天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

サラ・ベルナール

2017-05-15 | Weblog
 先日、東京の新国立美術館で開催されていた「ミュシャ展」を見て来ました。
 アルフォンス・ミュシャが世に出たのは、
 フランスを代表する女優であるサラ・ベルナールが関係しています。
 1895年の年の瀬、
 サラ・ベルナールの舞台の「ジスモンダ」のポスターを発注する事になりましたが、
 主だった画家が休暇でパリにいなかったため、
 印刷所で働いていたミュシャに舞い込んだものです。
 ベルナールはこのポスターを気に入り、
 その後の彼女のポスターをミュシャに依頼するようになりました。
 こうして、ミュシャはアールヌーボーを代表するデザイナーとなりました。
 今回の展覧会にも「ジスモンダ」が出ていました。

 さて、このサラ・ベルナールですが、永六輔がとても好きな女優だったようです。
 彼の「芸人 その世界」では、何度も彼女の事が出てきます。
 以下、同書からサラ・ベルナールについて書かれた部分を抜き書きしようと思います。
 彼女の人となりが分かると思います。


 サラ・ベルナールはメニューを読んでも観客を感動させ、
 涙さえ流させたという伝説があるが、
 このオードリー・ヘップバーンのような、
 やせぎすのサラの魅力のひとつが声だったという。
 きたえられた声の魅力。日本の芸人に無くなったもののひとつである。
 初めてニューヨークに行った時、サラは大群衆に迎えられた。
 新聞記者が
 「最近、ブラジルのペドロ皇帝は来ましたが、これほどの歓迎ではなかった」というと、
 サラはすまして
 「だってアチラはただの皇帝でしょう?」

 六十五歳のサラ・ベルナールが十九歳のジャンヌダルクを演じた時、
 その裁判の場で、裁判官に年を聞かれたジャンヌが
 「十九歳」と答えると静かな温かい拍手が湧きあがったという。

 十九世紀から二十世紀初頭、世界的な女優として名をなし、
 一九二三年、七十七歳で死んだサラ・ベルナール。
 彼女もまた非嫡出子、
 女優という仕事をけがらわしいと思いつづけていたが誇りもたかかった。
 彼女はベッドのかわりに金貨を敷きつめた紫檀の棺桶の中で寝ていたという。

 脱疽で足を切断しなければいけなくなった時、
 それを相談した医者に向かってサラ・ベルナールはいった。
 「ほかに方法がなければ、私の考えなど聞く必要はないでしょう」

 日本にも美空ひばりという女王がいるが、
 サラ・ベルナールもジャーナリストからは叩かれ通しの一生だった。
 晩年は脱疽で右足を失ったが、それでもヨーロッパの劇場を満員にした。
 七十七歳で死ぬ時、その最後の言葉は、
 彼女の死を伝えようとするジャーナリスト達に向けられた。
 「今度は私がいじめてやる。うんと待ちくたびれさせてやりましょう」

 生きている間に棺の中に入り、死んだらその棺をかつぐ六人の俳優の名前を決め、
 都合の悪い者が出るといけないからといって、
 一人余計に決めておいて死んだのもサラ・ベルナール。

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