魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第四巻 五、立法を進める~六、遺恨の長い年月】

2017-04-09 11:26:19 | 魂魄の宰相の連載

※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。

五、立法を進める

 王安石は風習が新法施行後も長い間変わることが無かったので、先ずは風習を変えなければなら無いと明確に公言し、風習が変わることが無ければ新学も広めることが出来無いので、制度や法令の推進を通じてのみ漸く社会の習慣を変えることが出来ると考えていたのだ。 詰り、法律と風習とが互いに矛盾するものであったので、風習を変えるような立法を目論んだが、逆に、風習を変えなければ立法も出来ず、両方を同時に前進させることで漸く問題を解決することが出来るのであり、彼は実践の中でも最も尽力を尽したのはこのことであった。 

 立法を進める面で、彼は大っぴらに法家の概念の長所を採り入れ、然も儒家の中にも法治の伝統を重視する傾向があったことも彼の立法に影響を与えたのだ。 人治と法治は今日に措いても論争に上がる問題だ。 儒家は法治に反対し、人治を尊重していたと思われ勝ちだが、実はこれが総てであったとは考えられて無いのだ。 事実として初期の儒家は法治を尊重して単に人治だけを重んじた訳では無かったのだ。 子路が地方官に在った時に、修渠の民衆が非常に苦しんでいるのを観て、自分のお金で軍隊を造り、人民に歓迎されたが、孔子がその事を耳にすると、早速子路の軍隊が人民に歓迎さているのを戒める様に弟子を派遣したのだが、子路は理解出来ずにいた為、孔子はこのようなことは個人の恩の押し売りとなり、民にとっての恵みにはならず合法的でも無いとし、若し、庶民の困苦を感じたならば、君主に伺いを立てるべきで、公金で救済しなければ個人が人への恵みで恩を売ることになって仕舞い、一方では君主の懐疑を受け易く自分に災いを齎し兼ねず、一方では亦長期に且つ遍く施行することが出来ることは難しく、災難は絶え間無く起きるものなので庶民とっては束の間の利益で終って仕舞うのだと彼に諭した。 

 

 『救済は寄付で無く税ですべきである』

 

 この逸話は、この時代にあって既に孔子が個人の行為で公共の機能に取って代わることに反対することを明確に表現したもので、このことは、孔子の酷薄の証明とはなら無い。 山東の国に或法令が在り、本国人が外国に奴隷として売られるのを国費から出資して請け出すものがあったが、然し、統治者が下層部の人民の生死を余り気に止め無かったので、この法令は決して真摯に実行されることは無かったのだ。 子貢は衞国の人だが、彼は非常に先生を尊重していたので、子に関係のある総てを愛して、外国に奴隷として売られる山東の国民を非常に同情して、自分で出資して多くの魯国人を救い出した。 孔子は無論弟子の善意を分ってはいたのだが、彼はこのようにすることに明確に反対し、若し、このようなことを認めて仕舞うなら、この法令が完全に廃止されて仕舞い兼ね無く、それでは魯国の政府自身がこれから先お金を出して人を買い戻すことを放棄して、外国に奴隷として連れて行かれる山東の国民の運命の為には更に悲惨な結果を齎し、善意も仇に為って仕舞うことがあるのだと子貢に諭したのだ。 

 孔子は政治に従事する期間は長くは無かったが、間違い無く政治家であり、法令の制度が個人の行為に比べて重要な存在であることが分っていて、個人の一時の善行は狭い意味では良いことと為るが、然し其の為に法制を破壊して仕舞ったならば、最悪の状態を作り出す結果となら無いとは言えず、大きく観れば悪事とも見なされ兼ねず、そこで国治は必ず法治で為されなければ為らず、人治は必ず法治に従って、必ず法治で利がなければならない。 

 孔子はこのような人物で、孟子も同様であった。 子産は鄭国を批評して、自分の乗る輿(船)を使って斎人が「茲水を渡るのに役立たせたが、これは元来私心の無い善い一事と見なされるが、孟子はこれに批判をして、これは「恵みは政治の知らぬところである」という考えに立って、子産は確かに好人物であることを認めた上で、人民に対して恩恵があったとしても、政府の機能に取って代わって個人の行為を行って仕舞ったのであり、政治家でも無い者が行う行為では無いということは明確であり、一つは多くの者が私恩を嫌がり、二つ目は其の恩恵は一時しか受けることが出来無いからである。 子産が公金で人民を助けようと「茲水上に何本かの橋を架けることが出来るのならば、人を波風の被害から遠ざけ、自分の船で人を渡らせることに遥かに勝るものに成るではないのか?」ということである。

 王安石は孔孟の法治を重視する思想を採り入れて、国を治めるには必ず善法を立てなければ為らぬとし、先ず行政法を造らなければならないという理念を、《周公》中の一文で著した。 彼は真っ先に荀子が記載したところの周公に関する一節に対して批判を行っており、荀子は「周公が賢者(学者)を礼遇すると語って、周公が付き合うのは一等の大賢は十人、二等の賢士は三十人、三等は百人、四等は千人と自ら述べた」としたが、王安石はこれが荀子の誤解だと考え、「本当は周公が私人である士と付き合うことは無かったのだ」とした。 彼は指摘した: 「男子は天下で政治をするが為に聖人と為り、初め天下で為すすべが無くとも、最終的には法で誠実に修めることが出来、天下を治めることが出来る様に為るのだ。 だから三世代の制を守り、郷党で学校に行き、順序正しく学び、国に学び舎を縦建て、士と雖未だ用いられることが無い者に其道を尽くして士の心構えを教えて賢士を育成し、尊敬に値する人物と為るようにするのだ。 これ即ち周公が待ち焦がれる士への道である」と記した。 聖人は政治に対し、為るが侭に任せ何もせずに放任しては為ら無いのであり、これが為に立法で修めて初めて、天下は成り立つのであって、故に譬え優れた者であっても労無くして何事も成らず、何事も為すことが出来無いならば統治も侭なら無いのだ。  

 『三世代の制』とは、特に学校を重視したので籌(学校)を建て、三等級の学校から始まって、順序を踏んで学問を身につかせ、然も且つ学問で優れたものを育成して賢者を育み、学校で法令を講習して、法令の重要なところを際立たせ、賢士は高く尊重され手厚い待遇を受け、譬え未だ起用されてい無い賢士だとしても同様に尊重され育成されることを援助して極力高い社会的地位を保証してあげ、衣食に不自由することなど有得無かったのだ。 これが周公の待士への道であった。 

