天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

非公式参拝

2016-05-06 00:11:37 | 時事

昭和六十年八月十五日。「おれが初めて公式参拝した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諸間機関として「靖國懇」注.1なるものをつくって、一年間、井戸端会議的会合をやりました。そして手水は使わない、祓いは受けない、正式の二礼二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないという結論を出したのです。しかし、これは私に言わせれば、「越中褌姿で参拝させろ」というのと同じで、神様に対し、非礼きわまりない、私は認めないと言ったんです。
そしたら遺族会やら英霊にこたえる会の方々に呼ばれまして、「折角、ここまできたんだから、宮司はゴタゴタいわないで、目をつぶってくれ」と、相当強く追られたのです。

 話は横道にそれますが、遺族会と靖國神社を一心同体のように見ている方々が大半です。しかし知る人ぞ知るで、私が宮司在任中は、多少ギクシヤクしていたと言ったほうが正直でしょう。
遺族会はご遺族の年金をアップするとかで、やはり政治家に密接に関わっているし、私は靖國神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅待していましたので。だから「遺族会は政治団体に徹するのがいいい」と言って、また叱られたことがありましたが、遣族会が政治家と析衝するのは、遺族さんのために、一番大きな任務だと思うんです。事実靖國神社を支えているのは、圧倒的に個々のご遺族さんの力であって、その根源が遣族会のたゆみない運動の結呆であることを私は最もよく認識しているつもりです。

一方、神社では「靖國神社奉賛会」というものをつくっておりまして、それは遺族会が運営しているのかと、よく質間されるのですが、違います。今日の繁栄に感謝する財界の大小企業、生残り軍人、有志国民による会です。

 話を中曾根参拝に戻します。遺族会などに「靖國懇」の結論を呑めといわれて、私が反論したのは、手水を便わないのはまあ宜しい。それは前もって潔斎してくるなら、中曾根さんの心がけ次第だ。玉串をあげない、二礼二拍手もしないでお辞儀だけ。これも心の間題で、恰好だけでなく、心から参拝するなら、こちらからとやかくいうことではない。それは譲ってもいい。けれども、お祓いだけは神社側の行うことだから受けてもらわなきゃ困る。火や塩や水で清め、お祓いするのは、日本古来の伝統習俗であって、これを崩されると、一靖國神社のみの間題でなく、地方でも中曾根方式を真似て、お祓いを受けないのなら知事は参拝しよう、そう言いだしかねない。それは神社参拝の本質を根底からくつがえす大きな間題だから、と反論したんですがダメなんですね。それで「分った」と。しかし、いずれにしろ、こういう形の参拝をさせていただきたいと総理サイドがら頼みに未られるのが神に対する礼儀ではないか、と主張しました。
 すると前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、目立たないよう、奥の小さい応接間にお通しして、私は言いたいだけのことを言いました。天皇様のご親拝のご作法--手水をお使いになり、祓いをお受けになり、それから本殿にお進みになって、大きな玉串をおもちになって、敬虔な祈りをお捧げになる--それを全部やらないというのは、弓削道鏡にも等しい。そう靖國の宮司が言っていたとおっしやっていただきたいと、しかし、これは恐らく言われなかったでしょうね(笑)。それから、私は明日は総理の応接には出ない、泥靴のまま人の家に上がるような参拝は、御祭神方のお気持に反することで、「ようこそいらっしやった」とは口が裂けても言えないから、社務所に居て顔を出しません、それも伝えてほしいと。

 念のために申し添えますと、靖國神社の例大祭などへの総理参拝は、吉田首相以未あったことです。サンフランシスコ調印帰国直後の秋季例大祭に、占領行政下であるにもかかわらず、堂々と「内閣総理大臣吉田茂」と署名し、榊を供えておられます。その後、岸、池田、佐藤、田中と、歴代の総理が参拝しておられますが、吉田首相と同様の形式でした。八月十五日の終戦の日に参拝するようになったのは、昭和五十年の三木首相からで、肩書なしの「私人」として参拝した、などと言ったものですから、それ以来、参拝する閣僚などに「公人としてか、私人としてか」などと新間記者がにもつかぬ質間をするようになりました。
 私は、お偉い方でも心なき参拝者には、離れた社務所からスッ飛んで行くようなことはいたしません。しかし、年老いたご遺族が、特に地方から見えたら必ず知らせてくれよと奥の方の神職には言ってありました。

