魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第二巻~第一話 「懸命に儒学は孔孟を追う」】 其の1

2017-04-04 21:05:10 | 魂魄の宰相の連載

     【魂魄の宰相 第二巻~第一話 「懸命に儒学は孔孟を追う」】

前書き

 此の巻は、宋代の宗教論争や詩の解釈などそれらに興味ない人には退屈で、眠たくなるような文章が多く続くが、既得権を守る者の心理や手練手管を読み取り、また権力者の保身の手法も現代に置き換えて読み取れば、政治が本質的に持つ矛盾を捉えることが出来、氾濫する情報から開放されて、自分なりの定見を持てることを期待してやみません。
 存外、千年も前の古代と現代の人の心根が大きく乖離していないことも、感じられれば、訳者として喜びは一入です。 書は、読者が完成させるものです。


         平成十八年五月二十五日 〇〇的窮浪人 於草庵

 

第二章 懸命に儒学は孔孟を追う ~異端を研究して僧を廃棄し無いのだが                                 

一、若かりし頃の評判

 慶暦の二年(1042)、王安石は二十二歳になり、科挙試験に合格して科挙の最終合格者と成った。
 王安石の才能と学問を以ってすれば、科挙の試験に受かることなぞそう難しいことでは無かったので、彼が一端志を立てていた以上、合格したことは当然のことである。 然し、父が突然亡くなって、悲しみの余り暫らく何も手に就かなかった。 王益の妻呉夫人は兄の顔を見た途端、二人は「わあ」と抱き合い、王益の死を痛み合った。 その兄が王安石に「今、お前がやらなければならないことは、勉学に励み、何としても合格することだけなのだよ」と諭した。 その為三年の喪が開けると、彼は受験の為に上京して、皆の期待通り一発で試験に合格した。
 処が余り得意で無い仁宗の詩文の設問に出くわし、それ迄四位であった楊真に替わって四位に甘んじなければならなかったのだ。 楊真は首位で合格した。 王安石が科挙の試験を受け直すことなぞ今の王家には許されることでは無かったので、こんな結果に終わったことは王安石の将来に不安を残すことになった。
 そうした中で、王安石は程無く淮南節度判官斤公事の簽書に任命され、淮南で三年間在任することに為った。 王安石は、この淮南の地で孫正と知り合い親友と為った。 孫正は「今時」珍しい清廉潔白な青年であった。
 王安石は日頃口数が少なかったが、彼は決して寡黙では無かった。 この日も孫正が王安石を尋ね、酒を酌み交して学を論じた。
 孫生が質問した。
 「君子の姿勢について君の意見を聞きたいのだが」
 「皆我こそはと言うが、実の処は自分の志では無く世間一般の意見に安住しているだけである。 君主は皆とは違う。 君主は自分を持っていて、自分の意見を尊重するが、皆は他人からの『受け入れ』であったのを始めから自分の意見だと錯覚しているだけで、本当は余り理解が出来て無いのに、ことを進めて仕舞うのだ。 然も、本来自分の持論で無いことに気付いて無いのは尚性質が悪い。 君子は誓って利己心を持たず、古からの聖人の道に素直に従って、それら聖人を範とする。 君主は決して人の意見に惑わされず、如何なる苦難に出遭うとも自説を枉げず、環境が変わっても信念を通す。 一度間違った意見を取り入れて仕舞うと必ず「毒を喰らわば、皿までも」に為って仕舞い、結局、自分の意見など忽無くなって、二度と正道を進むことが出来無く為って仕舞うのだ」。
 孫正は大きく頷き同感の意を表した。 二人の談義は灯火が細るまで続いた。
考えてみると、昨今の指導者はどの位「教養」を身につけているだろうか。 先ず、教養は「知識」では無い。職人が技を身体で身につけるように、「教養」は人の頭で鍛錬され整理されて始めて身につくものである。 「知識」とは別のものである。 最初から整理された情報を吸収しても、それは単なる「受け入り」で「教養」では無い。 一塊の部品を幾つか繋ぎ合わせて纏めるのみでは、「思索」とは言えず方法論を掴むだけのものだ。  今までの生涯で体験した生の情報を掻き集めて、整理し纏め上げる過 程を「思索」と呼ぶ。 思索の結果生まれたものが「教養」である。 「受け入り」は衆知の知識であり役に立無いが、「教養」となれば世の為人の為に役立てることが出来る。 情報化が必然の社会では、人が「教養」を身につけていくことは難しい。
 王安石が持論を披露した時、孫正、曾鞏、李通叔などの賢友が称賛をもって聞き入ったのは、彼が父に従って流転したとき、多くの地を見、数多くの『違郷』の人に遭って、多くの稀な体験をし、子供乍苦労もし、そのような肌で感じた諸々の実体験に裏打ちされて始めて纏め上げた彼の自信と迫力が伝わったからではないのか。
 王安石はその後「新法」に取り組むことになるが、世間一般の仕来りに拘らずに、風評を気にせずに変革に邁進することになる。