 要するに、王安石は個人の力のみで力を身に着けさせることに反対であったので、政府の行為で学識と教養の士が盛んに成れるような立法を主張した本音は、本当は小心者の狡い奸民であった戦国の賢士が政府へ渡りをつける為に卿と結んで利益を図る輩であり、個人的交際の力量のみで乱世を闊歩したと似非賢士と蔑んでいたからだったのだ。 彼は更に以前に引用した子産に対する孟子の批判を批評して、次の様に指摘している: 「君子の上に立つのは政治で、天下に善い法が立つならば、天下を治めることが出来るのだ; 善い法を一国で立てれば、一国は治まる。 若し、皆が喜ぶ法を立てることが出来無いならば、国が滅びるのは近い。 周公は政治を駆使し、天下で学校の法を制定しなければならないと考えたのだ; 学校を設立し無かったならば、力量が充分ある天下の士を待望しても徒に身を粉にして労することに成り、為す術無く国の勢いは無く為って仕舞っただろう」。 国を治める政治の為に最も重要なのは立法で、然も善法を立てることで、夫々の国で善法を立てられれば、それらの国を隆盛させることが出来、即ち天下に措いても天下を繁栄させることが出来るのだ。 善く統治されれば皆が喜ぶような天下を達成することが出来ようが、善法を立てることが出来無ければ、個人の行為に依ってしか道は無く、恐らく毎日疲労困憊する程一所懸命努力しても目的を達成することはあり得ないのだ。 

 王安石は立法に依って教育事業を興すことが、士を養い、士を育成するのに最善の方法だと考えていたのであり、この考えには極めて深い意義が在り、現在に措いても重要な指導的意義がある。 学校には人材が集中し、人材を養うことに重き役割があるので、人材の育成にとって最も善い場であり、最も優れた人材は学校に集中させ、その待遇を高めれば、学校が夫々の業界、夫々の部門の人材の宝庫と成り得るのであって、更に道徳的な学問の象徴にも成って、社会経済の推進力を担い、これは三世代の盛んな時代の制度でもあり、今日に於いても強力に推進するべき制度であるべきで、況して今日は暮らしや経済も情報化の時代にある為、人材の重要性は一層突出したものに成っているのだ。 

 王安石は立法に依って国家が必ず善く治まることが出来て、総てが完備出来ると読んでいたので、立法による政策展開が目立っていた。 立法権が君主にあり、君主の最も主要な職責は立法であり、これもその時代の必然的な選択で、一旦法律制定の仕事を完成したら、些事については必ずしも関与する必要は無く、何もせずとも天下を治めることが出来ると彼は考えていたのだ。 《周礼·春官·内史》の注釈の中で、彼は指摘している: 「夫を上下に分けてることの理は、法に在る; 太宰が王に群臣の者を制御出来る八つの権力を持たせ、権力者である上の者に法を守る道筋を着け、法に遵う様にしたのだ。 内史では、下の者が謹んで法を守るように王に八靆の法を掌握させ、人々が法に従わざるを得無いようにしたことを告げた。 所謂、八靆の法は、権力者の法そのものであった; 所謂王の八靆の法は、王自ら提出する法である」。 上下に分けることは、主に権力を掌握する道筋を立て、立法に責任を負い、謹んで法令を守り、その実行に責任を負うことであろうと思われる。 太宰が八つの権力を掌握するという事は、理に依って王を代表として群臣の制御を謀るもので、主管はするが法の執行には関与し無いということで、更に重要な責務は立法に協力することであったのだ。 所謂八靆の法は、法令を掌握する者を只内史で表明しているだけである; 所謂王の八靆の法は、八靆の法が王自身が制定すると同様なものとみられるが、内史では法を取仕切り、法の解釈するだけの役割を持つのみとし、立法権は無いとする。 

 立法権を君主の専権とすると、政治が何でも手を出すことを避けることが出来、政令が統一されることを保証出来るのだ。 立法は最重要事項であり、君主は誠心誠意立法に当らざるを得ないことで、立法の問題は解決され、その他の事も上手く実行される様に為った。 そこで王安石は極力君臣の職責を明らかにしなくてはならないと力説し、上にあっては君主に立法権があり、下に措いては群臣が法律を執行して、君道は為るが儘にされ、臣道は在るべき姿に為り、互いの持分を犯さず、若し臣下に立法権を譲るならば、権力を人に渡して自分の身に災いを招き、若し君主が何事によらず必ず自分でやるならば、立法をし、法律を執行して管理しなければならず、結局何も上手く管理出来無く為って仕舞うのだ。 宰相は比較的特殊な地位にあって、やることは満載で、上に君主の立法に協力する責任があって、更に下には百官吏を統率して法律の執行を行のだ。 

 王安石は将に立法から開放されて法の執行を廻り、こうして上から下まで夫々が職責を尽し、下が法律を執行する事は頗る価値があることで在ると考えたのだ。 彼は神宗と統治論を交わした時の様子を語っている: 「王侯の職責について言いたいことがあります。 若し職責が不明ならば、途方にくれて全く困って仕舞い、統治に至る由も無い。 若し職責が明示されているなら、君子も小人も夫々が其の職を全うし、放っておいても天下を治めることが出来、次から次へと難問を抱え込むということも有りません」。 彼は王侯(実際には君相、王君主、公の三人の公)の職が座して空論に耽るばかりであるので、立法の度に職責を明かにし、夫々が職責を尽くすように統治に関するもの以外で上下夫々に適う職務を与えるようにしたいと思っていた; 思いに反して、若し立法し無いならば、職責は不明の儘となり、骨を折っても無駄となる。 王安石はこのように何度も神宗に天下を治める思想が上手く働いてい無いことを具申したものの、神宗が一々些事に拘る人であったので、彼に細務に拘らず根幹の問題を理解する様に促したにも拘らず、胡麻も西瓜も確り捉えられず、王安石が退職した後には、神宗のこの欠点は更に際立って仕舞ったのだ。 

 王安石は法治とは、立法を重視することに力点を置くものだとし、法律を厳格に執行することに対しても同様な関心を持った。 彼は神宗への上奏文の中で指摘している: 「臣は官吏が罪を審議する時には、人情と理の軽重、詔を考慮に入れずに惟法律のみを守る様にしなければない。 若し官吏が断罪する時に常に法を無視するならば、法の権威は無く為り、人は如何したら良いか分から無く為って仕舞うのだ」。 彼は、官吏が厳格に法律を適用し判決を下すべきで、情状を考慮して罪の軽重を少し柔軟に捉える以外、法律の条文の決まりを軽くみて条文を無視し思う儘に断罪しては為らず、そうでなければ権利も無く為り法律を越えることに為って仕舞う。 若し官吏が法律に随って断罪し無いならば、下の人は周章狼狽することに為って、どのように事を進めれば良いか分から無く為って仕舞うのだ。 

 王安石は何故法律に随って訴訟事件を裁く問題を提示したかというと、当時法律執行人が屡過剰な随意性を以って事件を審理し、甚だしきに至っては個人の好き嫌いで事を進め、お上の意向が法律に取って代えて仕舞っていたからだ。 一層深刻なのは、法律執行者は屡法律に取って代えて封建道徳を持出し、甚だしきに至っては《春秋》を範として《春秋》の経義に依って疑問を解いて事件を裁き獄に治めると居直ったので、こんなことは全く封建道徳の偏見を持出し刑法に取って代えて仕舞うに等しく、こんなことでは明らかに公平な裁定は行われるべくも無いのだ。 