 それに、八月十五日だからといって、神社は特別なことをするわけではないのです。靖國神社には、新年祭や建国記念日祭といった他の神社と共通の、我が国の安泰を祈願するお祭り、そして春秋の例大祭、月に三回の月次(つきなみ)祭(一日、十一日、二十一日)といった、御霊をお慰めするお祭りと、いわば二通りございますが、八月十五日はいずれにも属さず、特別なお祭りはないのです。朝夕に神饌をお供えする朝御饌祭、夕御饌祭が厳粛にとり行われておりますが、これは三百六十五日、毎日行われていることです。ただ、八月十五日には武道館で全国戦没者追悼式が行われ、全国からご遺族の方が見えますので、参拝者の数が多くなります。マスコミも注目する。それで政治家も地元のご遺族方の参拝に合わせて来られるのでしょう。

 私は例年、八月十五目は、武道館のほうへ靖國神社の代表として招かれておりますので、モーニングを着て出席いたします。式が終って、出ようとしても出口が混雑するので待っている。その間に首相は、さっさと靖國神社へ回って参拝を終えるので、従来から八月十五日には全然首相とは対面していません。ところが、昭和六十年の鳴物入りの「公式参拝」私に言わせれば「非礼参拝」ですが--そのときは、武道館での追悼式のあと、総理は、時間調整のため昼食をとられ、その間に武道館から退場したご遺族さんたちを神門から拝殿まで並ばせたんですね。その中を中曾根首相一行が参拝するという、ショー的な手配をしたのです。しかし善良なご遺族たちは「公式参拝してくれてありがとう」と喜んで拍手で迎えていました。私はすでに武道館から神社に戻っていたのですが、藤渡さんにも職員たちにも宮司は出ていかないと言ってあったので、出ていかない。社務所の窓からご社頭の状況を眺めておりました。ちょっと子どもじみておりますかね(笑)。

 ところが夕刊を見てびっくり仰天。これはしまったと思いました。参拝が終ったあとの写真が出ているんですが、中曾根総理、藤波官房長官、厚生大臣、それとボディガードが写っている。写真では二人しか写ってませんが、四人ついていた。
 拝殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清浄な聖域になっているんです。天皇様も拝殿で祓いをお受けになって、あとは待従長などをお連れになって参進される。警護はなしです。

 だから、中曾根総理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だからそれは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思うわけです。靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇様でもなさらない警備つきとは何事かと、七年経った今でも無念の感情が消え去りません。
 先ほどの祓いの件は、拝殿に仮設した記帳台のまわりに幕をコの字型に張り、外から見えないようにして、署名のときに陰祓(かげばら)いをいたしました。神社としては祓いをした、内閣側では祓いを受けなかった。それで結構です、ということで決着をつけたんです。この程度ですね。

 そしたら、その直後に韓国と中国からいちゃもんがついたんで、しっぼを巻いて、以未今日まで総埋の参拝は八年間なし、という情けない状態でございます。

注.1【靖国懇】
閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会

林  敬三

芦部 信喜

梅原  猛

江藤  淳

小口 偉一

小嶋 和司

佐藤  功

末次 一郎

鈴木 治雄

曽野 綾子

田上 穣治

知野 虎雄

中村  元

林  修三

横井 大三




70年前の8月15日、私は海軍主計大尉として、香川県高松市で玉音放送を聞いた。電波の状況が悪く、雑音も多い中でラジオから聞こえてくる陸下の御声から、戦争が終わったことはわかった。

張り詰めた感情の糸が切れたように、悲痛とも安培ともわからぬ感情が込み上げてきて、滂沱の涙が溢れ、ジリジリと焼けつく校庭で激しく鳴いている蝉の声だけが耳に迫っていたのを、今でも鮮明に記憶している。昭和20年の秋に復員して内務省に復職し、廃墟の東京で茫然と立ち尽くし、「この国を立て直していけるのだろうか?」「国民生活は本当に回復できるのだろうか?」と思ったあの日からすれば、誠に隔世の感がある。それから70年、一面の焼け野原だった東京の町は高層ビルで埋め尽くされ、夜になると澄んだ夜空に一面の街灯りが広がっている。光で埋め尽くされた東京の夜景は、敗戦・復興を経て、今日の発展を成し遂げた日本の、この70年の何よりの証でもある。

思えば、戦後日本の復興を遂行してきたのは、戦前・戦中に戦場や内地で青春を過ごした私と同世代の人々であり、日本の文化や伝統を尊重しつつ、自由民主の国民的共同体の下に新しい日本を建設しようと熱情を持って敢然と立ち上がり、国の行く末を懸命に議論しては実行していった人々である。嘗て、私が従事した帝国海軍は解体されて無くなってしまったが、海軍の“短現”(短期現役主計科士官=戦時における士官の不足を補う為、旧制大学出身者等を海軍が2年間に限って採用した士官制度)出身者の多くも戦後各界のリーダーとなって、我が国の発展を支えた。私が首相時代に大胆な行財政改革を成し得たのも、戦火に散っていった仲間や、犠牲となった同胞への鎮魂の思いを胸に、この国の発展の礎にならんとした海軍時代の仲間達が、各省庁や経済界の幹部として支えてくれたからであった。戦争を経験した世代の多くは鬼籍の人となり、今や戦争を知らない戦後生まれの世代が各界のリーダーとなっている。