 政治家の本筋は「為す」で無く「成る」にある。 目的は唯一つ「民を安んじること」である。 昨今の諸子百家の如き「輩」は、「自分で考える能力が無いのに宰相」を誘導し、宰相がその通り実行した為弊害が出ると、身を翻し忽宰相を攻撃する。 それでも首魁は身動き摂れずに「輩」達の様子を窺って同じことを繰り返す。 これでは民衆は堪ったもので無い。 思想の実践が成功に結びついて初めて政治家としての仕事の端緒に着いたことになるのに。 実践して成功し無ければ政治家としては無能であるのだ。
 ただ彼は変法がそんなに大きい抵抗を誘発すると予測して無かったので、決して朝飯前では無いことが分かって無かった。
 世の中が複雑になれば成るほど人によって、亦、人が同じでも個別のことで利害が対立する。 競い合う社会は尚更である。 「政治とは何か」を倫理、哲学、道徳を理念として考えなければ捌き切れるものでは無い。 それには民衆も理念となる根本原理を弁え、用意して置かなければならない。 王安石の変革が頓挫したのは彼自身準備万端であったとしても、回りの者達の用意が足り無かったのだ。
 王安石は、政治の「根本原理」を儒に求めた。 と言うより、成長過程で知らぬうちに身に着かされていたのだ。 だから、完全に自分の考えを持つことが出来たのだ。 とは言っても、これら「根本原理」は世の中の事象のあらゆる面で絶対では無い。 所詮、人の手で創られたものである。 然し、官場では真理である。 根本原理が与える「理想の故の理想」では無いのだ。 何時の世も、この「根本原理」から大きく離れた政治は、必ず社会を疲弊させる。 王安石は自身の考えを疑ること無く実践する為に自分自身を手本にしたが、勿論、彼は堕落した当時の儒家を軽蔑し、孔子などの《古代の》儒学者の後継者として自負していたので、彼の考えは古代の儒を手本とした。 然し、楊朱などの仏教家の影響も少なからず受けていたことも確かである。
 孫正に披露したことがある古代の教えや、善き古文は曾鞏、李通叔達にも同じように披露していたものであった。 曾鞏《再与欧阳舍人書》も「鞏の友達に王安石という者がいる」と語って、「文は甚だしく古く、行いは其文様と一致する」、見たところ古からある道と文語文と相応すると述べている。 王安石は朋友に披露したかったのは文学よりも寧ろ政治の主張ではなかったか。 文学であれ、政治学であれ学問に対する姿勢は似通ったものなので、不合理な現実を変える為に古からある学問を総動員して変革を推し進めていくことは、全く儒家の政治の理想に合ったことであった。
 王安石は孟子、韓愈を見習って、彼ら以外の意見を排撃することが頻繁にあったようだ。 孟子は楊朱、墨子を除いて、韓愈は老子と並んで仏陀を嫌ったので、王安石は二人の影響で、徒儒家の学術のみを尊重することになったのだ。 然し、これは彼の本意では無いので、王安石も類似する思想があるかも知れないと思っていた。 彼が孟子、韓愈をして真の儒学者と認めることが出来たのは、彼らが只異端を完全に排斥したからでは無く、更に重要なのは彼らが自分の考えを堅持し世間一般の因習に従は無かった故である。
 孟子の時には、天下の学は楊朱ではなく墨子に属していた。 孔子の教えは、細々と続くのがやっとで、この儘では孟子は衰退に任すしか無いと考えた。 孟子は儒学が昔のように盛んになるように一念発起した。 この時儒学を宣伝する活動を始めたのだ。 その時代儒家が正統派として決して認められることは無かった。 だから「儒教を信奉すれば出世して金持ちに成ることが出来る」と吹聴して、人の心の奥底に宿る心情に訴え、度重なる困難も何のその、孟子は何ものにも負けない信念を以って布教に邁進したのだった。 韓愈の時代には、天下は仏陀に傾倒し、皇帝まで仏教に帰依し、庶民にまで広がる勢いであった。 孔子の教えは、孟子の時代と同様に細々と存在するのみであった。 こんな時代であるにも拘らず、公然と仏陀に伍そうと勇気を出して代償を払うことも厭わず、韓愈は怯まず幾度も死ぬ思いで、人々に仏舎利を迎えることを諌め、孤軍奮闘、天下の世間一般の習わしに抵抗した。 このようなことを凡人が出来ようか。 王安石は大いに感心して、「正に彼らのような人こそ大衆の欲求に阿ることも無く、異端を排斥するだけものでも無い。 多くの人は正にこの観点を見逃していたのだ」と一人納得する。
 王安石は孟子や韓愈の学識と心情を得る幸運に恵まれることを願い、責めて一日でも名君として志を遂げ、儒を信じることによって生まれる福恩がどんなものかを現世の民に知らしめたいと思ったのだ。
 ここで王安石の当時の人と為りを伝える逸話を詳解する。
 慶暦五年(1045)三月、韓琦は揚州の県知事で、王安石は韓琦の幕僚になった。 《邵氏聞見録》に拠ると: 魏公知事の揚州、王荊公(王安石)は科挙試験に合格して始めて官吏としての役目を得た。 夜明けになる迄本を読むと、うっかり転寝して仕舞い、目を覚ますと日は既に高くなっていた。 
