ぎっくり腰とディオニュソス。
妙な組み合わせですが、私が、「いかに(人生)立つか」「いかに坐るか」に真剣に取り組むことを促してくれたのは、この二つです。
ぎっくり腰になったおかげで、その痛みにより、「これまでの姿勢が悪い」と気づかされました。
ぎっくり腰が完治しないうちは、知らず知らず悪い姿勢ていると、「痛み」が姿勢の悪さ、自分自身で辛苦を作り出していることを教えてくれます。
「もしも、ぎっくり腰になっていなかったら…」どうなっていたてしょう?
自分の足や腰に害を与え続けるだけでなく、人の足や腰にも害を与え続けていたと思います。
「足の痛みを我慢して、ただ坐る、これだけだ」
なんて、害毒を垂れ流していたように思います。(恐ろしすぎる…)
これを思うと、ぎっくり腰は、私にとって本当に恵みでした。
ギリシャの誰か哲人の言葉に、「苦難は学問である(パテーマはマテーマである」とあります。
パウロは、「パテーマ(苦難)はカリスマ(恵み、賜物)である」ということを繰り返し言います。
本当にそう思います。苦難は、大切な学ぶ機会であり、天からの恵みだと思います。
ちなみに今、関空。22時45分出発予定の飛行機が飛ばない…。はたして、アテネ、ディオニュソスの元にたどり着けるのか?
達観した人はそう思えるんですね。
私はエネルギーがないから、何事も起こらないといいなあなどと思ったりしますが、同じ人間でこういう心境になれる人たちがいるというだけで、心強い感じがします。
少なくとも私は「達観したから」そう思うのとは違います。
自分にとって悪い環境だと思っても、すごく後になると良かったことも多いし、
自分が良い環境だと思うものが、実は、自分や他人に多大な損害を与えていること、
自分の人生を振り返ると、こういうのばっかりですので、
自分が思う良い環境・悪い環境って、ほとんどあてにならないなと思うようになりました。