魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第一巻~第一話 狢未だ虎を獲ず】 其の2

2017-04-04 12:59:32 | 魂魄の宰相の連載

三、父王益奮闘する

 王安石の父王益は初め建安の主簿に任官した。その後臨江軍を引き連れて、新淦県を領地し、廬陵県知事、更に移動して四川の新繁県知事と次々に転任したが、その都度民衆の政治への不満に出合った。王安石は此の時期ずっと父に従い彼方此方とついて歩いていたので、一箇所に定住することは無かった。

廬陵(今日の江西吉安市)は青原行思(弘済大師)の故郷で、彼の布教は死に至るまで此の地で行われたので、此処は禅宗の一つの重要な法事の地と成っている。
 禅宗は中国の仏教の四大分派の一つで、最大の宗派であり、祖を其の儘継ぐものとして、此の宗派は広く伝わること最も久しく、歴史も長く、今尚衰えて無い。禅宗は仏教の祖の直伝と言えて、その第一世代の祖師は釈迦牟尼であるが迦葉が仏教の創始者を引き継いだ。其の後更に印度で二十八世代まで伝わる。第二十八世代の祖師は悟りの境地に達し、其の輝かしい名声を恣にした達磨であった。 
 達磨祖師は、仏教の布教は最早印度では行き渡っていると感じ、般若多羅懸記を師自ら広めようと百歳になって中国へ渡海したが漂流した。運良く広州に漂着したが、此の時中国は南北朝の時期にあって、詰り劉宋の王朝の末期であった。達磨祖師は其れから北上し、嵩山、洛陽の一帯で法を伝えて、少林寺で弟子を抱え、其の後中国で禅宗を生んだのだ。 達磨祖師は印度で二十八祖師に成り、中国では第一世代の始祖と成ったが、その後二祖慧可を経て、三祖僧珠、四祖道信、五祖弘忽、第六世代までに伝わり六祖恵能に至ったのだ。
 六祖恵能の原籍は範陽(今北京の一帯)であり、広東の新州(今の新県)で成長した。 父は持ち前の石頭であって稼ぎが足り無かったので、母と助け合って生きるしか無く、読書をするにも銭が無いほど家庭の暮らし向きは酷く貧しかったのだが、彼は一を聞いて十を知るような生まれついての慧根であった。彼は二十四歳の時に奮い立つような一首に奮起されて学問に没頭したので兄弟子の神秀に打ち勝って、五祖の秘伝を独学で会得した。仏法の標しとなる品となる袈裟を秘授され黄梅を離れることとしたが、祖師に師事する相弟子慧明が、「恵能が袈裟を盗んで逃げようとしている」と勝手に勘違いし恵能を罵ったが、恵能は一々言い訳もせず取り合わず去って仕舞い、遂には恵能の後を慧明が追って来て、彼は姓名を隠すほか無くて、故郷を離れて、三十歳の時に韶州の宝林山の曹候渓に到着して隠遁した。然し、其の後、身元が割れて仕舞い、彼は亦此処を急いで離れて懐州、恵州の一帯の山林の中に身を隠すしか無く、三十九歳の時のやっとの思いで宝林山に戻って、ここで正式に法を伝え、禅を授けようと、中国に禅宗を新しい歴史の表舞台に載せたのだ。

 「曹源の一雫、天下人を潤す。一般に禅を言う者、全て当曹渓」と言われ、禅宗にとって韶州は大変重要な地となった。

他答道:青原行思は六祖の惠能(638-713)の一番弟子の一人であり、俗名を劉といい、聴くところによると彼が始めて六祖を参拝した時、仏の道について尋ねたことがあるという。 以下其の時の禅問答の行方と青原行思に関する逸話(禅宗の門徒で知らぬものは無い。以下に今少し詳しく)を照会しよう。
 「第三十四祖弘済大師、曹谿の会に参じ問いて曰く、如何いうことで、階級を落とすのか?祖曰く、汝、曾て何をか為さん。師曰く、聖帝も亦為さず。祖曰く、何の階級に落ちん。 師曰く、聖帝すら尚も為さず、何の階級か之有らん。祖、深く之を器と看做す」。

