天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

川崎大師

2017-07-17 | Weblog
 毎年の初詣のランキングでは、1位は明治神宮ですが、
 2位は成田山新勝寺、3位は川崎大師です。
 成田山新勝寺に関しては、前回書きましたので、今回は川崎大師です。
 川崎大師の正式名称は金剛山金乗院平間寺です。
 これも安藤優一郎さんの「大江戸お寺繫昌記」に載っていた話です。

 川崎大師は、平間兼乗(ひらまかねのり)という貧しい武士が、
 ある日海中へ網を投げ入れたところ、弘法大師の木像を引き上げました。
 兼乗は木像を洗い清め、花を捧げて供養していたところ、
 諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人が、
 弘法大師の木像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、
 1128年(大治3年)平間寺を建立したと伝えられています。

 川崎大師が江戸庶民に有名になるのは、
 第十一代将軍家斉が参詣した事がきっかけでした。
 1796年(寛政8年)が最初で、
 この時家斉は24歳、前厄に当たっていました。
 この5年前、1791年(寛政3年)に、家斉の実父の一橋治斉が参詣し、
 それ以後毎年参詣しています。
 父親の勧めで家斉が参詣したのでしょうが、
 若い将軍が堅苦しい江戸城中を抜け出して
 日帰り旅行で息抜きをしたのかも知れません。
 本厄の時には参詣しませんでしたが、
 1798年(寛政10年)の後厄の時には参詣しています。

 将軍の参詣を契機に、川崎大師への関心が急速に広まり、
 1806年(文化3年)には、江戸出開帳も行われました。

 更に7年後の1813年(文化10年)、
 家斉41歳の前厄祈願のため参詣しました。
 家斉参詣の直前、
 34世山主の隆円上人が急死するアクシデントが起きます。
 川崎大師はその事実を伏せて家斉を迎えますが、
 家斉は後にその事実を知ります。
 自分の厄の身代わりで山主が死去したと聞かされ、
 家斉はいたく感動し、50石の寺領を寄進しました。
 この一件により、江戸の町の評判となって参詣者を激増させました。

 家斉には56人の子供がいた事で知られています。
 12代将軍家慶以外の子は、
 他家に養子に出したり輿入れさせたりしますが、
 これらの諸大名が、将軍が信仰する川崎大師に参詣するのは当然の事で、
 川崎大師の人気が定着する事になります。

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