 顔も洗わず急いで役所に行った。 魏公は荊公青年を知事室に呼んで、「其方は一晩中酒を飲んで羽目を外していたな!」と顔を真っ赤にして叱責した。 一日経って冷静になった魏公は荊公をまた呼んだ。 今度は諭す顔に変わって穏やかな口調であった。 「荊公よ、書を排して、自らを棄ててはいけないぞ」。 荊公は応え無いで、小言を聞くだけ聞かされて拝礼して退いた: 韓公は吾がことを知らず。 後で魏公は賢さ(王安石の)を知って、門下録事にしたいと欲するが、荊公は結局断った。 だから荊公の《熙寧日録》では短い文の割には魏公のことが多く、毎日記す: 「韓公は耳の形だけは良い」と茶化して《描虎図》を描いた。 公が亡くなった時、荊公《弔詞》で云う:。 「幕府の少年は今白くなって、悲しみで棺を送る路も無い」。
 この逸話は本当とも嘘ともつかなくて、或いは前段は真で、後段は嘘で、その頃の王安石は寸暇を惜しんで本を読み、何時も徹夜になって仕舞ったことは本当である。 韓琦は顔も洗わず目の縁に隈をつくって出勤してくる青年を見て、この青年が高科に受かることを願うので、「独り者の気楽さで、恐らく酒を飲んで遊んでいるのだろう」と勝手に思い込み、忠告したのは情理に適っていた。 王安石が弁解し無かったのは、彼が「韓琦は日が経てば必ず分かる」と感じた為で、益してや長官が口調も静かに善意で言ったことであり、自分に非が在れば誤れば良く、無いのだから一層努力して、何も強情に言い張る必要があるのか? 王安石は「韓公が私を知っている者にあらず」と言ったことが「このような話は知る由が無い」と言ったことと同じであるとすれば、韓公が人を見る目の無い頗る無能な人であることを意味するのか、あるいは是は邵伯が言うように「暖かい年代の当て推量をする耳」をもつ人を意味するのかもしれない。 然し王安石が韓魏の官署の塀門に戻ってみたとき此処には全く戻りたく無くなったのは、魏公はこの世で大いに賢かったが、王安石は単なる通り一遍の部下であっただけなので、学術の上で荊公を師と仰ぐ筈なぞ思いも撚ら無かったからであった。 この逸話の中から推し量ることが出来ることは、“韓琦は唯暖かい言葉で忠告しただけで、その言葉は全く年の離れた年輩の上司である人の好意から出たもので、王安石が如何してその事を茶化して、数十年も経っているその事を忘れず咎めることがあろうか?”と言うことであろう。 一つは邵氏が「王安石と韓琦の関係」を知っていて、事実を枉げて、殊更「王安石が如何に捻くれて」いて、「ことの善悪を弁えない者だ」と喧伝する為、「どのように偏狭で我侭で、僅かな恨みでも必ず晴らす」ということを世間に印象付ける為だったかもしれない。 このことを蔡襄が詳しく論じているが、今は詳しく話さ無い。 事実から察して議論したなら、王安石は全くこのようでは無かったのだと分かるのだ。
 司馬光《涑水記聞》は更に語っている: 韓魏公は揚州の知事であって、介甫は新しい科挙の最終合格者であり、魏公は彼の学を活かす為に最初判官斤公事の簽書に任命した。 本来この任命は抜擢といわれるものであった。 韓公の本音は彼が古文を使えるからということであって、韓公は下役に対し笑って言う: 「地方府では頗る難しい文を操れる王ではあるが、朝廷に評論・評定する程のことでは無い」。 介甫は自分が軽く扱われたと想って、怨むことに為ったと云うのだ。
 この逸話は王安石が魏公の下に仕えていた時「決して韓琦を恨まない」と言ったことと、離任した後の行動を観ると司馬光のものとは違い、司馬光の説が真実であるとするならば、その理由付けが全く可笑しいと思う。 韓琦は王安石が「頗る難しい文を操れる」と言っているのは、彼の博学を称賛するものであって、決して貶した意味とはとることが出来無いので、王安石が何か責める理由があろうか! 言い換えると、韓琦が王安石の博学を誹るのは「からかっているだけ」なので、王安石は怒る筈が無く、更には、韓琦は決して何の思惑無しに冗談で人をからかうような人でも無いのに、劉(司馬光)が「韓琦が多くの冗談を言ったこと」という解釈が一般的になった後も、劉は「一般的になった解釈」を知っていても態度を変えることが無かったのだ。 益して、このことは王安石の耳に届くことは避け得無いので、司馬光が人伝に聞いただけで創作したこととは、考え難い。 併し司馬が一つの逸話として伝えただけなのに、この物語は一人歩きして広まって仕舞ったのか、多くの人が司馬光の解釈を信じて仕舞っている。 
 併し司馬光は、韓琦が「官吏として学ぶことは多い」と言ったことを見過ごして軽はずみに「した為だ」のでは無かったのか。 司馬光が絶えず思っていたことをこの話を借りて表現したもので、王安石が余りに学問好きであることを言いたかったのであろう。 そして、その事は事実であって皆認めざるを得ず、司馬光に反対する人達ですら王安石が政務の実際的な能力を十分発揮して無いことは認め、「王安石は政治の才能に劣るので昔の仕来りに拘って仕舞い政務が出来て無い」と感じていたことを司馬光は強調したかったのではなかったのか。