 曹谿(そうけい)の(六祖)大鑑慧能(だいかんえのう)禅師と云われる方の処で、青原行思(673~741)は、諮問をされた。

 「如何いうことをすると、階級が落ちるのでしょうか、落ち無いのでしょうか。修行した結果、如何いうことに悟りを得て、または迷い、邪見に落ちるのかをお答え 下さい」という究極の問いを発す。そして「何処にも落ち度が無いとしたら、私の位置は、階級の何処にあるのでしょうか」と畳み掛ける。

 その問いに対して、六祖は、次のようにお答えになった。
  「お前は、何をすると階級の何処に行けるのかということを言うが、今まで、如何いうことをやって来たのか」と質問される。
 師(青原行思)が言われた。「私は、聖帝も亦、為さず」。

  「仏法に則り、聖人の道に則り、立派そうな道は、一度も考えてみたことも無い」という言い方を師(青原行思)がしたので、初めて六祖が、「仏法らしい、聖人の道らしい、立派そうな道は、一度も考えてみたことも無いのなら、どんな階級に落ちるのかね」と尋ねられた。

 「仏法らしく、聖人の道らしくものを考えるのが不必要であるのだから、何処にも、此から此まで行かなければならないという階級などある筈がありません」。

 此のように師(青原行思)が、答えられたので、

 「成る程、此から此までの段階の階級に行かなければならないというような境地にはなれ無いと言うのだな。お前のような境地で、修行して行きさえすれば、段階無しに瞬く間に、其の儘直満足出来る境地に入れる。 否、其処が満足する世界だ。こ奴は、只者では無いぞ」というふうに六祖が感じられたのだ。

 師(青原行思)は、吉州安城、劉氏の子である。行思は諱(いみな)で、青原は、住んでいたところの地名。吉州安城とは、現在の江西省吉安市盧陵県(こうせいしょうきつあんしろりょうけん)の出身。 幼いときに出家する。先輩僧たちが、常に「道とは」、「悟りとは」、「法とは」と議論している処に加わらず離れたところにいて、加わらずに黙っていた。
 暫らくして、曹溪山の六祖大鑑慧能(だいかんえのう)禅師の修行の集まりを聞いたので、早速赴いて、六祖に出会ってお尋ねした。

 「如何いうことをすると、階級が落ちるのでしょうか。修行した結果、如何いうことに悟りを得、又は迷い、邪見に落ちるのかをお答え下さい」。

 其の問いによって、六祖が「此奴は、なかなかだな」と感じられた。
 六祖の指導に従う僧は、沢山いた。其の中でも、師(青原行思)は、常に首席であった。 将に、二祖の慧可様が、黙っていても、達磨様の法の真髄を映していたように。

 ある日、六祖様は、師(青原行思)に言う。

 「鉢や衣が法を伝える証拠として渡すのは止めた。併し『其のもの(法)』を断絶し無いように。」

 其れでは、「階級」という語句をどの様に受け止めたら良いのだろうか。

 「師曰く、聖帝すら尚為さず、何の階級か之在らん。」

 聖帝も尚成さず。此の者が変化、進化、深化して、立派に成るのでは無く、隔たりが無い。 階級が無い。今迄、何を為して来たのか。「得た」ということを認めると、「得る法」と「得られる法」の二つが現れる。 其れは、境、際が出来ると言うことである。 「今、此れ」或いは、「存在」は、既に具わっているもの(必然性のもの、後天的修養によって得たもの)がある。

 眼の働き一つでも、見える、ぼんやり見える、見え無いと言うように夫々がある。

 師(青原行思)は、六祖様より、法の証明を受け、故郷の吉州(現在の江西省吉安市盧陵県)の青原山靜居寺を住まいとした。景竜三年(709)、師は三十七歳で、六祖様の亡くなる四年前であった。 師は、これより三十二年間、多くの人々に正伝の仏法を明らかにして来たのである。詰り、曹溪山(そうけいざん)の六祖慧能禅師と同じく、正法を伝えたのである。 遂に、石頭希遷(せきとうきせん)という本物を仕立て上げた。禅宗第七祖として、正しく曹溪慧能の教えを伝えたので、大勢の人々が、此の道(法)を求めて参集してきた。此れこそ、大鑑慧能のお陰であったのだ。

