサンダーのコインは
見付けられませんでしたが。
私と妹との初めての海外旅行は、36年前アテネから始まり無謀にも
現地の1日ツアーでミケーネに行き、西洋人の中に二人だけの東洋人で
当時は英語もごく不自由ながら、シュリーマンが発見した獅子門や
黄金のマスクを見た感激は今でも鮮明に胸を打ちます。
今度はその時行けなかったオリンピアにも行きました。
其のシュリーマンはトロイの発掘をする前に世界1周旅行の途中に
3ケ月程日本も訪れて、詳細な記録を残したのがこの本です。
本好きな人に「ビブリア古書堂の事件手帖」

写真の器は年末に向けて特別に作りました。
早速 山代温泉の「亀寿司さん」にも沢山お求め頂きました。
本当においしい良心的なお寿司屋さんです!
ホームページで特別価格でお出ししております。
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「ビブリア古書堂の事件手帖」は近頃出版され、イラストが付いたり
如何にも若者向きの本ですが、北鎌倉の古本屋や漱石、太宰、等の
色々な本とそれに纏わる軽い推理小説になっていて、
私には一寸調子は違いましたが、シニアにも楽しめる本です。
クミジン「論理学入門」など聞いた事も無い本もテーマになっている処を
見ると、著者は随分色々な本を読んでいて、こんな本を書くのでしょう。
古書店主の若い女性は何者かに蹴落とされ足を折り、病室で所謂
安楽椅子探偵になり、アルバイトの若者が手伝ってそれぞれの本に
纏わる事件を解決します。
この種の安楽椅子探偵でまず思いつくのは、敏腕刑事が入院中に
リチャード3世の肖像画を見て歴史の常識を覆す物語「時の娘」です。
ヒチコックの映画「裏窓」もJ・スチュアートは足に怪我をして動けず、
恋人のグレースケリーが探りに行ってはらはらさせたものでした。
これらは皆 内臓疾患等ではなく怪我での入院なのです。
本に就いての推理小説は、J・ダニング「死の蔵書」「幻の特装本」
紀田純一郎「第三閲覧室」など買いましたが印象には残っていません。
「ビブリア・・」は北鎌倉辺りも懐かしく、古本に纏わる話も面白いので
早速、梶山季之「せどり男爵数奇譚」紀田純一郎「古本屋探偵事件簿」
をアマソンに中古で頼みました。
私の兄は古本が好きで、兄妹2人で中央線の高円寺に15軒程あった
古本屋を本当に毎日毎日回ったのはもう半世紀以上前の事ですが、
私も古本屋に慣れ親しんでいたのでこの本には興味があるのでしょう。
後記
梶山季之著「せどり男爵数奇譚」は大変面白く、マニアックでもあり
古本屋好きには必読の書と思い兄に送るところです。
”良き友は 物くれる友”
>写真はイタリーからのクリスマスのお菓子“良き友は物くれる友”というのは随分がめつい事を言うようですが、
これは誰か有名な人の言葉のようです。
この写真はパネトーネと言うイタリアのクリスマスのお菓子です。
夫の東京の友人がイタリアから取り寄せて、石川県まで送って下さるものです。
彼はユニークな人で大きな会社に勤めていましたが、美食家の彼はイタリアにも
度々行き定年後はとうとう食べ物の評論家になりました。
毎年、こんな素敵なお菓子が送って頂きますと何とも嬉しい気がします。
これも夫の友人ですが、昔 同年に入社した会社の同僚で親しくさせて頂いて
居りましたが、先日突然“すやの栗きんとん“を送って下さいました。
これは 50年ほど前に 荒川豊三窯に行った時に“すや”で買って以来
私共の大好物の 特別上等の栗で出来た、上品なお菓子なのです。
本当に美味しく懐かしく頂き、彼のご親切に心から感謝しました。
10年ほど前に地中海クルージングした時に、2週間ほど同じテーブルだった
イギリスのご夫妻は今年も、未だ11月ですのに ユニオンジャック柄の大きな