今一つ王安石の人と為りを知るために朱熹の安石に対する評論を紹介しよう。 朱熹の「跋韓魏公興歐陽文忠公」に記す: 
 張敬夫は一生を通じ味わって読んだ王荊公の書のことを、「公も忙しく為す事があったかどうかは分から無いが、皆が大変忙しく政務する中でも書を読むことを続けたので、冗談を言うなら『全く病気』のようで、韓魏は心の中で『静かで繊細で大らかな河南であるので突然忙しくなることも無く、だからと言って心がぴりぴりすることも無くは無いけど、荊公の性格がせっかちであるので皆と噛合わず迷惑に思った』と彼の書の中で述べている」と語っている。
 朱熹が言うには、紹興年間での安石は未だに「語気が迅速で激しいことを称賛して、筆勢は低い」と言い、慶元二年になると、「跋韓魏公興歐陽文忠公」では安石のことを「せっかちで人に迷惑をかけ過ぎる」と記し、王安石は忙しい性格で物静かな性質では無いと評論・評定している。
 朱熹が別に記したところに拠ると「然れども安石の人と為り、精悍な性格で偏狭なところもあるが、志は高遠で実際に体験したことから主に学び、その本音は現実に見聞きしたことに徹し、想像で推し量る姿勢を排除する。 ものを考える時は慎重で何度も繰り返し分析し、欲望を抑えて礼に従って事を為した」と荊公の更なる一面を垣間見得せる私見を発表していたのだ。

二、民に接して政治を為す

 王安石は淮南に着任してから、その任期が早満了した後、配属への主なる希望は地方へ着任することであったが、慶暦七年(1047)から、先ず鄞県知事に任じられ、舒州の通判、群牧判官、常州知事と歴任し、江東に措いて堤点刑獄にも任じられた。 その間短い期間京駐在の群牧、司判官を任じられたが、大部分の期間は彼自から求めた地方での勤めであったことは、多くの人にとって全く不可解なことであった。 彼のように才気があって科挙の高科の最終合格者の如き人材は当然閣僚の一員として要職に就くのが筋であるので、早い時期に高い位を得られる筈であったのだ。
 王安石がこのように回り道をしたのは、外の者が嫉んで誹るように決して売名の為などで無く、また、早く朝廷に上がる為に、業とこつこつと急がば回れを決め込んだものでも無い。 その実利的な思いは二つあった: 一つは「官吏として政務を行うならば力がなければならない為で、先ずは実務をしなければならぬ」と考えた為で、二つ目は家計を支える為だ。

 王安石は《上相府書》中でこのことを説明した。 「家の内外に数十人、一日食い繋ぐ田畑も無くて、低い棒禄での食・・・」の窮状であり、一家数十人、彼の一人の俸禄にのみを頼りに扶養するだけであり、是だけでは生活を持続することは出来無かったのだ。 このような情況の下で、彼は「閑は出来るが俸の薄い朝廷の官を担当することは無理なことで、実務の職しか就くことが出来無くて、地方官ならば少し高い棒禄の地位に就ける機会があったのだ」と言いたかったのだろう。
 王安石は富貴に拘らず、我武者羅に高官を目指すことも無く、下から    徐々に時間を掛けて上がって行って、将来自分がやろうと思う政治の能力に磨きを掛けることに専念した。 願い通りの遣り甲斐のある高官に成るのはそれからでも遅く無いと思っていたのだ。 彼は自分の父を範としたので、一地方に幸福を齎し、誠実な政治的業績があった。 その時彼は既に学ぶことにおいて、書記官と官吏の職務の内容には距離があること意識し、書記官は文才に頼るばかりで政治其のものは怠りがちであるとも思っていたのだ。
 王安石が赴任した地方において、彼は大いに政治的業績を残していた。 鄞県の在任時に、彼は十四郷もの広きに亘って実地調査をし、「堤防が切れて低地に水が溢れるのを防ぎ、『旱』が続いても大丈夫なように水利を謀る為に灌漑事業を・・・・・」と民衆に大規模な治水事業をするように訴え、この大事業を成し遂げさせた。 また、更に春季に貧しい戸に食糧を貸し出して、秋季に返済することを確約させ実行した。 このように一方では農の困窮の現実的救済をし、また官の穀物庫の備蓄穀物の新しい相易の制度を実現し、腐敗しきった地方の政務を建て直した。 鄞県で為したことは王安石の「変法」の良い判例となって、「変法」の立案に大いに役立ったのだ。
 常州の知州に在任中、王安石は最初の挫折に遭遇した。 彼は一本の運河を切り開くことを上申したのだか、上司が当惑顔で呟くように言った。 「それは罷り為らん。 州の財政ではそんな大事業は覚束無い。 責めて苦役を課してやらせるしか無い」。
 王安石は上司の躊躇の意味を推し量り、それでも何とかやってみることにした。 然し、王安石はここでは止めておかなければならなかった。 事業を成功させるには期が熟していなければならない。環境が整って無いのに、強行すると何事も失敗する。 これまで成功させて来られたのは、諸々の条件が整っていたのだ。 否、取り掛からなければならない状況にあったからこそ、途中どんな困難にぶち当たろうとも乗り越える気力を皆に起こすことが出来たのである!