 六祖様は、行思に次のようなことを話して下さった。
  「五祖様(大満弘忍禅師)と御自身が、師資(師匠と弟子のこと)と共に、法を得たことを、お互いに証明し合った。 其れ迄の御苦心は、法を得て、確実に心を決めて、此処迄来た」ことを。 そして其の間、大きな苦難があったことを。
 其れは、神秀上座と自分(六祖様)との間で、お互いに真相を示す偈を発表した時、五祖様は、慧能が真相を得たということを証明して下さったのだった。慧能が六祖様に成ったのである。五祖様は、お袈裟と鐡鉢を伝えられた。其れは、確かに法を得たという標(しるし)であった。
 然し、其れが大きな誤解を招く元となって仕舞った。誤った思いに捕らわれた人々は、「法を伝える」

ということは、お袈裟と鐡鉢を伝えることだと思い込んで仕舞ったのである。 

 五祖様は、米搗きをしていた慧能が、皆に六祖様に成ったと知られた時、災難に遭うのは、明らかだと分った。其処で、真夜中に慧能にお袈裟と鐡鉢を渡し、南方に逃げろと命じた。翌朝、総てが知れ渡り、修行僧総てが、大騒ぎをした。米搗きをしていた男が、正当な弟子の標である「大事なお袈裟と鐡鉢を奪って逃げた」ということになって仕舞ったのだ。 怒りと憎しみの炎で、見境無く為った多くの者が六祖様の後を追った。その中でも怪力豪腕の慧明という僧が、必死で追いかけ、六祖様に追着いて仕舞ったのだ。

 慧明は、六祖様に向かって叫んだ。
「やい米搗き! そのお袈裟と鐡鉢を返せ!」

 六祖様は、黙ってお袈裟と鐡鉢を傍の石の上に置いた。早速慧明が、持ち去ろうとしたが、何としとことか、其れは動かない。びくともし無いのだ。後に、慧明は、六祖様の弟子となった。
  
 話しを戻すと、其の時王安石は七、八歳の幼少にあったので、未だ禅宗の所謂《味》を酔うことが出来無かったのであるが、彼は行思が遊歴した青原山を訪れたことがあると言われるが、静居の寺の静かで厳かな雰囲気を彼の幼い心でも感じ取ることが出来たのか知る由も無い。然し彼は後に雲扉の祖先と関係して密接に為るように成ったのも、幼い頃居住していた廬丘陵に源があったのかも知れない。

 王益は嘗て官職を歴任するために四川を移動し続けたが、何時頃のことなのかは詳しく分ら無い。惟、王安石が八、九歳の時には父に連れられ蜀に入っているということも言われているが、王安石が八歳の時は仁宗の天聖六年(1028)で、天聖年間に王益が蜀で官吏を任じていたこととは符合し無い。王益は蜀に措いて、学校を建造して、師を敬い儒を高たかめ、頗る政治的業績があって、名士の梅摯と互いに唱和し、また詩を詠み筆名も有名になった。
 王益が四川で県知事を担当するようになって久しく、彼の政治的業績が顕著な為、近郷近在に名が知れ、民衆は称賛したので、遂に抜擢を得て、宮殿に呼ばれ高い官職に任命された。韶州府知事の任を下命されたのは、天聖八年(1030)のことであって、王安石が丁度十歳の時である。
 韶州は広い宋の南路に在って、隅々まで布教が行き渡り、仏教の教義を理解出来無い者は無いといっても差し支え無かった。前にも述べたが、此の地は六祖の恵能大師の弘法が布教した所なので、禅宗の最も偉い祖がいた聖地であったのだ。

 王安石もやがて十歳になり、暫く世の中のことも弁えるように成って来た。此の頃になると何と一端の読書家と成り、夢中に読書に励んだが、記憶力は抜群で猛烈な勢いで知識を吸収した。

 彼は一方では韶州の美しい自然の景観に心酔し、亦、一方では此の風俗と人情に対して興味を持ち、更に現地の濃密な仏教の伝統に触れて疑問を持つようになった。六祖恵能の生身の御神体を如何して今尚保存することが出来ているのか?如何して普通の人が腐ると出る死臭が無いのか、六祖の死後数百年も経っているのに如何して御神体が如何にも生きている人のようなのか?こう質問されても博学で鳴らした流石の父王益も首尾良い答えを出すことが出来無かった。母の王氏も王安石に答えることが出来無かったが、「道教では、更に肉体の成聖、死体の解脱の為の仙術があって、仏教より更に優れているのよ」と訓えた。