 煕寧元年(1068)王安石は嘗ての有名な事件の為に入朝を思し召された後、司馬光等の輩と論争を激化させたのだ。 当時名前を阿雲という登州の女がその夫の容貌が醜く嫌悪した為、夜、刀で斬り付けて仕舞った後で阿雲は自首したが、死に至ら無かったものの深く傷つけた事件の検証に関る論争であった。 この実話には色々な観方が交叉していて、阿雲は既婚で殺傷したとも言い、未だ結婚はして無かったと言う者も居たりしたが、何れにせよ婚姻が齎した悲劇として阿雲は人を傷つけた者だったが、実は被害者でもあり、封建的な婚姻の制度の犠牲者だったのだ。 

 《宋史・許遵伝》にこの事件に関して比較的に詳しい論説がある。 阿雲は当時醜い夫に嫁ぎたく無かった為に婚礼まではして無く婚約していただけで、田舎では眠りに着く時間に刀で斬り付け、その婿は斬られて全身十箇所余り傷を負ったが、運良く死には至ら無かった。 事件の担当官は阿雲が傷を負わせたと疑って取調べの任に着いたが、取り調べを始めた頃は、阿雲は罪を黙秘していたが、担当官が刑を重くすると責め打つので、阿雲は真相を言うしか無かったのだ。 当時の州知事の許遵に依れば阿雲には結納の日の取決めがあったが、未だ母親の喪が開けずにいたので、その婚約は合法的では無く、夫を殺そうとしたことには為らず、単なる普通の殺傷であったのだ。 朝廷における裁定では、官吏は謀殺しようとして傷つけたと判断し、絞首刑を以って処罰すると主張した。 阿雲が尋問されて罪を認めたと思ったのだが、結納は無効であり、況してや自首して罪の吟味に応じたのに、厳重な処罰は適当で無いと許遵はこの裁定に不服を呈した。 刑部のやり方は、無茶苦茶であったのだ。 刑部が罪を協議した結果が不公平だと思われたので、程無く大理寺で判定することが許され、この事件は再審されることに為ったが、其の結果、阿雲は自首したので減刑すべきで、自首して罪を減少し無ければ、今後は自発的に罪を認める人は出無いだろうし、同じ様な事件で罪が軽くされた例も疑われる。 朝廷はそこで司馬光、王安石に再びこの事件を協議するように命じて、司馬光は依然として謀殺に該当し死に当る断罪にすると意気込んでいたが、王安石は許遵に賛成したのだ。 

 司馬光などの士大夫は大部分が男尊女卑で、婚姻は引受けられていると言うことに賛成するので、彼らは阿雲に対する思いは妻が夫を殺すなどと思って全く如何なる同情心の欠片も感じないと痛恨して、罪は一等を増して、断固として阿雲の死罪を判定する様に断罪した。 王安石は阿雲に大変同情して、阿雲には謀殺の意志が有ったが、然し被害者は死に至る迄の傷は負って無く、その上阿雲には自首する行為があって、刑罰を軽減して下すべきだと思った。 王安石は刑法を竪に司馬光などに対して力強く反駁を行って、この事件を殺人未遂と傷害の罪で決着を付けようとし、其の上自首したので二等を減刑し、この判断を免れようとするのは余りにも融通が効か無いとした。 神宗は王安石が言わんとする事は決まりを守れということで、更に犯罪者の為に生まれ変わる道をつけてやり、其は義に便宜を計り、法律条項に決められた通り、本人の自首があった者総てがそうあった様に、二等減刑して断罪した。 

 王安石の主張は法律に基づき処理して、断固として妄りに人情で法令を変えることに反対して、この面では彼は時には非常に頑固で捻くれ者に見える。 聞くところによるとこのような訴訟には良く似た実例があって、少年が一匹の善く闘う鶉を手に入れたのだが、彼の仲間は何が何でも其の鶉が欲しく、二人の友情が深いことを頼みにして、強引に鶉を奪ったので、門前まで少年が追いかけて一気に其の友達を殺して仕舞ったというものだった。 開封府は少年の死罪を判定したが、王安石はこれに対して不服を申し立て、公然と奪い取ろうが密かに盗み取ろうが全て強盗で断罪するのが法律の拠るところとした。 友達は飽く迄強引に奪ったのであるが、これは強盗に当り、少年は盗人を捕まえようと追って殺して仕舞ったのであり、死んだことばかり問題にするべきでは無いとした。 この事件は上部まで至り、刑を審理して、大理寺が取り調べて役所の面子を賭けて判決を是とし、安石を非難したが、王安石は詔で謝罪したが、彼は決して過ちを認め無かった。 

 この逸話の真偽は王安石の政敵から出たものであり判別し難く、王安石が如何に捻くれ者で意地っ張りであったかとあったかと攻撃する為の作り事であったかも知れない。 譬え事実だとしても、王安石が厳格に法律に法って、法律の条文を枉げること無く頑固なまでに忠実であったことを表明している。 少年が些細な事で人を殺すのは勿論間違いであったが、然し相手が公然と略奪したのは間違い無かったので、単なる盗みとして少年の処罰を定めるのは決して許されない筈だった。 当時の刑法に拠れば、盗人を捕まえるのは間違い無く無罪だ。 当時若しも弁護士の弁護があったとしたら、王安石の反駁は確かに正しいものと為っただろう。 開封府は力づくで奪った強盗とは判断せず、官吏が死罪に拘ったのは、二人が普段は親密な間柄であったので、力尽くで取ったとしても決して強盗の罪には為らず友達の間の冗談であったのであり、殺されようなどとは思いもかけ無いことで、少年はこれに因縁をつけ殺して仕舞ったのだから、罪は死罪に値するのだとしたのだ。 実は開封府と上級官庁の見方には不公平さが観られ、一方的で独善的な決め付けの判断があったと認められ、如何して友達の間柄で奪い取ったり引っ手繰ったり出来ようか? 更には、たかが一羽の鶉のことなので、友達は持って行って遊ぶだけなら何の支障も無かったろうし、そうであれば殺人など無かったろうが、実際は一羽の鳥とて金を出して買って来たからには個人の財産であり、そう考えると強奪したのだと言わざるを得無いのだ。 王安石は軽はずみに情を絡めては為らず、必ず厳格に法律の条文に従って判決しなければならないと頑強に説いたのだ。 

