生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

私の人生の根本的間違いと、心得の条(仏教・禅・坐禅を学ぶに際して)

2016年02月18日 | 「ブッダの言葉」序

私の人生で、最もエネルギーや時間をつぎこんで、学び行じたのは、「仏教・禅」です。

「坐禅」に費やした時間も膨大です。

 

学び、行じ始めてから、約25年ほどたちます。(自分で本を読んだり、自分なりに坐禅をしていた時期を入れると30年くらいになりますが、京都の相国寺専門道場の在家修行者の坐禅の会に入会し、先輩の指導を受け、さらに老師について参禅修行をし始めてから、およそ25年です。)

 

 エネルギーや長い時間を費やしたら、ちゃんと学べるのでしょうか?

 そうは問屋がおろさないようです。

 間違った仕方で、学んでいたら、10年たっても、20年たっても、30年たっても、間違ったままのようです。

 悲しいことですが、事実そうです。

 これは、誰か他人のことを言っているのでなくて、まさに私自身が、本当に完全に間違ったまま、仏教や禅を学び、間違った姿勢のまま坐禅を行じていたんだな、と思います。

 

どのように間違っていたのか、そのポイントを4点。

 

仏教や禅を学ぶ際の根本の間違い2点。

・その1:「『仏教というのは、これこれの教えなんだ!』というような教え(物の見方や修行法など)が、どこかにあるかと思っていた。」

 私が、そのようなものを学んでも、「これが本当の仏教なんだ」と自己満足したり、人に威張ったり、独りよがりになるだけ。

 「仏教という教え」がどこかにあるかどうかでなくて、そのような私自身の姿勢自体が間違い。このことをはっきり語ってくれているのが、一番古いお釈迦さまの言葉。

 

・その2:「坐禅をして、『~観』をするとか、『禅定に入る』とか『三昧』体験するとか、『無になる』とか『青空体験する』とか何とかかんとかの体験をして、自分が優れた人間になるとか思っていた。」

 完全な勘違い。私のような人間は、「無の体験」をしても、どんな優れた「禅定」体験をしても、それで威張ったり、独りよがりになるだけ。

 「無になる」とか「特別な境地になる」とか、すべて「依りかかり」だ。これが一番古いお釈迦さまの言葉。

 

「坐禅」での根本の間違い2点

・その3:「萎えた足で坐っていた。」

 「坐禅」というのは、足が痛くなるもの、これが当たり前、「足の痛みに耐えるのが坐禅」と思っていた。足の血流を悪くし、関節に無理をかけ痛めるようなことをしていた、これが私の坐禅だった。

 もともと、足にも、血がちゃんと流れているし、関節にも何の無理もない。そのありかたのまま坐れる、ということを全く思いもしなかった。何と、心が萎えてしまっていたことか!

 

・その4:「縮んだ腰で坐っていた。」

 私が普通に(自然に)していると、だらけて、丸まった腰。これは腰が萎縮していて、このまま時間がたつと痛くなる。

 「腰を立てるぞ」と頑張っても、実は、無理な力がかかった腰(腰がちゃんとのびておらず、縮んだ腰であるのは、先の丸まった腰の時と同様)。

 この二つの間に、「適切な腰・ちゃんとした腰があるはずと思って、努力してみたが、全然だめで、縮んだ腰のままだった。

 「こっちか、あっちか、その間か(丸まってるか、反ってるか、その間か)」では絶対に間違い通しのままで、そういうのを積極的に完全に放たないとダメと、ようやく二度のぎっくり腰の体験から気づいた。

 3と4は、「足が萎えていた」「腰が縮んでいた」という単に「体」の問題ではなく、心が萎えてしまっていたということ。「萎えない足でいられる」と、ほんの少し思うこともないくらい、心が萎えてしまっていたとは!

 

間違いから脱する心得4点

1.「この教えが仏教の教えだ」みたいのを完全に気にかけない。(そのように言っている人を否定しないこと。)

2.「禅定」「三昧」「~観」「無になる」というようなことを完全に気にかけない。

 以上の2つは、お釈迦さまが一番古いお経で繰り返し言っていることで、ものすごく勇気づけられるので、繰り返しそれを読むべし。

 

3.常に足が萎えないように。(特にアキレス腱、足の裏を萎えさせない。)

4.常に腰が縮まないように。(丸まったままでなく、反るのでもなく、その間でもなく、元から腰全体を放ったままにする。)

 

 以上、人生50年が過ぎ、仏教や禅や坐禅を学び行じ始めてから25年たって、ようやく気づいた心得の条。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (koma)
2016-02-19 09:09:51
自己分析がすごいですね。
細かいところは私にはよくわかりませんが
自己分析がしっかりとできる方は
尊敬いたします。
Unknown (じょうどう)
2016-03-09 16:32:30
コメントありがとうございます。
別に自己分析というような高級なものでなく、さすがにここまで失敗したら(ひざを壊し、ぎっくり腰になるをはじめ、精神的な失敗も多し)、いやでも気づかざるをえなかった感じです。
Unknown (Unknown)
2016-12-17 13:01:37
坐禅をする方のこのような告白は初めて見ました。「坐禅とは、努力でどうにかなるものと思っていたが間違いであった」の類の回顧録はまま見ますが、このように詳細に語られたものは私は初めてです。同じような状況に陥り苦しんでいる方にとってはとても励みになるでしょう。どうかますます広くお伝え下さい。
Re (じょうどう)
2016-12-17 14:08:06
コメントありがとうございます。
さらにいうと、「本当に大事なことは、苦難や、自分の失敗(自分や他人を深く傷つけてしまった等)からしか学べない」ということも、本当にそうなのかも、と最近つくづく思えています。

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