終戦直後の食うや食わずの生活からすれば、この70年で日本人は欧米先進国と同じような生活水準を享受できるようになった。自由や民主といった概念、平和主義も国民に受け入れられ、確実に日本社会に定着した。この戦後70年の日本の歩みを、歴史的にどう評価すべきなのか? 確かに、世界に冠たる豊かさを享受するまでに国は発展したが、果たしてその果実とも言うべき国民の心の豊かさを表す精神文化はどうか? 国際社会に生きる日本人としての誇りや責任はどうなのか? この節目の機会に、改めて考えてみる必要はあるだろう。また、この70年を歴史の通過点と考えれば、我々は過去-現在-未来という歴史の連続性において日本の将来をどう捉え、国民・国家の在り方と世界との関係をどう考えるべきなのか? その進むべき進路と共に、日本の姿を思い描いていかなければならない。過去をどう考えるかに依って、導き出される今も未来も自ずと違ったものとなり得るし、当然、我々世代の解釈や認識の違いに依っては、国際社会の中で摩擦を生むこともある。

戦後、国際社会の一員として平和と協調の道を歩み発展してきた、日本のこれからの在り方が問われよう。

戦後70年となる本年、政権を巻き込んでの歴史認識問題が囂しいが、そうした問題も踏まえ、先の戦争をどう捉えるべきなのか? 先の世紀を歴史的に振り返れば、20世紀は“戦争と平和”“不況と安定”の狭間に揺れ動く中で、“非戦”と“自由貿易”の潮流に向かって世界が大きく動きつつあった時代と言えよう。国際法的にも、20世紀には戦争の非合法化が進み、実態面でも過去の世紀に比べて暴力に訴える争いが確実に減少しているという。20世紀の初頭には、世界に胎動しつつあった脱植民地化の潮流と相侯って、国際連盟という各国の利害を調整・解決しようという国際機関が発足する。こうした中で、日本も一旦は国際連盟の常任理事国となるが、満州国の建国を境に孤立化し、追い込まれる形で国際連盟を脱退、世界の民主主義への正統的潮流に反するような形で、

無謀な戦争へと突入してしまうのである。

第2次世界大戦というものを考えれば、それは帝国主義的な資源や国家・民族の在り方を巡る戦いであり、欧米諸国との間の戦争もそのような性格を持ったものであったと言える。後発国だった日本が、欧米を追い、遅れまいとして、帝国主義的対立の延長線上で起きた戦争であった。それはまた、民主主義を巡る価値的相異から起きた戦争でもあった。歴史の反省・教訓として、現在まで議論が続く大きな問題としての東京裁判をどう考えるべきなのだろうか? 私自身は“東京裁判史観”というものに与するものではないが、第2次世界大戦・太平洋戦争・大東亜戦争と呼ばれるものは複合的で、対米英・対中国・対アジア其々に違った複雑な要素を持ち、決して一面的な解釈で理解できるものではない。

ただ、無謀な戦争に突入することで、300万人以上の国民が犠牲を強いられたという事実を拭い去ることはできない。昭和15年に時局が厳しさを増す中、企画院を中心に各省庁・陸海軍・民間の若手エリートが集められ、『総力戦研究所』が設置された。その昭和16年の総力戦の机上演習(シミュレーション)では、「長期戦に日本の国力が耐えられず、敗北は避けられない」という結論が出されている。にも拘らず、そのような客観的な研究・分析を無視する形で開戦へと突入し、敗戦という無残な結果となってしまった。国民に対する責任を考えれば、当時の指導者の戦争責任を他者に依る東京裁判という形ではなく、日本人自らが裁き、自らの責任において決着をつけるべきものであったと思う。他方、アジア諸国の国民に対しては、その戦争はある面、侵略戦争でもあった。特に中国に対しては、1915年の『対華21ヵ条要求』以降は侵略的要素が非常に強くなったと言える。日本の中央政府の不拡大方針に反して、現地の軍が武力行使を拡大し、張作霖爆殺事件・柳条湖事件等を引き起こした。これらの事件とその後の中国国内への事変の拡大は、中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるを得ない。また、資源獲得の為の東南アジア諸国への進出も、当時、西欧諸国に依る植民地支配に苦しんでいたとはいえ、現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできた訳で、まぎれもない侵略行為だったと言わざるを得ない。

やはり、多くの犠牲者を出した先の戦争は“やるべからざる戦争”であり、“誤った戦争”であったと言える。アジアの国々に対しては、侵略戦争だったと言われても仕方がないものがあったと言える。