 慶暦の七年(1047)、王安石二十七歳に為る哉、鄞県の長官を担当する。 慶暦八年東銭湖を整備して、三百三十三平方キロメートルの耕地の受益を為した。
 彼は人民救済の志を胸に溢れさせ、傑出した知力と遠大な計略を持って、既に前任の初期には、直ちに全県に深く入り込み作物の出来を実際に考察する為の調査をしたのだ。 その年の十一月には、苦労をしながら、寒風に依る寒気や靴に付く氷に依る霜焼けをものともせず、県政府のある町から出発して、至万の賢郷左界(現今邱隘鎮)の「昇鶏山」(現今五郷鎮)では石工が岩を削るのを確認し、「入育王山」、「下霊岩」、「浮石池」(今北仑大矸鎮)の谷から海を眺望させ、海濱に水門を作り、芦江(今柴橋鎮)に至らせ、用水路の水門を決める時には、山を切り開いて川を解氷させ、そして縦二十里の池を築いて、その後天童山に旅し、景徳寺(今天童寺)に宿し、すぐ東呉に着いて、舟を堰下(今東銭湖鎮)に停泊して、五峰(今横渓鎮)を過ぎて、小渓(今折江鎮)に向ったのは夜中のことで、新しい渠と洪水の湾を見て、日中には林村(今横街鎮)にいたが、既に日が西に傾いても視界がはっきりしていたので、桃源、清道の二郷(今高橋鎮)の凡そ東西十四の村落で人民に発破を掛けた。 そして名著《鄞県経旅行記》を書いたのだ。 水利の要について述べ、治水の計画の立案を制定する為の上書が、すぐさま二浙江を中継して送られた。 先ずは東銭湖を修繕して、十数万の出稼ぎ農民を組織し率いて、草や根株を一掃して、湖界を立て、堤防を起し、放水の水叩きを設け、七つの堰と九つの貯水を整備して、湖水の出を制限して、激流の入水を防ぎ(普段は小さな河川が大きな激流と成って東呉の五郷鎮に至る時の治水の計画を立てることを制定する)、湖の周囲地区の鄞県の鎮海の七つの郷の農民の水害・干害の苦しみを取り除いたのだ。
 この時から、「天変を恐れること無く」、「三県(呉、鎮、奉)の七郷が潤い」、「大暑で非常な日照りでも、兵は不作の年と心配し無い」。 東方の田は早速連年豊作を獲得して、民衆は誰もが誉め称えたのだ。
 以上の鄞県の治水事業の時は、協力したのは農民のみで無く、富豪と呼ばれる商人も財を出して協力した。 農民にとっては、役所から何某かの賃金を貰って労力を提供するので、人手を捕られて農作業が出来無くても、ぎりぎり生きていくことは出来たし、何といっても毎年のように襲う水害や、餓死者まで出す旱魃の被害を無くす為には多少の犠牲は仕方が無いと思えたし、今日が何とか生きられるなら明日の為に多少の犠牲は厭わなかったのだ。
 また、富豪にとっても農民が安定した生産力を持たなければ自分達の利益も安定し無いどころか、農業生産力は自分たちの富の髙を決める最大の源泉でもあったのだ。 役人共は、民衆全てが率先して協力するので、賃金の支払に関する雑務が増えただけで、この事業に因って特別仕事が忙しくはならなかったし、生産力が安定すれば役人の実入りも良くなるので多少執務が繁雑になってもやる価値のある事業であると観たのだ。 詰り、この治水事業は貧農から富豪、そして役人の誰にとってもやる価値が見出せる事業であったからこそ、成功したと言える。 それに、鄞県は通年何某かの災害に見舞われていたので、富貧を問わず民間組織の協力関係が出来ていたのが、皮肉にも、何よりの副因であったのだろう。 詰り、ここでの事業が成功したのは、王安石の力と言うよりも、既に成功の下地は出来ており、王安石は、弾みをつける為に背中を押しただけとも観ることが出来る。
 さて、今回の運河の事業であるが、確かに運河が出来、物流が盛んになれば誰にとっても良いことに違い無いが、民衆同士は利益の関係も意見が入り乱れたため、力を尽くすことに同意せず、天も味方せず、連日長雨になり、結局中途で止めることになった。 ある者なぞは「荊公は功名心で事業を始めた」と咎めることで足を引っ張り、「始めから中止すべきであった」と追い討ちをかけた。 実はこの失敗は王安石の事業計画そのものに問題があるのものでは全く無かったが、上下共支持が得られることが無く、力の不足であり、間違い無く当初から成功する望みが無かったのである。 詰り、環境が整って無いのを分からず無理に事業を進めたことに王安石への責めがあるのだ。 王安石は自分の失敗で人力・財力を無駄にして仕舞ったことを悔やんだが、然し彼は「成果を上げられる」と思っていたことに対して決して間違っていたと思って無かった。 お偉方が「故意に事業が失敗するようにもって行った」ことに対しては、「目先の安逸を貪って責任逃れをして」と納得出来る事では無かった。 常州の運河事業の失敗は、実は既に王安石に一つの教訓を与えていた。 喩え正しいとしても、皆の支持が得られることが無いならば、良い事でも悪い事に成って仕舞うかもしれないのだ。 然し、彼は決してこの教訓を自分の身に着けることは無かった。