ひざ掛けを送って下さいました。
私は 今年は忘れずに夏祭りの時に子供用のお祭りの半纏を買いましたので、
彼らの一人息子にクリスマスの贈物として送るところです。
このイタリア船では、一番先にアナウンスされる言葉は勿論イタリア語ですが
次はスペイン語、フランス語、そしてドイツ語、最後に英語になるのです。
英語が世界の共通語と思っている私共には驚きでした。
800人位の中に英語圏の人は本当に少なく、食事は毎日盛大なイタリアンでした。
又々いつもの食べ物の話ではなく・・・
心のこもった贈り物は何と心温まるものでしょう! と言う事です。
矢張り「良き友は物くれる友」は本当に名言だと思います。
追伸
東京や、石川県内、被災した方までも、膝掛け用の毛糸を沢山お送り頂き
心から感謝いたしております。
12月2日に知人、友人たちが福島に慰問に参りますので、又膝掛け30枚お届して
もらいます。
このサイトをご覧になってお送り下さった方にも御礼申します。
今年は柿が沢山採れましたか?
" 柿の白和え”を青手の7,5寸(23c)の鉢に盛りました。九谷の古典文様ですがシンプルで使いやすい感じです。
さて、今年は柿が良くなる年のようです。
それが、我が家の柿の木は葉が全部虫に食われて1つも実がならないと言う
情けない事になりました(離れた所にあって少しも気が付きませんでした)
あちこちのお宅から 柿を食べきれない程沢山頂きましたので
お豆腐の「白和え」に柿をたくさん入れて作りました。
先日、玉子好きな夫が、スモークした玉子を出汁で味付けしたのを
東北旅行の帰りに買って来ましたので、同じように作ってみました。
フライパンにスモークチップや紅茶を置き、網を乗せその上に半熟で
殻を剥いた玉子を置いて蓋をして10分位スモークさせる、
それを醤油味の出汁に浸けるだけです。
どちらも美味しく出来ましたので、知人や友人たちにお分けしました。
写真の鉢は年末の特別価格として、約半値でご提供しております。
年末には 色々な器を特別に作り、顧客の方に良い品をお安く提供するため
私としては、一番の大事な仕事として苦心して色々作り上げた所です。
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被災地に「手編みの膝掛け」をお届けして・・

蘇梁館で編んでいる膝掛け
私共の「たぶんかネット加賀」では、東北の被災者の方々に、「毛糸の膝掛け」
を編んで居りました。
8月に編み始めた日には私の友人と近所の方の5人でしたが、3ケ月経ちました
今では加賀市内と小松市からの有志が20人余集まり賑やかになっています。
2週間ごとに、蘇梁館(市が移築した旧北前船主の家)の「ニッとカフェ」
という会に集まって編むのですが、そこでは2時間だけですので、
多くの会員は自宅に毛糸を持って行って膝掛けを編みあげて下さいます。
35枚ほど膝掛けが編み上がった時に、夫のグループが夫婦同伴で東北へ旅行
があり足を延ばして、被災された町南相馬市の原町の夫の知人の処に伺わせて
頂く事になりました。
その原町は第一原発から30k 以内にあり、津波でも人々は亡くなり、
そして原発の大きな被害が心配されている処です。
膝掛けを何処に差し上げて良いか分かりませんでしたが、その知人の方は
弁護士さんで、南相馬市に問い合わせたりして下さいましたが、
結局その方が属しているロータリーから被災者の方にお届けして頂く
事になりました。
35枚の膝掛けをお渡しして「被災者の方々の苦しみや悲しみを思いながら
皆で一針一針編みました。気持ちだけですがをお届したいと思います」
とお伝えしました。
バス旅行でしたが、運転手さんは放射線量が異常に高い「飯館村」の傍を
