天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

佐々木・和辻論争と尾高・宮沢論争

2016-06-10 15:52:37 | 歴史
米国が太平洋戦争開戦からわずか半年後の1942年6月、情報工作の一環として昭和天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との計画を立てていたことがCIAの前身の情報機関であるOSS(戦略情報局)の機密文書に一橋大の加藤哲郎教授がワシントンの米国国立公文書館で、2001年に解禁されたOSS史料の中から発見している。



明治憲法は、第4条で、
「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規に依り之を行う」とあった。

戦後新憲法は、
第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
第三条で、「天皇の国事行為に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」
第四条で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」
と規定し国家元首の記述は省かれている。
「象徴天皇制」という新統治概念を生み出したと
言うよりは、米国の"押し付け"の意味合いを多分に含む憲法であることは誰の目にも明らかである。

つまり、日本国憲法の制定に伴い、国体が変革したか否かを巡る論争の過程と結果にこそ戦後日本人が皇室のあり方、位置付けにどう関わってきたかが伺えるだろう。

そこで今回は二つの論争を通して現在の皇室の在り方とこれからの日本人はどのように考えるべきかの考察の一助となればと思い取り上げた。


【佐々木・和辻論争】

憲法学者の佐々木惣一と哲学者の和辻哲郎の間でなされた論争であり、日本国憲法制定に伴い国体が変革したか否かをめぐる国体論争の一つである。

佐々木惣一


和辻哲郎


佐々木・和辻論争は、「日本国民統一の象徴」という天皇の歴史的・文化的意義を強調する。

〈和辻〉は,日本国憲法第1条を根拠に,天皇の本質的意義に変化はないとするのみならず、「統治権総攬者という事態においても根本的な変更はない」と、"国体不変更論"を主張する。

それに対し〈佐々木〉は、あくまでも法律学的に「政治の様式より見た国体」に限定して応じ"国体変更論"を主張したのである。



〈佐々木〉は、大日本帝国憲法においては、主権者は統治権の総攬者である天皇であったが、戦後の日本国憲法制定により、主権者は国民となり、これによって、日本は君主国体から民主国体に変わったと主張した。 この国体とは、憲法上の主権の所在によって区別されるもので、国体概念は政治様式によるとされる。

これに対して、〈和辻〉は、誰が統治権の総攬者なのかは国体ではなく政体の問題であり、一般社会の考えでは、天皇は国民の象徴であり、国民の憧れであるという事実は変化していないので、日本国憲法制定後も、国体に根本的な変化はないと主張した。 和辻の主張する国体とは、日本の歴史を一貫する特性であり、天皇が国民の象徴であることとされる。

なお、大日本帝国憲法から日本国憲法制定には主権の変動を伴っており、憲法改正による主権の所在の変更ができるのか否かなど学説上争いがあり、憲法改正無限界説や憲法改正限界説、八月革命説など議論を呼んだ。


【尾高・宮沢論争】
昭和22年から昭和24年にかけて、東京大学教授で法哲学者の尾高朝雄と、同大学教授で憲法学者の宮沢俊義の間で行われた論争を尾高宮沢論争と呼ぶ。

尾高朝雄


宮沢俊義


大日本帝国憲法では天皇が日本の統治権者であったのに対し、日本国憲法は象徴天皇制と国民主権を採用している。

この変革につき、〈尾高〉は、与えられた具体的な条件の下でできるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現しなければならないという筋道、すなわち
ノモス(社会制度上の道徳)
に従った政治をしなければならず、主権が国政のあり方を決定するものであれば、主権はノモスに存在しなければならないとして、天皇主権であっても国民主権であっても"ノモスの主権"は変わらないとして、象徴天皇制と国民主権の調和を図った。

これに対し〈宮沢〉は、国政のあり方を最終的に決める力を主権として捉えるのであれば、それを最終的に決める力を持つ具体的人間は誰なのかという問題(君主に主権があるのか、国民に主権があるのかという問題)、仮にノモス主権が承認されたとしてもノモスの具体的な内容を決めるのは誰なのかという問題が残り、ノモス主権説は主権の所在に関する回答になっていないと主張した。


尾高・宮沢論争も含め、日本国憲法制定時における国体論争は、そもそも国体という概念をどのような意味で用いるかにつき論者によって異なり、いわば定義の問題と評価される。

また、尾高・宮沢両者の考え方の対立は、主権という概念の捉え方の対立、旧憲法から現憲法への移行の連続性を重視するか変化を重視するかについての対立であり、単に見方が違うだけという評価もある。






日本そのものが耐え難きを耐え昭和20年8月15日に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏し武装解除して占領を受け入れた。
そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことを余儀なくされた。

そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、昭和21年5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年昭和22年5月3日に施行された。

ハーグ条約43条に触れることなく米国はその意のままの憲法を日本人によって改正させた。
昭和21年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』は人間宣言とされ日本人に国民主権が浸透していく速度を速めたことだろう。

つまり国体は恒久平和の追求の為に変革を余儀なくされたのである。日本国憲法は70年改正されることなく現在に至るが、平和である以上改憲する必要がないとする意識こそが君主或いは国家元首を象徴化された国民の懈怠とも言えるのではないだろうか。

戦後の混乱期に於ける国体論と主権論が佐々木惣一と和辻哲郎,宮沢俊義と尾高朝雄の間で主権論争 が展開され、日本国憲法の制定にともない国体 は変更されたのか否かという解釈には当時の混乱と戸惑いが伺える。

「日本国民 統一の象徴」という天皇の歴史的・文化的意義を強調する〈和辻〉は日本国 憲法第1条を根拠に天皇の本質的意義に変化はないとするのみならず「統治権総攬者という事態においても根本的な変更はない」と"国体不変更論"を主張する。
それに対し〈佐々木〉はあくまでも法律学的に「政治 の様式より見た国体」に限定した。

もっとも、主権の所在という観点からすれば、〈尾高〉説によればどのような政変があっても主権の所在は不変ということになり、政治の根本原理の変化を包み隠すものであるとして、〈宮沢〉説が通説化した。

〈尾高〉のノモス主権論は、ノモスの権威を君主や国民のうえにかかげることで、天皇主権と国民主権の対立を中和させようというものであるが、これを〈宮沢〉は「(国民主権の採用による天皇主権の否定という)天皇制に与えられた致命的とも言うべき傷を包み、できるだけそれに昔ながらの外観を求めようとする包帯の役割を演じようとするものである」とイデオロギー批判の手法で論難し、ポツダム宣言の受諾により国民主権をとったのだから、"国体は変革"したとする。

このような宮沢の主権論に対し、〈尾高〉は実力決定論だとして「あらゆる法の上にある実力としての主権の概念は、今日では根本から改鋳されなければならない」と主張する。

四者の主権、国体の解釈はバラバラであり、その定義付けも曖昧なままの論争は国体が新憲法下で変革したしないで大別され、変革したとしてその受け入れ方、変革されていないとの纏まりのない解釈こそが混乱を避ける為の論争、つまり肝心なのは思考の拒絶であって、寧ろ混乱を起こさせる為の論争なのかも知れない。

敢えて今回は改憲には触れず日本国憲法の初期段階での論争のみを取り上げてみた。国体が護持されたのか否かをもう一度考えて頂きたい。

付録として昭和天皇の所謂人間宣言の現代語訳を次号に掲載し参考にして頂きたい。

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