てんこの [魂のきずな]

俺の心のなか
俺の体のなか
万華鏡のように
チカチカ
ガサゴソ

あれが俺の絆か、愛の証か・・・いのちか

そろそろ時間ですよ。

2007-06-19 00:14:40 | Weblog
生まれつき壊れていたんじゃないと思うのだが、物心がついた時分にはもう随分変わったひねくれ者になっていました。 私が母親から折檻(暴力)を受けたのは小学2年生の頃が最も酷かったように記憶しています。記憶している、と言うことは、現在のように年齢を重ねてくると記憶も定かでなく、なんとなく「そんなこともあったなー」という程度まで回復している、と言うことです。
  元々近所の友達と遊んだりするのが苦手だった私は、小学5年生の頃にはもう一人でいる時間ばかりが多くなって人間関係がぎこちなくなっていました。やがて、「あいつは変人だ」と言う評判が広がれば、「俺は違うんだ」とばかりにワザと変人振りもするようになって自己嫌悪に陥るようになりました。そういう自分の性格的変化と母親の折檻がどういう関係にあったのか、正直に見直すことは出来ませんが、母親とは、あの頃からず~と不器用な関係が続くようになってしまいました。
 「神と時々不可解なことをするものですね」、と言うのは、そんな母の旅館の後を継いで一緒に生きるようになったのは皮肉でした。母親は私ばかりでなくわたしの妻、子供達にも無愛想を極めて本当に悩みの種でした。 そんな母親との仲(関係)が変わったのは、旅館を廃業(倒産みたいだったが)して立石という丘の借家に住むようになってからです。引っ越した当初は、母親も怒ってむっつりと自分達の運命を憎んでいるようでしたが、居年ぐらい過ぎて心も落ち着いてきたのか「此処は自然があって、「ホラと鳥が幾羽も電線にとまって楽しそうだ」なんて口にするようになりました。
 そんな母親を見ながら私の心も穏やかになり、「本当に旅館を止めて良かった」なんて思う事もしばしばでした。 「肩が凝ったからこの辺を揉んでくれ」と言われれば私は痩せて船だらけの母親の肩に手を置き「ココかこの辺か」と言いながら私の小さな手でさすることが日課のようになりました。時には母親の乱れた髪に毛を古い櫛で梳きながら「これで10歳は若かくなったよ」と言えば笑い声を出して喜ぶこともありました。
 母親の詩を書き出したのはその頃からだと思います。母が亡くなってからそれらの詩は『万華のしずく』と言う私家版の詩集としてまとめてみました。