 王安石は法律の執行者として法を理解している法の専門の人材に担当させる為に総入れ替えし、其の為大量に法律の人材を育成する必要があると主張したのだ。 彼は法律学も専門の学問だと考えていて、その上庶民の生命と財産とに密接な関係ある大事であり、それ迄は、詩の試験を通って科挙の最終合格者と為った人を役人に造り上げ事件を審理させることにしたのは盲人に道を聞くことと同じ様に良く理解もせず死刑にして仕舞うことも有得たのであったからだ。 彼は政権を握った後に、法の事件の審理を満足に出来無い者は、全く公平に判決を下すことはあり得無かったので、「明法」の科を増設して、《刑統》で大義は判決と著し、法令の試験を増設し、総ての科挙の最終合格者と各科に受かった人は全員が更に一回必ず「法令の大義あるいは裁判」の試験を受けなければならないと定めて、科挙と各科の合格者の全員が地方官を担当するかもしれないばかりか、地方官の大部分は事件の審理に責任を負わなければなら無いので、増設された試験の合格者のみを官職に任命したのだ。 

 王安石が法律を重視し、官吏に法を精通させる為に人材を育成したことは、紛れも無い進歩であった筈だが、守旧派の辛辣な攻撃に遭って潰されて仕舞った。 蘇軾作の詩は「万冊の本を読んでも律を読むことが無ければ、君主は尭と舜に至る術を知ることが出来無い」と輪をかけて囃したて、辛辣に風刺した。 彼らは心から、王道は覇道に優り、徳が力に優り、礼に拠る統治が法の統治に優ると思っており、甚だしきに至っては刑名に法学の字句を連ねることまで罪悪とし、王安石がやったことは君子に恥をかかせることに為ると言い切り、国を治める為には全く法律を必要とし無いと言わんがばかりであったのだ。 

 蘇軾には権利は無かったので、愚痴を溢すことしか出来無かったが、司馬光は政治の実権を握ると、先ず科挙から明法の一科を廃止した。 これに対する司馬光の理屈は簡単で、法令はそれに携わる役人に成る人材が理解しなければならないものであって、普通の読書人には学ばさせる必要が無く、詰り、法の知識も理解も唯統治者にのみ必要なのであって、資格の有る者が法の知識と理解を持てば良いのであって、法律の隙を潜り抜けて罪を免れる道を学ばせ無い為にも、常人に法の知識も理解もさせてはなら無いのだとした。 彼は更に「道義を知れば、法律は必要なものでは無い」とも称し、道義は法律と違い専門的に学ぶ必要が無いので、道徳が法律に対する既成の見方を変えると明示したのだ。 彼は法律自身に対しても不満の意を表し、法律を学ぶことは、「形式に流され、物事の本質を失わせ、物事を断定する書を空読みする事は、単に文章を読む力を鍛錬することに等しい」としたが、このような考えは政治に関わって無い間なら未だしも、一旦政権を握った後には如何のように官吏を官吏としての規則を守るように出来るのかと疑問視されよう? そこで明法の一科を設けて、「長いこと無能な人材を育て来た重苦しい風習」は取り除かれなければなら無かったのだ。 

 こうして観ると司馬光は根から法律が分らず、「法律は徒に他の人の欠点を暴いて冷酷無比な小人が条文に記された通りに人に罪名を科し、どんどん監獄に送ることに役立つものである」と心中で考えを膨らませ、「なまじ法を学んだが為に人が悪く成ることも有得るし、法律の執行は出鱈目に為されて無いだろうか?」と考えていたのだ。 こんな見方をしていたので、「法律は根本から無い方が良いのであって、刑務所は全て廃止すべきで、光談の書物の礼楽で済ませば良いのだ」と考えられよう。 法律を取り合わ無いのであれば、風習を益々重視することに為り、官吏は益々善に従うと決め付けられ、犯罪などというものも現れることが無くなるのだ。 このように司馬光自身が幼稚であった為、彼が政権を執った後は全く国内が乱れ鎮圧も出来無かったのであるが、彼は自身絶対に己の非を認めることは無かった。 

 字面の意味の上から見ても、王道は覇道に絶対に勝り、徳は絶対に力より高く、正常な政務担当者であれば誰でも尭と舜の時代の様で在ることを望む筈で、礼に拠る統治をすれば、当然法治を上回って、人民は最大の自由を有して、統治者は全く其の存在すら感じさせ無い様に成り、暮していく中で完全に暴力、強制が存在し無い社会に成り、更に罪を犯す者も無くなって刑務所も要ら無く成り、万人は総て温和で上品で、穏やかな社会を造れるのだ。 然し、この考え方は性善説の基礎の上で作り上げたもので、更には人々の素晴らしい理想と未来への憧れに過ぎず、永遠に適うことが出来無い構想であり、実際に実現する事は不可能だろう。 

 儒家の最大の欠点は、理想を現実と見誤ることかも知れない。 若しも、人々が皆完全に性善説に従うならば性善説は仮説と為らず、必然と覇道は脇に追いやれ王道が罷り通り、徳が幅を利かせ、力は必要で無く、礼に拠り統治し、法治に拠る統治は要ら無い筈なのだが、然し現実の社会では、理を説いても受け付け無い極悪非道で許すことが出来無い悪人に対しては如何に教化しようとも王道は全く馬の耳に念仏であり、これらの悪人に対しては王道の礼儀と道徳について口を酸っぱく言っても、犯罪を放任することに成るのと等しく、善人に対して横暴だと言うのに等しいのだ。 残念乍学者の中で多数を占める役立たずの学者達は、只理想を現実とするだけで現実が彼らの理想に合うかどうかに関わらず、何時も王道で徳を以って治めるべきだということを大いに説き、この面では驚異的な頑固さと自信を表してはいるが、彼らの教化能力が無批判に尊重されても、彼等に世の中に現実にいる悪人を教化して導く期待なぞ出来ようも無いのだ。 

 儒家の別の欠点の一つは名を欲し実が伴は無いことであった。 王道が覇道に比べて優れ、徳は力に比べて高く、礼に拠る統治は法治に比べて温和であるとは良く聞くことであり、はっきりと各々の後者に対して是と言うことは恥とされ、丸で刑罰を定めることは風習を傷つけることであり冷酷で情が無いこととし、徳について談じるのは優しさと重厚さを訓えることであったのだ。 然し、彼らは刑罰の軽重を廃止するまで愚かでは無かったことは言うまでも無く、恐らく分っていたと思われる。 この一事を以ってしても儒家には偽りがあることが見て取れる。 司馬光の世代の輩は、一方で、丸で君子ように礼を尊重して徳教を治めたけれども、婚姻の犠牲者阿雲には如何あっても死地に追い込もうと少しも同情を示さず、彼らの心の中では、妻阿雲は夫を殺して仕舞い、儒教の基本理念の礼と道を犯したので、如何しても厳重に処罰しなければならず、礼儀と道徳を犯した者を礼と道を以って許さ無かったのであり、この事実は無能な学者の論理で、事実であるならば、十分に礼と道に対する偽りからの冷酷な事実でもあったのだ。 