歴史の解釈・歴史の流れというものは、1つにはやはり国際的に通用する判断で考えなければならないし、歴史の流れ全般を考えながら大局的に判定すべきものであろう。

20世紀の歴史の流れを大きく考えるならば、やはり、戦後日本の起点はポツダム宣言受諾に始まると考えるのが国際的通念であり、歴史と共にあの戦争と敗戦から学ぶべき教訓を、我々日本人は胸に深く刻む必要がある。

歴史を正視し得ない民族は、他の民族からの信頼も尊敬も得ることはできない。

点検と反省に依り、自己の歴史の否定的な部分から目を逸らすことなく、これらを直視する勇気と謙虚さを持つべきであるし、そこから汲み取るべき教訓を心に刻み、国民・国家を正しい方向に導くことこそが現代政治家の大きな責務だと考える。一方、アジアとの関わりで今後も避けて通れないのが、靖国問題を始めとした歴史問題であろう。首相在任中、終戦から40年目に当たる1985年8月15日、私は内閣総理大臣として初めて公式に靖国神社を参拝した。今でこそ、靖国参拝は中国や韓国との関係における歴史問題として認識されているが、靖国問題はそれまでは主に“政教分離”原則に反するか否かという憲法問題であり、国内問題であった。その為、公式参拝に当たっては、諮問機関(『閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会』)の検討の下に、「宗教色を薄めた参拝形式を取ることで公式参拝は可能」との結論を得て、従来の政府見解を変更する形で公式参拝を断行した。確かに、当時既にA級戦犯が合祀されており、戦争を経験し、戦場で多くの肉親や部下を亡くしている国民感情からすれば一面、納得できない点もあった。そうした中で、敢えて公式参拝に拘ったのは、「国を守る為に亡くなった人々に、一度は総理大臣が崇敬の念を表する必要がある。国を代表して英霊に感謝の誠を捧げ、平和国家建設を誓うべき」との強い思いがあった。歴代の首相は参拝の際、マスコミや世論を考えて、総理大臣の公式参拝であるかどうかを曖昧にしたまま参拝を続けてきたし、その為にも、総理大臣が国を代表して公式参拝を断行することが必要と考えていた。

当時は“政教分離”という国内政治上の問題が最大の議論であったが、亡くなった霊を慰める行為自体は日本の文化として極自然な気持ちの発露であり、私個人にしても、戦場に散った多くの戦友や部下、そして弟が靖国神社に祀られている。戦争を体験した者として英霊への鎮魂の思いは深く、一度は公式に参拝することを政治家となってからずっと考えていた。その公式参拝の後、俄かに“A級戦犯合祀”の批判が中国で沸き起こった。当時、親日的であった中国の胡耀邦総書記が、私の参拝で苦境に立たされているという話と共に、訪中した『新日鉄』の稲山嘉寛氏を通じても、参拝を歓迎せぬ中国側の意向が伝わってきた。そうした状況の中で、一度は公式参拝断行を考えてきた訳で、これが済めば、その後の靖国参拝については私的参拝は継続し得ても、公式参拝についてはこれを取り止めることを判断した。やはり、日本はアジア諸国の一員であり、アジアとの友好協力関係なくしては存立し得ない。また、こうした国々との平和回復に際しても、過去についての反省と教訓を謳っている。一国の主権・内政不干渉という厳然と守らなければならない点が確かにあるが、アジア周辺国との信頼関係構築こそ最優先すべき国益と考えてのことであった。確かに、歴史への反省と民族の誇りをどう両立させるかというのは、難しい問題であろう。大東亜戦争に関しては、戦後の日本人の意識に纏わりついて離れぬ霧のようなものがあるように思える。本来であれば、あの戦争の指導者に対しては日本人自らがきちんと決着をつけるべきであった。しかし、東西の冷戦が始まったことで、日本社会としての戦争の総括が中途半端に終わってしまった。そのことが、あの戦争を巡る日本人の意識の曇天に繋がっているように思える。

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前半は所謂A級戦犯を合祀した松平宮司の手記。
後半は中曽根康弘元首相の戦後70年の大勲位の遺言から。この後11年首相参拝は行われず。未だ天皇陛下の御親拝は途絶えたままである。
東京裁判史観、つまり日本は国策を誤り侵略戦争を起こしたのだから、その責任者が合祀されている様な宗教施設とは距離を置くべき。首相としての責務である公式参拝を敢行したのであるから、後は関知しない。己の面子と今を生きる者の為。
東京裁判を否定する立場の靖国神社は246万6千余柱の慰霊、鎮魂、顕彰を英霊の名誉回復とその遺族の為に行う。
どちかが日本の為に必要か今その岐路に立たされている。









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