 韶州の風習は幼い王安石に全く目新しいものを感じさせた。彼は満十歳になったばかりだったのに、転々移動した地方は最早江西、京城、長安、四川、嶺南、・・・と多くを数え、ある面一端(いっぱし)であったのだ。北宋の前段階での二時代は未だ道学は一派しか無く、道学の学家は未だ勢いを得て無かったが、古代より久しい儒家思想の統治の伝統は疾っくに人々の心の中に「男女が席を同じうせず」の訓えを世の規律として植込み、男女が公然と行き来したり、交際したりすることは差し控えられていた。王益は比較的正統を自認する学者であったので、彼は子女に対しても厳格な男女間で負うべき異質の理念を持っていたのだ。然し、韶州の風習は異なり、大勢の男女は公然と交際し、夫婦でも無いのに人前で非常に仲睦まじいところを見せびらかすようなことがあったのだ。

 元々は韶州の地では漢人は少数派であり、六祖も初めの頃は自身南方で成長したが、元来北方の血筋を受け継いでいた。此処では殆どの住民が未だ『華』の文化の恩恵を受けて無いので、粗野な蛮地として未開の儘の素朴で古臭い暮らし方をしていた。六祖が初めて五祖にお目にかかった時でさえ「粗野な外国人だな」と嘆息したほどだ。

五祖はわざと不機嫌そうに言った。「真理について尋ねたいと言うが、
汝は単なる一介の呉諍(南人への蔑称)に過ぎ無いのに、如何して仏陀の
教えを求めに来たのじゃ!」

 六祖は直ぐに切り替えした。「確かに鷭諍に違い無いし、身分も和尚とは違うが、仏陀に対する思いは和尚と違うところがありませんよ」。

 五祖は此のように彼が鋭く突っ込まれても、即答出来たので彼を受け入れ弟子にした。勿論五祖は別に少数民族を軽蔑していた訳では無く、態と意地悪く質問して、六祖の素質を測ったのだ。五祖の眼鏡に適った六祖は軈て南方に帰って、仏法を広め、南方に文化を齎し発展させる為に、精魂尽して尽力した。百を超える野蛮な地を拓き、害虫を駆除して、暴風の向きを変える為熱帯の木々を伐採し、生臭い匂いのする生物を食べるのを止めさせ、悪い風習を改め、此の上の無い功を揚げたのだ。ところが浮世はそんなに簡単なものでは無い。人間世界は行い正しく、清廉に生きるだけでは面白味が無いのだ。清潔過ぎる押し付けの社会は息苦しく、発散の場が無く為るのだ。 多少毒の在る世間の方が面白い。否、好んで毒を飲む者もいる。雅に正道は長くは続かず、邪道は幅を利かせ易い。楽しいことをしたいと思うのは自然なことなので、お堅い風紀が変わるのをじっと待っていたのだ。案の定、六祖が亡くなり数百年経つと、広南の風習は元に戻って仕舞い、甚だしきに至っては仏教界にさえ邪悪が入り込んだのだ。

 庄綽《鶏肋編》の記録に拠ると、広南の風習では、市井の商人の取締りを僧侶に兼任させたので、逆に、多くの僧侶達は担当する商人が富を得られるように仕組むように落ち下がった。此れらの僧侶達は大抵の場合家族を持てたので、現地の女性は多く僧侶に嫁いだのだ。婚約したいと思う時には髪を下ろすので、結婚式の時は既に剃髪済みであった。市中で造った坊主の帽子は大変珍しい形をしており、平べったい円の形をして真中も円で刳り貫かれていて真中には被る帽子が無かった。元々此のようなお坊さんの帽子は簪(かんざし)代わりに重用したものであった。商家は、一旦家が裕福に成ると娘に嫁がせる。披露宴は盛大で北方人も出席したが、長い間待たされた後漸く新郎の娘婿が歓迎を受け乍到着すると、参席者全てが大声で「新郎が着いた、新郎が着いた」と囃し立て、北方人は既に長く待たされて、苛々しているところに囃し立てる声が湧き起こったので、急いで立って新郎を見ると目線の先に一人の僧侶がいるので大いに驚いて、