 王安石は長江下流地域で刑獄に在任中、江南東路の茶葉の専売制度を排除することを提案して、自由な流通を主張し、政府は徴税するようにした。 結果、茶を作る農家と消費者総ての者に利益を得させ、この為に政府の得る税金も独占が獲得する収入に頼っていた時期を上回って、三方が利益を得たと言えて、自由な流通の優位を証明したことで政府の独占に勝ったのだ。 このことは、後の「市易法」の原点とも言える政策であった。 形式的には民衆が輸納で蒙っている負担の不均衡を是正する目的であったが、実質的には物価の決定権を大商人らの手から政府に取り戻し、物資の流通機構を改めて、生産性の向上や財政の再建を謀る目的があったのだ。 統制経済による社会政策を通して、農民の保護と国家の財政再建を狙った政策であった。 渕源は「周礼泉府の精神(漢の平準法)」に基づいていると云った。
 地方で任ずる十数年間、王安石は経験を蓄積して、能力を高めただけでは無くて、更に多くの見聞を広めていたので、中央政権は彼の為に条件を用意した。
 この時に、王安石は儒家の手法で政治を相手にするだけで無くて、古からある道すら容認して政治に使い、その上もっと深い認識の世界に触れる為に、仏教にも多大な傾倒を示した。
 鄞県は東南の海邉に位置して、天台が近くに在って、古刹(古い寺)は多く、台禅の畢会と于此の諸祖先などの高僧がどっと集まっていたので、王安石がここで宗風の習いを慰撫して、法雨を入浴して、収穫が多かったのだ。 王安石《鄞県経旅行記》はこのことを簡明に記載している: 慶暦の七年十一月の丁丑、余は県を出発し、慈福院に宿を取り、近郷近在から万に至る民衆を雇い通水路の浚渫に使用した。 戊寅、鶏山に上がって、石工が岩を砕くのを覗き観た後、雨で東に行け無かったので、仕方無く、育王山に入って、広利寺に宿を借りた。 辛巳、浮石菻の谷から海に望む通水路の堰を海濱に設けようと、霊岩を下って、霊岩の旗教院に宿す。 癸未、芦江に至り、通水路の吐出口を決める時に、瑞岩の開善院に入って、すぐ泊まることが出来た。 甲申、天童山に旅し、景徳寺に泊まった。
質明では、長老の瑞新は玲龍岩を眺めようと岩の上に昇ったので、彼はこの一事で久しく鬚猿と吟じられることに為って仕舞ったのだ。 その後、寺の西堂で食を取り、すぐにも東呉に至ろうと、西方へと船の舵を操った… …。
 見たところ王安石の心の中では、働く事と遊ぶ事、儒学の事と仏行が互いに結び付いていたので、彼が朝廷に入りたく無いと考えたのは当然の事だったのだろう。 一方の面では、彼は状況を観て、政務に発破を掛け、他方の面では、継ぎから継ぎへと山寺に泊まり、僧と歓談し続けていたのだ。 これらの日々、彼と天童山景徳寺の長老の瑞新とは、親しく付き合いを深め、関係は密接になったので、一段の佳話を残したのだ。
 瑞新は雲門宗に属して、福昌重善禅師の弟子であり、《五灯会元》十五巻には伝承がある。
 「瑞新は福建の懐璉の出身であり、彼と付き合い、今は総て仏事をも忘れ、彼は所謂吾が賢人でもあり遊人でもあるのだ。 この二人の者達(王安石自身と瑞新)は、世の為に役立とうと学を修めた同士であり、また共に互いの才を認める聡明な知恵者であるのに、そのような会得者同士の間で、如何して時が経つのも忘れ遊歴につき語っているのは可笑しいことである」と「瑞新との間柄」を顕していたのだが、嘗て、懐璉が瑞新に淳化院の主事僧として通州に留まるよう画策したことを瑞新が聞覚え、先ず始めに瑞新がその事を引受け、「御記し」を頼んだのだが、王安石が応じ無かったので、再び懐璉が懇願に訪れると、王安石は二人の長老への情実を無碍にすることが出来ず、結局は渋々承諾して署名したのだ。 《経藏記》にはそれが何時のことかを記して無いのだが、然し、王安石が鄞県知事に成った以前のことであることは粗確実であろうが、通州と漣水軍が同じく淮南路に属していた時期と思われるので、彼が淮南籤判の時かもしれない。 王安石は、瑞新には「聡明で七つ智の才」があると思っていて、更には彼が世の浄化をも願っていたので、彼との「遊歴」を可笑しく感じたのだ。
王安石には《答瑞新答道士十遠》がある:
 遠水の長い青玉、遠山の空の果ては青色だ。 山水に人がいて、私の十遠の章を郵送する。
 我時に高楼にあって、彷徨って八つの不足を見る。 更にもう一度意を遠くにし、千年は互いに忘れ無い。
 瑞新の《十遠》が王安石に送られ、王安石は答える。 瑞新の元々の詩は無くなって仕舞ったが、蓋(おそらく)其の意は遠く隔たり遠く生きて唯思い慕うだけ。 一言「千年が互いに忘れ無い」。