 王安石は二者が片手落ちになっては為らず、同様に重要だと主張した。 彼は王道と覇道の隔たりを縮めて、王覇共に仁義礼信を講じるものだとし、王道は心の内に秘めて、あるが儘行うもので、覇道はこれを以って名を成し、仁義礼信そして己を以ってこれを示す。 彼は政権を握った初期に措いて、直に古い制度を変えて、主として刑罰の仕事に参与した。 古い制度での刑事事件では、法廷での審査に尽きるので、大理寺が取り調べ処置をするだけで、其の担任は本省の副相が関与し無いで宰相の位の者が当たっていたので、これでは司法の独立性は保てず、罪名に対して余り重視して無いことを表していたのだ。 彼が表面に出て刑事事件に関与した時に、宰相の曾公亮は納得し無かったので、王安石は、若し法廷と為る大理寺が拷問によって取り調べるならば適当で無いと思って、中書が関与して飽く迄説諭で取り調べるべきと反駁して、重大な事件の案件に出会って、衆議しても決着が着かない時には、中書は事件に関与せず皇帝に上奏するべきで、聖人を待って裁いて貰うのだとした。 彼は帝王自ら罪名に関与するように主張したことは、彼が罪名に対して非常に重視することを表わしており、無能な学者の軽蔑する法治に対して力強い反撃を行ったのだ。 

 王安石は実際には功労があって過ちもある現実に必ず直面するので、法制には賞罰があるべきで、賞付き処罰も有得ると考えた。 《尚書新義》の中で、「敢えて殺戮し尽し、民を安んじることはある。 凶徳は避けることが出来無いことなので、威を我慢して済ましては為ら無い」と言う意味は、人民に対して脅して恩を売るような悪人の殺戮に対しては殺して報復し、凶暴残虐で有名になるのを必ずしも忌諱する必要は無い。 これは元々大切な真実の話で、国を治める為に推し進めるべき制度で、後に儒学者は大いに非難をし、道学者は礼の教えに有害だとした。 道学家が政権を握った後には道徳的に罪が無いとは言えず、民は誅殺を免れたのか? 実はそうでも無く、明清の世とも成ると朱理学が盛んと為り、結局更に専制的に成り、判決文に基づく獄が盛んに成り、人民は一寸したことで罪を被り、そうしたことが可能なのは、封建的な統治の道具として朱理学の特徴と言うことは出来るのだ。 

 例えば王安石の法治の面での思想は今日の基準からしても、大部分が合理的であるが、残念乍法治を進める最中に次々と重なる障害に出会って、貫徹し続けることが出来無く成り、更に長い間続けることも出来無かったので、其の思想に相当する理性と進歩性がより鮮明に現れることは無かったのだ。 


六、遺恨の長い年月

 王安石の変法についての基本思想は正しく、目標も明確であり、法令を実行して行く為の手順も適切で、手順を進めていく方法も亦比較的適切であり、効果も明らかに出るように成ったのだが、様々な原因の為に、残念乍結果として失敗の運命となり、変法派は扼腕し嘆息した。 

 その最終的には失敗した原因を総括する為、その変法を為したことに拠る損得を突き詰めると、今日 に措いても尚現実的な重大な意味がある。 

 変法派は比較的政治の綾に疎かったので、強大で長い間続く政治力を造れず、恐らくこのことが変法の失敗の根本的な原因であったのだろう。 

 比較的常識的な観方をすれば、王安石は中小の地主と自耕家の代弁者たらんとしたのだと言われるが、このような観方をするのは今日より以前での階級的見地からの分析の結果齎されたものだと言えよう。 若し、当時の階級を段階に分けるならば、王安石が「一日すら命を繋ぐ田畑が無い」という言葉に見て取られる様に、彼は標準的な給料所得者或いは貧農・下層・中層農の何れかであった筈だが、自らは全くの給料所得者階級であると言っていたので、国家公務員の道を選ばざるを得無かったのであり、薄給で一家を支えていたのだ。 王安石は事有る毎に社会の中下層を救う立場で話しをしたのだが、然し厳密に言えば彼は中下層の代表だとは言えず、若し本当に江蘇轍が「貧民には耐えられず富民も深く苦しむ」と言ったのならば、本当に彼が守ろうとしたのは国家利益とあらゆる階層にとって合法で、公正であるように、長い意味での利益を求めたものだったのだろうと考えられる。 

 当時の情況は社会全体として貧富の格差が広まっていたのか、或いは両極端の者が少なくて中産階級が拡大していたかの何れかであり、何れにせよ朝廷と下層部の人民に行き渡る財産の分け前は大きいもので無く、総ての者を支えるようには成って無かった事は事実であり、上層の官僚や地主や豪商、即ち兼併家は贅の限りを尽くし、彼らへの富の分配は不当に高く、その上社会的貢献の意志なぞ更々無かったので、たんまり溜め込んでいたのだ(今日の日本と見比べたし)。 その上、上層の官僚の俸禄は決して高く無かった事も原因であり、彼らの収入の殆どが合法的なものでは無く、収入は恐らく彼らの業務に関連して賄賂を受け取り汚職したものか或いは副業で儲けたものであり、要するに大部分が特権に頼って得たものであったのだ(ここは現状の日本と乖離あり)。 大地主や豪商は官僚として一人二役をこなすか、或いは封建官吏と互いに結託して、自分達が正常な取引で受け取るものよりより多くの収入を得ていたので、彼等の収入は、搾取、横領、脱税などの正当では無い部分が大半を占めていたのだ。 このような不正な人の元々の収入は多く、更に特権もあったので、それに起因する負担の大部分は最下層まで回され耐えられる限界を超え、生活にも困る程であったのであり、実際、社会全体で最も豊かな階層は、最も保守的で、最も向上心に不足し、最も改革を恐れていたのだ。 

 国家の財政が益々苦しく国家が弱体化すればするほど、社会の負担の現状は益々厳しく不平等に増すばかりであったので、王安石は両方から同時に活動を進める策略を採り、一つは効率を重視して、拠り所を生産の拡大に依って社会の資産を増加することで社会全体に利益を行き渡らせ、二つ目は公平を重視し、兼併を抑えて、独占を制限して、上層の特権の階級の不合理な利益を減らすこととしたのだ。 この両面は互いに補完し合うものであったので、公平を重視せず、特権階級の不法な利益を制限し無ければ、下層部の人民が働いて生産に積極的に努力を傾ける事も望めず、更には生産を拡大させる為に必要な資金をも準備することが出来無く為り、或いは中下層の官吏に俸禄を追加発行する事すら儘成らず、そうなれば地方官吏が清廉に業務を行うことも為らずに、汚職を減らすことも約束出来無く為るのだ; 社会の資産の総量を大幅に増加させる為の生産を拡大させる努力が足り無ければ、分配を如何するかと言う事に拘るしか無く、上下間の対立を激化させて仕舞い、却って分け前がより小さいくなって、結局下層部を苦しめる事に為り、本当の公平さを得る事なぞ望むべくも無く、然も、一旦対立の激化が徹底的に行なわれたら、社会に動乱が暴発するしか無く、上下貧富の何れもが災に遭って、誰もが等しく得るものもの無くなり、最も不運に曝されるのは矢張り貧乏人となるのだ。 そこで長い期間を観ると、法律(制度)を変えるのが国家とって有利で、社会全体にとっても総ての階層に対しても有利で、富豪の階層も例外では無くて、彼らは事実上も最も基本的な利益を得る者と成れるのだ。 

