ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

再び差別と不公平の視点について

2017-03-11 11:16:15 | 日記
    再び差別と不公平の視点について
 差別と不公平の持つ意味と、その言葉を発する視点についてである。
単なる言葉としてみれば、何のたあいもない、埒もないことなのかもしれない。
しかし、それが沖縄の基地問題に係わることとなると、簡単にスルーはできない。それも一市民の感覚や発言ならいざ知らず、沖縄を代表する知識人、学者、政治家の視点となるとやはり問題は大きいと思う。
そんな思いもあり、先日このブログのタイトルの内容で琉球新報の論壇へ投稿した。
そして、今また「再び差別と不公平の視点について」の思いは、頭から離れない。
 今朝の「佐藤優のウチナー評論」で彼は、沖縄の作家大城立裕氏の「辺野古遠望」の一部を紹介している。
それによると、沖縄と日本の関係を悪化させているのは辺野古問題ではなく、再三にわたる日本政府の構造的・歴史的な沖縄差別政策そのものであるとしている。
辺野古問題は沖縄差別の原因ではなく、あくまでも日本政府の差別政策の結果であるとし、沖縄問題のすべての根源を日本政府による歴史的・構造的な沖縄差別にあると明言している。
同時に日本政府は、琉球の日本への同化志向やその機会を戦前・戦後を通じて一貫して拒否し続け、沖縄への異民族支配を押し付け、沖縄県民の日本への真の同化を許してこなかったとしている。
 日米安保をすべての最優先課題、とする日本政府と日本国民はこの間一貫して、沖縄の米軍基地の過重負担を黙認してきた。
「日米安保は不可欠であり、そのためには沖縄の米軍基地もやむなし」の論理である。
もうそこには、明確に日本政府と日本国民の恣意が内在している。
そのような明確な恣意が内在する結果「不公平」を「差別」と言わず、なんというのだろうか。
 いつの世にも、結果一時不公平はあり得るが、「差別」には同時に明確な恣意や意思が介在する。
その明確な恣意や意思が介在する「沖縄差別」をあえて「不公平」という、言い換えは許されないだろう。
個人のいじめや、暴力は犯罪行為にもなるが、国家のそれは国家行為の名のもとに合法化されることが多い。国家は個人に比べて絶対的な存在であり、その国家行為そのものも合法の名のもと、都合のいい法解釈を最大限活用し行われる。
国家権力は民主主義の多数決原理のもと、その国家目的の遂行のために、常に警察権力や司法権力をも動員してくる。
その身近な例が、日米安保ありきで憲法判断から逃げまくる辺野古訴訟であり、辺野古や高江での警察権力を前面に押し出した反対派住民の排除・弾圧である。
県知事や大多数の県民が反対している、辺野古への新基地建設の反対運動を弾圧するために、県警の予算を使い県外の警察権力をも動員する、明かに理不尽と思われる行為も合法の名のもとに行われる。
法の解釈範囲内であれば、国際人権協会の勧告も完全無視の山城議長の異例の長期拘留もその最たる例である。
 国家はその目的遂行のためには、警察権力や司法・検察のあらゆる国家権力を行使してくる。
これはいつの世の、どのような国家体制でも変わらない。これが所謂、国家が構造的な暴力装置と呼ばれる由縁でもある。
 沖縄は日本の1%でしかない。どんなに背伸びしても51%には永遠になれない。
何度でも言うが、同じウチナーンチューが差別側に加担することだけはやめて欲しいと切に願う。
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