 一首の詩を作った:「行は世の中の四百州を尽くして、只、此の地は最も傑出している筈だ。夜半の赤い大きな蝋燭で結婚の宴を開き、被り物無しの新郎を迎える」。

 現地の貧しい家の女性は、年齢が十四、五歳から自分で嫁入り道具を準備し始め、準備が整うと嫁に行った。 女の子は自分の好きな男子を選んで、両親は決して関与し無いので婚姻に掛かる費用も負担し無くて済み、誰もが幸福に為った。
 男女の自由恋愛は当時として全く珍しく、亦歓迎されるべき風習であった。只僧侶に嫁ぐ習慣は決して尋常のものでは無い。見たところ仏教が俗世間を駄目にすると同時に、俗世間も仏教を駄目にして行ったのだ。広南の仏教は既に俗世間に同化されて利用されて仕舞っていた。事実、或る禿頭が妻と子供を設けて商業を営み金持ちになった和尚には、既に【仏教の味】なぞ何処にも感じられなかった。此までは民間の風俗がそうさせるのであったが、他方、宋の仏教の政策も迚も大きい影響を及ぼし、政府が「度牒」を売った為、和尚の職業化が進み、擬者で無い出家も金が無くとも度牒を買った。度牒を買う人も本当は坊主に成りたいとは思は無い者もいて、免税の為に多くの家族に身分を貸し出す者も出たが、将に此のことは朝廷が許していたのだ。

 韶州は六祖の説法の地で、此のような現象が存在することはあり得無かったが、併し、其れも広い南路やその周辺部にあっては、恐らく凶悪で俗っぽい種族が尚存在しただろう。此れより以前の官吏は大部分が民間の風俗がそうさせると思って、積極的に関与は無かったが、王益は我慢してはいけ無いと感じて、男女関係の乱れを厳しく取り締まり、公衆の場所で戯れ合っている者は罪を犯した者として厳重に処罰することにした。

 王益は「僧侶の結婚や男女互いに戯れる現象を如何したらやっつけられるか、或いは、したからには徹底してより厳しくすべきか、或いは、少し緩めるべきか」と、

 此の類の悪い風俗と雖、全く禁止した場合、却って悪い影響が出る恐れについても考えた。 王益の禁令は決して仏教の為に出すのでは無くて、彼は儒家の風化と政治の角度から只始めるだけで、併し、結果として六祖の法事の習慣を整えて、社会環境や仏教の尊厳を回復し、浄化することについても有益と為ったのだ。でも王益が男女の自由恋愛をすべて禁止したことは、素朴で、自然な民間の風俗を風化させ無くすことのみの意味しか無く、これが儒家の偏見を反映して為されたのは暴挙といえる。
 然し、単純にそう割り切れるものか。民族の風習も時代や環境に随い変化する。『辺境の地の自給自足の経済下で成り立っていた風習は、先進に侵された瞬間から抹殺されるべき運命と為る』のだ。詰り、『同化を強制される』のである(全く、米の伊拉(いら)克(く)政策を想像させられる)。翻って、伝統の風習に拘り続け、其の生活様式を維持し続けることが、却って人々を窮地に追い込んで仕舞うことも有得る。

 王氏と仲の良い近所のかみさんが何時ものように遊びに来た。王氏は人の話しを好く聞き、途中で話しを切るようなことは決して無いような性格であったので、世間では言え無いことまで王氏には話せた。其れが、喩え王氏の夫へのことでも。

 流石に、少し目を伏せながら上さんが「旦那様は家でお会いすると良い人なのに、役目となると此の地の慣わしを悉く変えようとなさるのは如何してなのですか」と不満を告げた。
 王氏は相手の目をしっかり見てゆっくりとした口調で「真意は本人でしか分から無いことですが、多分、其れは役目から来る義務感から、そう為さるのでしょう」と答えた。

 その優しい口調に安心して、今度はかみさんが王氏の目を見ながら短く言った。 「役目の義務感って?」。

 王氏が空かさず「旦那様は、自分の役目は、住民が安らかに過ごせるようにしてやることであると良く言っています」と答えると、上さんは「私の娘はもう十四歳にもなりますそろそろ婿さんを探す時期に来ています。相手は未だ見つかっていませんが、昔から私どもはいろいろな男と付き合う中で夫となる男を見つけて来たのです。その習慣が無くなって仕舞えば、娘は如何して婿を迎えられましょう」と今度は甘えるような口調で不満を告げた。
 