 改革は間違い無く暫くの間は一部の人の利益に打撃を与えるので特権階級の反対に遭う可能性を秘めていたので、王安石と神宗はこれに備えて心構えがあったのだが、然し彼らの抵抗は予想を越えて遥かに激烈で、全く大局を顧みようともせずに、変法が当初の思惑通り行かない様にしたのだ。 

 神宗は、変法の面では甚だしきに至っては時に王安石より更に急進的となり、彼の変法に対する目的は大変簡明で、負担の不公平な現状を改変する事に尽きたのだが、朝廷の収入を増加しようとしても、下層部の負担は既に重く、然も既に貧困が極限に達していたので、これ以上掠め取る事すら無理なので、そこで標的を上層の富裕家に合わせるしか無かったのであった。 神宗と文彦博の対話の中で、双方の立場の相違を明確に表した。 文彦博は言う: 「祖先の法制が備わっているのに、態々人心を失う必要は無いのであります」。 神宗は真っ向からこれに答え: 「更に法制を広げれば、士大夫達には確かに多くの不満が出ようが、然し人民にどんな不満が出るというのか?」 文彦博は答えて言う: 「士大夫が天下を治めさせるので無く、庶民に天下を治めさせるのですか」。 

 この対話は非常に面白い。 神宗は明白に変法の目的を士大夫の階層に対して狙いを定めたものであり、下層部の庶民に対応するのでは無いということを指摘したのだが、文彦博も、皇帝は士大夫と協力せざるを得ず、庶民を代表することが出来無いと率直に神宗に警告したのだ。 

 兼併を抑える面では神宗と王安石は一致しており、然し其の法式方法と措置の上である程度違いがあった。 神宗は焦って治めようとしたので、或いは焦って朝廷の困窮する局面を改善しようとしたので、兼併の戸に対して断固として打撃を与えることを力説し、早く税を取り立てようとしたが、王安石は老練で慎重で、この階層の勢力が大きいことが分っていて、若し余りにも大きくその利益を侵犯するならば、改革への抵抗力が大きく成る可能性が有るので、そこで比較的に柔軟に対処しようと、次第に制限を加えて行く様にし、軽はずみにせっかちに為ってはいけ無いと考えていたのだ。 

 免役法の様に、神宗はの半分の優遇を減らす方法に対して不満に思ったので、「から多少の金を取って兵役を免れさすことは可笑しい」と言ったが、王安石は根気よく「時に応じて、この様にすべきです」と諭し、このようにすれば抵抗力はより小さく為り、変法を順調に進めることが出来るのであって、この種の人達は権力があるのでは無く、金が有るのであって、一度次から次へと上告したら、皇帝ばかりか恐らく本人自身も動揺し無い訳にはいか無く為り、若し皇帝の果実を上げる事に拠る得失がはっきりわかる様に為ったならば、賞罰を明示して、思い切って官吏を庶民に降ろす事を断行出来、敢えて不服を申し立てる勇気を無くさせられるのだが、その時までに更に兼併に大きな制裁を加える力を増大出来ていたならば、貧しくて弱い者達を多く救済することが、どれだけの大きい困難にぶつかるなどということも有得無かったのだ。 

 この変法は事実上変法派が神宗との同盟を結び、変法派が先代の時に中下層に一定程度の利益を表しことがあったにも拘らず、併し文彦博の言ったことは正しく当を得ており、庶民は専制制度の下では全く発言権が無かったので、そこで変法派の権力の源泉は事実上皇帝一人だけであって、変法の成功と失敗の損得は神宗一人に掛かっていたのだ。 

 この事に対して王安石は、神宗の変法への決断が一体どれだけ大きいかを見分ける為に、始めの内はあからさまに何度も神宗の心中に探りを入れた結果、神宗の思いが比較的確固たるものだと確信出来たので、彼は既に三人の皇帝を経験していたが、一生自然に任せて禄に作為を加えない儘変法への重任を毅然として引受けたのであり、神宗のような帝王に出遭えたことは貴重な好機と捉えて、辞退するなどとは更々考え無かったのだ。 

 専制独裁の社会の皇帝の権力は無論至上であったが、併し彼が民選の大統領では無い為に、文彦博の話も急所をずばりと言い当てていたので、皇帝も実際に自分の階級の礎を離れることが出来ず、彼に庶民が協力出来る訳も無く、実際に皇帝は皇族の運命や或いは士大夫の階層を決定する立場であり、専制制度は彼がこの階層と協力することしか出来無いことを運命付けていたのだ。 

 王安石は皇帝の権力が至上であることを信じ過ぎたので、彼は皇帝の支持が有りさえすれば、聖君の賢相が十分に国家の命運を決定して、出来無いことは無いと勘違いし、変法が出会うかもしれない困難について予測を見誤り、加えて神宗の覚悟が余り固められて無かったので、変法は挫折を経験し、神宗の困難に対しての理解も足り無かったことを理解するに至ったのだ。 

 変法派には士大夫階層を含み、その構成部分であるにも拘らず社会に措いて統治の地位を占めるこの階層に、変法が触れて仕舞った為、変法派内部の革命の推進力は断然不足の憂き目に遭い、その失敗は早晩の事と成った。 これも時代が運命付ける悲劇で、王安石と神宗は更なる見識があったとしても、庶民の政治参与と政治討議を政治の舞台に上がらせることは出来るべくも無かったのだ。 

 皇帝の権力に依存する為、王安石は王権が至上であることを吹聴する外無くて、専制君主制の為に大いに世論を作ることしか出来ず、君主の最高の権威を強調して、これは間違い無く後難を知りつつも危うい方法を採ったことに成り、さし当たっての危難は避けられるが、極めて大きい副作用を残して、彼が救うのは貧しくて弱い人であるのに、兼併者(皇帝は最大の兼併者)との初志は合致することが無く成り、彼が創世記の民主に向かって行くことの障害とも成り、互いに認め合っていた筈の君臣は相反する思いを主張し合ったのだ。 

 一方では皇帝に依存せざるを得ず、一方では士大夫の階層の抵抗とそれとの軋轢が憂慮されたので、法制度の改革は「殻卵を産むのであるしか無いこと」を運命付けられていたのであり、専制制度の侭で公平で、自由な、豊で活力と効率的な新しい制度を孕み育てたいと考えることは、旧体制の前提を外すこと無く新しい体制を創造しようとすることなので、どれほど困難かは一目瞭然であった。 