 二人の友情の深さを表現して、気が合い一致調和している。
曾鞏《金山寺水陸堂記》、道は慶暦八年潤州の金山寺が炎上したので、劣年(皇祐元年(1049))瑞新は寺の住職に上ると直ぐ御布施金百万を募集して、名刹を修築する。 曾鞏は「修築した人物は、余裕綽綽と落ち着き払って、相手は逸材で、然も人を惹きつける者であると見受けられ、由って容易にこんな偉業が出来るのだ」と言い切ったのだが、曾鞏と瑞新は旧知の仲で、若しかすると王安石が二人を巡り合わせたのかも知れ無い。 曾鞏は儒道が郁塞を投げるに任せ千百年天下に奮起する人材も得無いと憤嘆して、然も仏教を盛り立てた瑞新のような人材を輩出し無いので、「学者の獲得も無い儘、天下の逸材を見逃した」と言い切り、儒道が人材を引きつけることが出来無いことをほったらかしにしていることを我慢出来無かったのだ。 これは瑞新が再度、天童山景徳寺から潤州金山寺に移った時のことであり、その時は凡そ王安石が離任する時と一致していた。
王安石が後に著した《書瑞新道人壁》がある:
 瑞新道人は天童景徳に始まって、鄞県で布教し、人々は其の才能を愛で、遊歴して数える。 後、新しい年から主にこの山に四年、淮南から蘇州積水を廻り、それからは遊歴に行くことも無く、新たな年の某月のある日に逝く。 人々は亡くなったことが堪え切れず、みんな悲しみにくれ、悼まない者無く、深い悲しみを人々に与えた。 その気質は好奇に満ち、自ら外に置くことを好み、人に悼み(いたみ)を惜しむこと無し。   
彼は公卿大夫を操り民の勢いを治め、これ恵沢により出でる業で、其生は歓び、其死は悲しく、それ良くも悪くも!
 瑞新と皇祐元年金山寺に来て、皇祐二年(1050)頃正式に住職の座に就き、寺を修築した。 その後、主にこの山に来て四年目、詰り皇祐五年(1053)、王安石が舒州通判に在任中、蘇州に来て公務の仕事を終えて、彼にお目に掛かろうと鎮江金山寺まで来ると、思いも掛けず彼は既に其の時死亡していた。 王安石との付き合いは日が経つにつれて深くなっていていたので、重いも掛け無かった出来事に悲しみも一頻りであった。 瑞新のような逸材は、自分のことを置いて、人の災を祓い福とし、決して智を誇ら無いので、皆がこの死を悼んだのだが、あのような偉業を、生殺与奪の権力を握っているとはいえ政治を取り仕切る卿大と雖も一事といえやり遂げることが出来る者が如何してあろうか? 王安石と曾鞏は「瑞新のような技量の逸材は二度と世に出る事は無い」と哀惜を抑えられず、儒の門徒も逸材を亡くしたことを歎いた。 王安石のことを、心の奥襞で偉大な聖人と門弟として互いに自慢する公卿や大夫達を、徒に「仏の門徒に及ばない」と明言する事は適当で無い。 曾鞏も恐らくも同様な考えであったのだが、ただ彼は単に承認する素振りは見せたが決して真意では無かったのだ。
 瑞新は王安石、曾鞏の二人から絶賛されて、特に、本来なら反対する立場に在りながら仏徒である曾鞏が称賛をしたことは、逆に曾鞏の才識の気骨を明らかにしたことになる。
王安石は鄞県在任の三年間閑を作って四方を遊歴し、天台山と新昌大仏寺にも行った。
 大仏寺は現在浙江省新昌県県政府所在の町の南西の石城の山麓に位置して、東晋年代年号永和の初め、高僧の曇光が錫山に居住することに始まって、山開きをして寺を建てて、号を隠岳とした。同時に、近くには高僧法蘭が建てた元化寺があって、神々しく寺が林立してその道を際だたしたのだ。梁天が差配して、三寺を合併させ、石城寺とした。 五代の時に瑞像寺と改名して、宋の初期には宝相寺と名を賜り、清代になって大仏寺と改名した。 南北朝の時代、斉と梁との両時代の間に僧護、僧淑、僧祐が次々と彫って造った寺の中の巨大な弥勒仏の石の彫刻像は尊拝に値し、其の御姿は雄壮偉大で、御尊体は厳かで重々しい。 奥深い谷の幽玄な峰、年代を思わせる古僧の木像、人は時の経つのも忘れさせられるほど敬服する心になる。 「宝相寺それとも智者の大家のその度が消える地、名山の聖人の遺跡、神の為せる業とする人の書、目に触れるもの全て見る」、王安石はここで遊びに耽って帰るのを忘れ、立ち去ること忍びなかった。
 鄞県の三年間は王安石に非常に素晴らしい印象を残したが、一方、彼の儒家の立場からの仏教に対しての敵対心を和らげたどころか、彼は心から儒のもつ心地よく酔う美酒のように仏を捉えて、すっかり敵意が無くなったが、曾鞏などの人と付き合うときに友らの誹りを受けぬよう、仕方無く異端の姿を取除き切れない様子をした。