 王氏は暫らく返事に困って、今度は王氏が目を伏せ済まなそうな顔をした。

 王氏は類い稀な賢婦である。夫の深意が読めぬ筈は無かった。然し、此のことを根っからの南人に説明すると矛盾が生じる。詰り、王氏は、「王益の住民の為」とは凡そ次のように理解していたのだ。

 「少し極端な話しをすれば、支配者が変われば、その地の風習を住民自ら変えなければ、その風習が負担になり、逆に住民自身の生活が成り立たなくなる。 その支配者が厳格な法をもって望むならば、『食い扶持さえ稼げば生きていけた未開地も生活程度が高くなるにつれて家計が苦しくなる』。厳格な支配体制の下で紊乱な風紀を許せば結果しっぺ返しを住民自身が負うことになる」。

 然し此の論理は、お上さんには言い訳にしか聞こえ無い。「お宅の旦那は支配者の側に居るではないか」と。何時も、細々と面倒を見てくれる優しい呉氏の困惑を見ると、かみさんは何だか悲しくなって常時のよもや話に話題を変えた。

 王益の一家は韶州に三年居住した。此の三年間は王安石の成長にとってかなり重要だ。彼は此の時期、仏教の文化の重厚で奥深いことを感じただけでは無くて、書物を学ぶことを始めて、彼の初期の文学作品の創作も此の時始まっていたのだ。王安石は《与祖擇書》中で語っている:「あるは十二年学を生む」。これは彼が十二歳の時に既に系統的な学習を始めたことを証明しており、彼は若い頃の学習の内容は恐らく主に詩文で、其の文学の才気はもって産まれたもので、亦日毎苦しい努力したので、《宋史》は、「筆を飛ばすような勢いの速さで文を作っても、文として全く精妙を得たものであったのだ」と、此のような技量は常人の及ぶところでは無いと言わしめたのだ。

 王益は韶州で悪い風俗習慣を改めて、政治的業績は著しい。王安石は此の地にあって勤めて詩文や、同時に兼ねてから興味のあった仏陀の書を学んだ。韶州は彼らが彼方此方と流転する中で比較的に安定した拠点であって、若し、あの突然の出来事が無かったならば、王益一家は必要に駈られ更に韶州で居住し続けたかもしれ無かった。そうであったなら王安石が仏教の影響をもっと大きく受けられたので、生涯の仕事は断然大きいものとなっていただろう。 併し、王益と呉氏は正式な夫婦関係の二年目(1033)で如何しても故郷に戻らなければならなく成ったのだ。王益の父が突然亡くなって、当時の規定に基づいて、彼は必ず離任して故郷へ帰らなければならなくて、三年間喪に服することになったのだ。

四、少年は脱皮する

  王益にとって父の死は、悲嘆の極みであった。彼は親孝行だったので此れ迄任地に赴く時は何時でも両親を連れて歩き、一緒に暮して面倒を見て孝養を尽くしてきたのだったが、流石に四川に行く時は余りに遠い道程になるので、涙を飲んで両親を故郷に送って行ったのだ。此処数年間父の老いは停まったかに見えたことが、余計に王益に深い悲しみを齎したのだった。王安石は祖父と過ごした日々を想い出しては、止めども無く涙を流す日々が続いた。呉氏にとっても悲痛な出来ごとではあったに違い無かったが、一時の慰めがあったことも確かなことである。彼女は、此のことで暫く実家に帰ることが出来たのだ。
 昔は何処でも多くが、大家族の中で育てられたものだったが、代々が大家族として一緒に暮らすことが、子供にとっての人間形成に果す役割として見逃せない。屹度、王安石の場合には良い影響を与えたのであろう。
 王安石は故郷には何の感慨も無かった。誕生日は全て他所の土地で迎えるような環境で育ったので、彼は故郷に帰ったことが無かったのだ。実は、王安石は、此の三年間殆ど臨川の祖母の家で暮らしていたのだ。
 此処は風光明媚で、見渡す限り草と花、青く波打って青山は艶やかで、素晴らしい自然の景観は彼の作品の情熱を奮い立たせ、暫く山河を鑑賞して、文字で発憤させて、意気盛んで、思いの儘志を跳躍したのだ。
 父は彼の行動を一々干渉することが無かったので、彼は一段と自由を満喫し、洗練された時間を過ごせたのだ。