  変法が皇権を如何様にも出来無いことは当然で、更には士大夫の特権的地位を変えることも出来ず、こんなことでは実際は政治の領域まで深く入り込むことが出来ず、改革は経済の領域でしか行うことが出来無かったのである。 王安石が政治上の改革をしたく無い訳は無かったのだが、彼は探りを入れ乍極僅かな改良をゆっくり進めて行く以外無かった。 若し科挙を改革しようと下層部の書生により多くの機会を与える為、学校を興したならば、国家の為に変法を進めることが出来る多くの人材として余力を以って育成する事が出来たのだ。 公官の古い制度は災いを齎すので、昇進制度を改革しようとするならば、単に年齢と資格・経歴などで見ず、年功序列を止め、中下層の官吏の中にも確かに有能な人はいるので、才徳の政治的業績の優劣で昇降を与えて破格の抜擢をして、彼等の登用を積極的に行うべきなのだ。 

過去にずっと小役人には棒禄を満足に支払は無かったので、汚職でもし無ければ生計を立ることが出来なかったのであり、若し、廉潔にしようと少しでも読書人と胥吏の間の格差の障壁を打ち破ろうと棒禄を上げられ、更には胥吏であっても大臣に成れる機会を与えることが出来たならば、胥吏の社会的地位は高まり、その上、中下層の官吏の俸給をも引き揚げることが出来たなら、より廉潔が守られる様に成るのだ。 これらの措置は間違い無く地方官の治績・行政のやり方の総てに対し、正しく有利に働き、政府の所管の行政の効率をも高めた筈なのだ(この意見には賛成しかねる)。 

 然し、これらの改革は専制制度自身を揺り動かすことは出来ず、階級制度をも変えることすら出来無かったのだ。 上層の官僚主義的な富豪は経済の利益一点の損失を受けただけで、彼等の政治的権力と特権権的地位は不動の儘であったので、然したる動揺は無かったのである。 尤も、王安石が王権を後ろ盾に士大夫の階層のみの幾つかの特権の制限を打出したことは、神宗が変法の条件と前提を支持することから、彼らが敢えて真っ向から反対する重要な原因とはなら無かったのだが、これらの改革の結果は上層の有するいくつかの特権と経済の利益をただ中央政権に回収しただけに終り、其処からの利益は下層部に転換することにはなら無かったのだ。 改革は専制制度を一層強化して、権力を一層集中させて、国家全体を皇帝一人に更に加重に担わせる結果と成ったと言えなくも無い。 

 神宗は愚昧で騙され易い皇帝では無く、彼が変法を支持せざるを得ない十分な環境下にあったのであり、自らも目的としたのだ。 皇帝の権限を強化することを彼は断固として支持したので、これに反対する者は相手にしなかった。 彼は何度も庶民を代表して、庶民の利益だけを護る様に装い、丸で本当に庶民と同盟を結んでいる様に見せ掛けたが、本当は上層の士大夫の特権を制限する為の口実にしただけで、制度改革によって齎された利益と権力は全て彼に手渡され彼の支配下に入ったのだ。 改革の前段階に措いて王安石の殆ど如何様な箴言も計画も神宗が聞き入れたのは、一つは王安石の行動の全てが皇帝の権力を守るものだったので、彼と志が一致すると思った為で、二つ目は王安石が富貴を望むことが無いことを知っていて、私心を持つことが無い人柄と能力を十分に分かっていた為で、三つ目は彼自身政治経験が足り無い為で、能力の上で王安石に及ばないと感じており、その上当時の財産権、職権の多くは大富豪が独占し官僚主義的に仕切られていたので、王安石などの人の力強い援助が無くては、彼も成果を挙げることが出来無かったからなのだ。 

 神宗は一方では「朕と安石とは一人の人間だ」と公言し、王安石を大変尊重し、彼には大きい権力をも与えていたが、一方ではまた祖先の警告を確りと心に刻んでいて、「異論は相掻き混ぜる」を実行して、政権側にある中で密かに中枢を管理させる為ずっと文彦博、馮京などの古党を任用することで王安石を牽制し、また司馬光などに対しては、つかず離れずの態度を摂って、そうすることで巌然として影響力と地位を維持したのだ。 王安石の権力は大きいが、万事神宗と相談しなければなら無くて、単独では決してどんな権力も振るえ無かった。 神宗と王安石の関係は歳月のように、月は迚も明るいが、その輝きは完全に太陽が秀でると言うものであった。 

 旧党の多くは王安石の独裁を攻撃したが、実は本当の独裁者はずっと神宗で、只王安石はより多く表舞台に立っていただけだ。 王安石は二度目の宰相の位を辞退したのは、彼が惜しくも愛子を失ったことと大いに関係はあったが、神宗と変法に対して意見が分かれて行ったことに大いに関係し、更に重要なのは神宗が国の政治を一手に握る意図があると王安石が意識したので、神宗への信頼が弱まって仕舞い、実際にも王安石と神宗の違いは次第に現れて、変法は彼が予想していた軌道を押し続け難く進められていたからだった。 

 神宗は王安石が退職した後に措いても、依然として新法を推進してはいたのだが、然し規模は極端に縮小して仕舞い、更に重要な基本思想と推進の方法は全く大きな変化があったのだ。 富国強兵は二人の共通の目標であったのだが、どの様にこの目標を達成するかと言うことに対しては、二人に相違があったのだ。 王安石の主張は生産を拡大させることで収入を増加することを主としていたが、神宗は下から税を取り立て、同時に支出を減らすことを強調したのだ; 王安石は集権を強調したが、それは飽く迄効率的に公平を促進することを通じて、社会が公平であることを実現する為の手段と名目として利用したものであったが、神宗は権力の集中が庶民の利益と為るということを口実にして、集権そのものを目的としたので、上層の士大夫と富豪の手中の権力を皇帝に取り戻したのだ; 王安石は自由経済を主張して、自由経済を通じて夫々の階層、夫々の業界の生産を積極性に発展させるように仕向けて、社会の資産を大幅に増加させ、国家が本当の意味で豊かに成るように、根気良く時間を掛けて国を富まし兵を強くして行くことを目指したのだが、神宗の富強に対する気持ちは切実で、改革の実現を焦る余り、彼は生産を通じて豊かに成れるのかと疑問を持ち、更に辛抱強さに欠け、彼は重税を課して搾取することに依って財産を中央に集中させると主張したので、そこで変法の後期には完全に国家が経済を独占するように施行し、富の独占を期待して重税を課して搾取することを通じて朝廷が迅速に資産を増加するように仕向け、強兵の資本としても、出来る限り早く西夏、それから遼寧国を征服するように図ったのだが、後にこのようにすることで齎される深刻な結果を敢えて考慮することは無かったのだ。 神宗は国を真に富まし、兵を真に強くということを焦った為、雪辱を期そうと、焦って戦いを仕掛けたが、将軍を信じず、宦官を重用したので、失敗は必然のこととなったのだ。 