 皇祐三年と至和元年(1054)との間、王安石、舒州通判を任じた。 舒州は現在の安徽で、禅宗の珠玉の大家の僧三祖が行を為された地と見なされ、禅宗の聖地の一つである。 珠玉の大家は二祖慧可が後の北周から隋の朝廷に至る時代に、概ね舒州の安徽に在り、人に知られる山に隠遁し、更に北周武帝が仏法を排斥した時、太湖県(今安徽の岳西の県)の司空山に行き来して、居所が定まって無いのが災いし、隠者のようにみられたのだ。 隋に入って後に開法の才を(直後に禅宗四祖と為る)弟子の道信に授けた。 三祖は晩年に嘗て居た広東の羅浮山に遊歴して、隋の大業二年(606)には安徽の名の知れた山に戻ると、一株の大きい木に溶け込むようにその木の下に立ち、間も無く其の継亡くなったのだが、その屍が余りに木と同化して見えて、丸で隠者の姿此処に見つける。 三祖はこの書を重んじ無かったが、《信心銘》は後の世まで伝わる。 王安石に《珠公信心銘》がある:
 彼に満たす流れあり、載せては浮き載せては沈む。 為に救われ、一壷の大金。 法は水に譬えて、貧しさは益々深い。 珠公の所に伝わって、初心を見るようだ。
 流れる水は利も害も何の気も無いが、舟を載せること出来て、舟をひっくり返すことも出来るのだ。 然し、世を救う度(度合)に人に効く法水は異なっていて、一壷の大金、この上無く貴重だ。 珠玉の大家の非常に良く効く法水のようで、底を見せずに且つ深く、際限が無くて、尽き果てること無し。 所謂、「初心を見るようだ」、詰り、一寸考える度に考えが廻るので、初め願い通り「悟り」を待って、初めて、「生きとし生けるもの総てに平等に対応することが出来るよう伝え悟ること」に心を尽くし学んだのだ。
 王安石はこの短い文の中で、彼の三祖に対する崇敬および仏法(の力)に対する理解を表現して、特に三代に亘って代々伝わった『法が海のように奥深いこと』を伝える一方、孔子の有名な「仰ぐは一層高く、掘り下げることは一層堅い」の典言を比較することで、「気付かれること無しに三祖と孔子を比べるよう」と王安石は心に秘めた考えを明らにしている。
 王安石は舒州で閑を作っては山水に遊歴し、多くの人を感動させる詩を残したが、舒州の名所と三祖とに関連した詩の中に《題舒州山谷寺石牛同泉穴》がある:
  水は涼々と北に出で、傍らを山が不規則に囲むのだ。
  貧しい源を欲し得られずに、失望し空しく帰りて眺める。
 この詩の作者は(注)を付けて: 「皇祐三年の九月十六日、州の太湖から、寧県を抱く谷間の乾元寺を過ぎて、宿に泊まる。 道士が生気を与えたので、弟の安国は松明を持って石牛洞に泳ぎに行き、李を見ると習学の書に熱中し、泉の久しきを推し量る。 明日また泳ぎ、後に習学を刻む」。
 この首詩の最初の句の言葉の「水」、すずしい様子、清らかに響く声;  「北出」、移動の態。 後に続く文は山を言って、退廃的で、雄壮で美しい容貌、「そばで囲む」、くねくねしている形。 真に迫って、静を含ませて動く。
 <前の句>は風景を描写して、<対聯の下の句>は愛情を述べる。 水の流れは限り無いが、その水源は探すのも難しく、水量も僅かであり、あるいは前詩は三祖に代々伝わった家法の水の意と同じだと言って、宝山に至り暇に戻って、法雨浴びても未だ目覚めて無いので、自然の憂鬱は比類が無い。
 この語調は閑淡としており、余韻は深く長く、古人の褒めたのは楚辞(漢の劉向)が編纂したものの気風があり、甚だしきに至ってはそれを楚辞の後続一種の著作の中に編入する。 朱熹はそれ既に入神の境地まで達した王安石の言語の技量を「楚の語り口をその継学んだ者で無く、また現代人の語り口の者でも無い者が、尚このように話すのだ」と表明して、楚の言語で無いが楚風であり、現代の言語であっても現代語で無く、異種の異なる二つが溶け合って、二つの言語が揉まれて一体に成ったことで風格すら感じさせるのだとした。 然し、朱熹は只その詩の言葉のことだけを言って、未だその意味を明かにして無い。 黄庭堅は元豊三年以来これを真似、六文字綴る辧体を使った: 「物を与える気も無いのに命じ、祖師は衣服を与えたことを思い出すことがある。 白い雲は鳥が高く飛んで疲れているように疎らで横に広がる」。 黄庭堅が三祖を選び出して衣服を与えたことの記(《信心銘》)があり、荊公が受けるべき器が無いのを残念に思ったことも記されており、それがその詩の主旨であり、ただ雲は疎らで横に広がり、鳥が元気無く蠢き、恰も疲れているように飛んで、言葉は精巧だが、態とらしさを為す跡があって、荊公には到底及ばず、「楚の言葉とは似ても似付かず、また今様の言葉でも無く」限界があった。
 舒州三年、王安石は仏教に対して更に深い理解があって、甚だしきに至っては仏教に対して一定の感情を生んでいた。 ただ彼は公然とこの感銘を暫く現わしたく無かったのだ。

「三、全部道継を被る」に続く

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