通らないで行こうとしましたが、第一原発20kの所で道路はお巡りさんに
完全に止められ、戻って「飯館村」の傍を通って行かなければなりません。
其処は無人の街になっていて、家々も学校も閉め切ったままでしたが,
この様な山間の美しい所に住めなくなった住民の怒りは如何ばかりかと
思いました。
原町に着くと、夫の知人と10人程の方が出迎えて下さり、彼は私共の
バスに乗って市内を詳しく案内して下さいました。
30k以内の所なので、何度も線量計で測っておられました。
街中を通り過ぎ、海岸辺りに行きますと、一面の荒れ地が広がって、
ほんの1軒、2軒のボロボロに壊れた家が見えました。
「ここには一面に家が建っていました」とは信じ難くて、皆何度も
「家が在ったのですか?」と聞き返しました。
千年に一度と言う津波が何もかも、沢山の人の命までも奪い去った所でした。
原町の皆さまとご一緒に食事をする機会も作って頂き貴重なお話も
伺え、感謝でいっぱいです。
福島を訪れて私共の無力をつくづく感じさせられましたが、
ただ今はみんなで、膝掛けを編み続けています。
ご不要な毛糸、編みなおしの古毛糸、手編みのセーターなど
ございましたらご寄付お願いしたいと存じます:送り先は下記でございます。)
送り先;多文化ニットカフェ
住所; 石川県 加賀市 熊坂町 ハ28−3
蘇梁館(そりょうかん) NPO法人「多文化ネット加賀」内
電話; 0761-72-5350
スペイン旅行(5) 独のケルン 海外旅行
旅行でのコレクションを飾る友人の居間 スペインの帰えりにドイツの友人に寄るので、フランクフルトから列車で
ケルン駅に降りましたが、迎えに来るはずの彼らは居ません。
マドリッドからの飛行機が.1時間半も遅れているので、私達も大きな駅の
どこを探して良いか分かりません。
うろうろして結局、案内所で呼び出して貰いましたが全然現れません。
用意の悪い私達は彼らの住所も書いていないのでタクシーでも行けず
駅で待っている事を携帯で彼らのパソコンに送るだけでした。
結局彼らは一時間待っても来ないので、唯一の通信手段のパソコンを
見に自宅に帰り、私達が駅に居るメッセージを読んで往復一時間かけて
戻って下さり、夜の9時半になって感激の対面になりました。
本当にほっとしましたが、彼らは来て下さると信じていました。
ドイツのコールドミートの簡単な料理に美味しいビシソワーススープの
遅い夕食の後、10年程前に一緒に南フランスを回ったアルバムを見て
お互いにあの頃は若かったが、まだまだ今も元気だと慰め合いました。
(私達は大体同年ですので。)
他のアルバムで私の姉は浅草に、妹は大山に彼らを案内していました。
彼女のアルバムは何年前の事柄でもが、直ちに見付けられます。
元々彼らとは姉の紹介で知り合いましたが、京都大学の教授として
時々来られ、京都に近いので私達の家でも泊まり、3年前に又日本に来られ
能登を一緒に2泊のドライブ旅行し私共にも泊まったり親しくしておりました。
次の日は今回の旅行で初めての雨で、午後からケルン大学や大聖堂など
回るだけでお宅の庭のお花を見て楽しみました。
今頃どうして北部ドイツの庭に沢山お花が咲いているのか分かりません。
夕食は鰊のサワークリームや野菜のソテー等々、旅行者の私達には
何より美味しいお料理でした。今度もお料理のレシピを貰いました。
もう会う機会がないのではないかと思い、スペインの帰えりに今度もまた
お寄りしたのですが、旅行好きなドイツ人の彼等は又日本に来られる予定が
あるそうで今回は2泊させて頂き日本での再会を約束して、又ケルン駅に
送って頂き別れました。
これで11日のスペインからの旅行は終わりました。
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