 神宗との多方面での深刻な相違の為、王安石は民主を実行することが考えられずに、亦、士大夫の階層の見識がある人士には誠実な者が少な過ぎ、現実に皇帝の権力を捉えることも出来無く、変法派内部にも王安石のような公正無私な君子は少なく、変法も最終的には失敗の運命は殆ど免れ得るもので無かったのだ。 変法の失敗では、寧ろ神宗がより大きい責任を引き受けざるを得ず、其の失敗の根は何と専制制度に在って、この失敗の原因は専制制度に内在する悲劇性が顕れた結末を迎えざるを得なかったのだ。 

 変法を上から下まで浸透させる為には、皇帝の権力に頼ることしか無く、そこで自らの言動が矛盾する現実は免れ得無かった。 王安石が公平を提唱して兼併の抑制を主張するのに、朝廷の兼併で上層の富豪の兼併に取って代わって、兼併で兼合を破壊することしか出来ず、変法に従って生産を拡大させて齎された巨額の社会の財産が実際には庶民にはほんの少しばかりしか分配されず、富豪の手から集中的に朝廷の貯蔵庫までへ只管運び込まれるだけで、これは全く王安石の初志に合う事では無く、恐らくは神宗の変法を支持した動機に関係があったのだ。 王安石は何度も君主の権力を強調したが、その本意は変法への力を補強として利用したものであり、併し本当は帝王に独断をさせたく無かったのだが、ところが神宗が本当に独裁を願っていたなぞとは思いも付か無かったのであり、互いに王安石の二回目の退陣を待った後に、神宗は自分の羽毛は既に抜け変わる時機だと感じたが、第二の王安石のように全て自分の意に添って仕える人材は絶対に探し出せ無いと感じると共に、神宗の能力は事実として全く王安石と比較することなぞ出来様も無く、そこで変法運動は大きく後退を余儀なくされ、おまけに何度も西夏には負け、富国強兵の目標は実現されることは無く為り、そのことが保守派への新法を廃止する口実と為ったのだ。 

 王安石は法治を強調しが、それなのに立法権は完全に皇帝にあって、然も皇帝は自分で制定した法律の制約を受けるべきで無いと考えており、それが君主を絶対に犯すべきで無いとの考えを助長し、このような法治では法律の権威を尊重することが出来る筈も無く、事実上未だある種人治であり、全く有害な人治と成るところも有り、「人を救済する為には、祖法は不充分であるのに、天は変を恐れ」、何を持って帝王を制約する? 所謂道義は空論と見なされるべきで、君主がきっと聖明であると言う虚構を前提として総てを担保に取られるならば、賭け金は少し大き過ぎて、博打を打つようなものと為る。 

 歴史の証明として、中国では「新しい権威主義として」の類として「独裁を認めよう」と施行するのは完全に通用し無いことなので、独裁の手段に頼って民主を推進して、兼併で兼併を抑止するのは、全く偏った遣り方であり、民主を実現することと逆行することで、逆により徹底的な独裁を招ねいて仕舞うかもしれないのだ。 

 王安石の思想は当時に措いては余りにも先進的過ぎるするものであって、当時の人は理解することが難しく、譬え現代人であっても完全に受け入れることが出来難いものであったのかもしれ無い。 彼が先王の道を相標榜する為に、世の中に喧伝という手段を採ったことは如何にも近代的手法と言えるが、将に近代的な思想をも超えたのは、正に経済の面にあったのだ。 様々な角度から見ると、王安石が公平を実現しようと兼併を抑制したことは、社会の平等の意味合いを含んで提唱されたことで、更に自由経済を推し進めるのは、平等の障害と為る独占に反対する意図があったからだ。 経済を独占するのは事実上ある種権力経済(或いは政府の経済)で、非経済的要素を持ち、経済を停滞させ、長い目で観ると経済発展を完全に阻害するものと為るのだ。 王安石は独占の害を十分に知っていて、彼は富豪の兼併に反対するばかりか、国家の独占にも反対したのであり、自由貿易を力強く主張したのだ。 

 惜しむらくは王安石の時代にあっては、自由経済社会を推進する為の基盤も、技術に依る援助も全てのものが不足していて、彼の改革に役立つものを提供出来る段階では無かったのだ。 中小の商人と一般の消費者の発言権は抑えられていたので、彼らの意見は反映することは無く、更に歴史に書くまでのものも無く、工業も未だ芽吹きの状態にあって、農産物の供給も不足し、商業化も今一の状態で、文化教育も産業化することも出来ず、そこでは社会が全く自由経済の価値を理解することが出来無かったのは当然のことであったのだ。 

 青苗法は近代的な銀行法の原形で、免役法は職業の分業を強化して、手実法は財産の申告及び実名制と類似していて、王安石の変法運動の基本思想と経済の措置は総てが全く先進的であったので、余りに現実の自給自足経済型の農業に代表されるような全体の社会に適応し難い先進的な経済と見なされたのだ。 勿論、先進的という其のもの自身が良く無いと言うのもでは無く、商工業に何らかの援助をして立ち上げ易くして、商工業の経済を政策により指導をし、それに依って社会全体の経済の商品化を動かすようなことを積極的に展開し、新法を貫徹し続けていたならば、最後に社会形態の転換を完成出来ていたのかも知れないのだ。 

 併し、儒家思想に代表される古い観念が余りに根強過ぎる経済的土壌にあって近代的経済への転換を成し遂げるのは、全く困難に過ぎることであったのだ。 神宗と王安石は最終的に「人心を変える」の効果を政治の手段を通じて達成するように新学(これ自身が採用する価値が無かった)を推し進めることを強制することを望んだが、不可欠と為る経済的情況の支持が無ければ、このような変革は雨が上がって地表が湿るだけのことと成り、経済的現実に深く入り込むことも出来ずに改革を持続させることは不可能と為ったのだ。 彼らは思いを遂げることが出来無かったばかりか、守旧派は相手の言論を逆手に取って、見解の矛盾をついて、思う存分に計らうことが出来て、司馬光などの古い党の輩が実権を握ると、急いで新学を解体し始め、政治的手段で新学を抑えたのだ。 

 法律(制度)を変えるには政治の基礎は不安定で、基本思想は一様で無くて、経済的土台も不足していたので、況して反対派の力は余りにも強大で、王安石は最大の努力を尽くしたけれども、矢張り情勢を引っ繰り返すことが出来無くて、彼は最も華やかな時期に決然と引退する外無くて、江寧に帰って定年退職の生活を始めた。 新学は本質として現実に経世に役に立てる為の学問であったので、変法は事実上新学の実践を継続することであったことから、変法の失敗は同時に新学の失敗を意味したのだ。 王安石は儒学が駄目だと痛感し、彼は絶えず体験した試練を通じて、総合各家の創建した新学を先王の道を名目にしたのだが、結局、彼は儒学(新学と儒学との連携を断ち切らすことが出来ず)を改造することに対して徹底的に自信を失って、最後に完全に彼の心中で深い思い入れを持つ様に為った仏教学に転向することに為ったのだ。


 「魂魄の狐神 第五巻」に続く


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