天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

アメリカ軍人の被爆死者

2016-05-29 12:16:05 | 歴史
「ええ、若い兵隊さんが電柱の根元に針金でくくられていたの は、はっきり覚えています」



と若い米兵の死体を目撃した広島市東区の蔵田淑子さんは、これまで盛んにいわれていた 翌日ではなく、その日に目撃していた。相生橋から東に約五、六十 メートルの電車通り南側。その目と鼻の先に自宅があったからだ。

直接の被爆者は、アメリカ政府公式発表では10人、日本の民間団体・歴史研究家の調査では12人いたとしている。朝日新聞社系は2014年現在直接被爆者を13人としている。


1945年7月28日、アメリカ側は榛名や利根などを撃沈。日本側もアメリカ軍機を撃墜し生き残った乗員を捕虜として捕らえた。

中国憲兵隊司令部に15人拘束、うち3人の将校は7月30日東京防衛総司令部に移送されているので捕虜となった中国憲兵隊司令部に残る12人が被爆することになる。

彼ら12人は広島城内にあった中国軍管区司令部・中国軍管区歩兵第一補充隊そして中国憲兵隊司令部の3箇所におり、複数の目撃証言によりほとんどが被爆当日に死亡したと考えられている。

蔵田さんらに死体として目撃されたものは後の調査でB-24ロンサム・レディー号通信士ヒュー・アトキンソン軍曹と確定されている。


被爆した憲兵が翌7日瀕死の捕虜を発見し広島憲兵分隊に連行しようとしたが憲兵自身も倒れそうになったためやむなく相生橋手前で捕虜を放置したという。これは1971年昭和46年の広島市刊『広島原爆戦災誌』に記載されている。

その後の追跡調査で実際に任にあたった憲兵が探しだされ、翌7日宇品への連行中一時的に相生橋の欄干に括りつけていたがそのまま絶命したためそこに残して他の捕虜を連行したとしている。

アメリカ側はその遺族に対し、終戦直後は「戦闘中日本上空で行方不明」と通達、翌1946年その中の何人かに「8月6日捕虜として日本に拘留中、戦死した」とGHQダグラス・マッカーサーがお悔やみをだしている。


B24爆撃機に搭乗していた仲間とともに。右がジョン・ロング・ジュニアさんだ。

オバマの広島スピーチにもある「道徳的な目覚めの契機の場として知られるようになった広島」
と戦争への憎悪とは国籍など問わず、人間が人間を死滅させる愚かさを言及している。

このアメリカ人が自らの同胞を被爆者としてしまった愚かさへの"気付き"は開発しておきながら使うことを躊躇った昭和天皇の残虐兵器に対する想いと終戦への決断に至った心境に71年かけてオバマ大統領がシンクロしたことにほかならない。