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2017年06月17日 | 【時事雑感】イマドキ、世の中、この社会

 はい、この映像は・・・。右の家のお隣さんです。

  最近まで、住んでいた方がいらっしゃるの瞭然ですが、東大阪市西部から大阪市生野区東部で展開されている「追い出し」の一光景に過ぎません。

 今年1月21日の記事の長屋と同じ<地主&家主>の所有です。

 現在の本読みは、オスマントルコです。この土地が誰が保有し、使用する権利を持っているか??管理するのは?

 これは、ほんまもんの「歴史」を学び、世の中をしくみをとらえたいと思う者にとっては、めっちゃ難しく、「実際のところ」に到達するのは・・・。

 1944、5年のイタリアの「南イタリアにおける農民の土地占拠」のあたりも、ああ、映画『ブーべの恋人』を見ている中で、山川の『世界各国史』で調べてみると、どどどっ!

 社会科の授業で、ええっとなんだったけ?こうちこうみん?班田なにとかで土地調査が最初。次は、「これだけは覚えとけ」の太閤検地・・・。明治の初めにも何か検知あったけ? 

 戦後は、「農地改革」があって・・・。

 いやいや、まてよ!大正末年から昭和10年代にかけて「都市部」周辺では「耕地整理」が行われて、鉄道・電鉄に近いところには、長屋やモダンな住宅が建てられた。これについては、『大阪市建設夜話』をはじめ、建築系の研究者が仕事として明らかにされているはずです。

 

 再登場びっくり一眠りしました。「大正十四年は」一足しで1925年

 「大正十四年四月一日大阪市は市勢の著しい発展と接続町村の都市化をみたので、一挙東成・西成両郡四十四ヵ村を編入する第二次市域拡大を行ったが、当時東成郡のうち鶴橋町・天王寺村・中本町・安立町・、西成郡では豊崎町今宮町伝法町鷺洲町。玉出町などの密度は市内と同様の密住を示していた。これに対し東成郡の敷津村・依羅村・南百済村・長居村・、西成郡の大道村・中島村・川北村などはまだ一望千里の田圃地であったため、内務省側に強い反対があった。」【出典『東成区史』63ページ、1957年発行、編集者川端直正、発行責任者山川健一(東成区役所)】

 この時点の「東成郡」は次の通りです。①生野村②鶴橋町③中本町④神路村⑤小路村⑥城東村⑦榎本村⑧鯰江町⑨榎並村⑩城北町⑪古市村⑫清水村。

 関市長は上記の町村をすべて、「東成区」としました。

 しかし、東成区から「旭区」を分区、昭和8年1933年。

 大阪観光地、「生野区」の誕生は、終戦2年前の1943年、昭和18年

  さて、耕地組合って  了

 

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