私の人生で、最もエネルギーや時間をつぎこんで、学び行じたのは、「仏教・禅」です。
「坐禅」に費やした時間も膨大です。
学び、行じ始めてから、約25年ほどたちます。(自分で本を読んだり、自分なりに坐禅をしていた時期を入れると30年くらいになりますが、京都の相国寺専門道場の在家修行者の坐禅の会に入会し、先輩の指導を受け、さらに老師について参禅修行をし始めてから、およそ25年です。)
エネルギーや長い時間を費やしたら、ちゃんと学べるのでしょうか?
そうは問屋がおろさないようです。
間違った仕方で、学んでいたら、10年たっても、20年たっても、30年たっても、間違ったままのようです。
悲しいことですが、事実そうです。
これは、誰か他人のことを言っているのでなくて、まさに私自身が、本当に完全に間違ったまま、仏教や禅を学び、間違った姿勢のまま坐禅を行じていたんだな、と思います。
どのように間違っていたのか、そのポイントを4点。
◎仏教や禅を学ぶ際の根本の間違い2点。
・その1:「『仏教というのは、これこれの教えなんだ!』というような教え(物の見方や修行法など)が、どこかにあるかと思っていた。」
私が、そのようなものを学んでも、「これが本当の仏教なんだ」と自己満足したり、人に威張ったり、独りよがりになるだけ。
「仏教という教え」がどこかにあるかどうかでなくて、そのような私自身の姿勢自体が間違い。このことをはっきり語ってくれているのが、一番古いお釈迦さまの言葉。
・その2:「坐禅をして、『~観』をするとか、『禅定に入る』とか『三昧』体験するとか、『無になる』とか『青空体験する』とか何とかかんとかの体験をして、自分が優れた人間になるとか思っていた。」
完全な勘違い。私のような人間は、「無の体験」をしても、どんな優れた「禅定」体験をしても、それで威張ったり、独りよがりになるだけ。
「無になる」とか「特別な境地になる」とか、すべて「依りかかり」だ。これが一番古いお釈迦さまの言葉。
◎「坐禅」での根本の間違い2点
・その3:「萎えた足で坐っていた。」
「坐禅」というのは、足が痛くなるもの、これが当たり前、「足の痛みに耐えるのが坐禅」と思っていた。足の血流を悪くし、関節に無理をかけ痛めるようなことをしていた、これが私の坐禅だった。
もともと、足にも、血がちゃんと流れているし、関節にも何の無理もない。そのありかたのまま坐れる、ということを全く思いもしなかった。何と、心が萎えてしまっていたことか!
・その4:「縮んだ腰で坐っていた。」
私が普通に(自然に)していると、だらけて、丸まった腰。これは腰が萎縮していて、このまま時間がたつと痛くなる。
「腰を立てるぞ」と頑張っても、実は、無理な力がかかった腰(腰がちゃんとのびておらず、縮んだ腰であるのは、先の丸まった腰の時と同様)。
この二つの間に、「適切な腰・ちゃんとした腰があるはずと思って、努力してみたが、全然だめで、縮んだ腰のままだった。
「こっちか、あっちか、その間か(丸まってるか、反ってるか、その間か)」では絶対に間違い通しのままで、そういうのを積極的に完全に放たないとダメと、ようやく二度のぎっくり腰の体験から気づいた。
3と4は、「足が萎えていた」「腰が縮んでいた」という単に「体」の問題ではなく、心が萎えてしまっていたということ。「萎えない足でいられる」と、ほんの少し思うこともないくらい、心が萎えてしまっていたとは!
◎間違いから脱する心得4点
1.「この教えが仏教の教えだ」みたいのを完全に気にかけない。(そのように言っている人を否定しないこと。)
2.「禅定」「三昧」「~観」「無になる」というようなことを完全に気にかけない。
以上の2つは、お釈迦さまが一番古いお経で繰り返し言っていることで、ものすごく勇気づけられるので、繰り返しそれを読むべし。
3.常に足が萎えないように。(特にアキレス腱、足の裏を萎えさせない。)
4.常に腰が縮まないように。(丸まったままでなく、反るのでもなく、その間でもなく、元から腰全体を放ったままにする。)
以上、人生50年が過ぎ、仏教や禅や坐禅を学び行じ始めてから25年たって、ようやく気づいた心得の条。
細かいところは私にはよくわかりませんが
自己分析がしっかりとできる方は
尊敬いたします。
別に自己分析というような高級なものでなく、さすがにここまで失敗したら(ひざを壊し、ぎっくり腰になるをはじめ、精神的な失敗も多し)、いやでも気づかざるをえなかった感じです。
さらにいうと、「本当に大事なことは、苦難や、自分の失敗(自分や他人を深く傷つけてしまった等)からしか学べない」ということも、本当にそうなのかも、と最近つくづく思えています。