 王安石は《憶昨詩示諸外弟》の一詩の中で此処での生活を記述した。

    昨日此処で巡り会ったことを思い起そうと、春になって草花で賑わう谷に入る。
    寄り添う穀倉の数々は、青緑色の峰を冠し、沢山の紅花をつけた躑躅に相囲まれる。
    美しい花は草と入り混じり飽く迄美しく咲き乱れ、雀蜂と白蝶が舞い飛び交う。

 此の時少し勇気が湧くのを感じ、激情は日の光と輝きを争う。
 暇に任せて筆を弄び春景色と戯れ、人目も憚らず思うに任せる。
 博識の家柄として地位を持ち続けたいと思うならば、孔孟の如く貧しく飢え ることを承知しなければならぬ… …

 王安石も十三歳に成り、既に思春期特有の心の脱皮を強制されるように成った。彼は自分の父を模範にすることに反発した。王家は厳格な儒家として、慎ましく暮らし、禁欲的に日々を送ることを由としていたが、多感な時期を迎えた王安石には我慢が為らず、飛び抜けて豊かで、自由奔放な生活に憧れ、飛び級の出世をも夢に描くように為り、そのくせ一方では束縛されること無く詩を吟じ、文を編むことも望んだのだ。

 孔孟は彼の眼中に無く、学習の模範にならなかった。逆に端から馬鹿にしていたのだ。 王安石が此のように脱皮したことは一方では心身の発育過程の強制に逢ったもので、また彼の母方の祖父の家の環境とも関係があったかもしれない。呉敏は単なる一介の道子のみならず正真正銘の官僚でもあり、一門には三人の進子がいたので限りない誉れであった。呉家は王安石の家と完全に異なった生活振りであり、現実に豊かさの中で自信をもち、洗練された暮らしをしているのを看て、王安石は羨ましく思った。才知には長けているが食い扶持と自由を全部手にすることが出来る富貴に昇ることに憧れる生き生きとした生身の人間臭さが丸出しの少年の姿は、将来の王安石像と比較して、彼を身近に感じる思いにさせる。

 併し、こんな中で作られた彼の文章や詩の賦は、大夫の車と衣服に使われ、詩人の「ただ奇麗な思いの儘」と「高官が探求して止まない富貴」との間に隠れて内在する対立は容易に一致させることが出来るものでは無かった。現実が向かい易いものは俗っぽいのが相場であり、洗練されたものとは云い難いものであり、此の道の先にあるのは恐らく言わば蘇東坡のようであり、甚だしきに至っては柳永に良く似た王安石とも言え、此の頃の王安石が、後から来る聖人の王安石、更には改革派とも成った王安石と同一人物であるとは感じることが出来無いのだ。
 

一体、王安石の評価は、どの時点での彼に対してすれば良いのであろうか。

 王安石が惟ならぬ詩人であることは間違い無いが、一人の人間としての人物評価に措いて、歴史の巨大な渦に飲み込まれること無く天に上った孔子とは較べるらくも無く、勿論一代の奸賊として大いに憎まれている王莽なぞとは並べ較べらくも無い。歴史は後戻りすることが出来無いので、此の王安石の「回り道」は彼の気性の一遍を示し、詩的感性に満ちる王安石、頑固で我侭な王安石、持って産まれて才のある王安石と夫々相反する面を見せたのだ。
 此の時期の王安石には自らは言い出せ無いことがあったが、其れは公然の秘密であった。儒家の伝統の中には「愛情」という字句が無いので、中国人は昔から妻への「愛情」を夫の感情として認めることは恥ずかしいことであった。王安石も例外では無かった。彼が母方の祖父の家で「幽花媚草」の美に陶酔する時、「黄蜂白蝶参差飛」を静観する時、彼は一弁の「蕾」が今にも綻びようとしているのを「解悟花」で打ち明けているのだが、其れが軈て彼の夫人となる従妹の呉氏であることに気付くのだ。彼の夫人への感情は生涯一途であった。此の時期の夢心地の感覚は彼の心の中に残しておく素晴らしい特別な思い出として認められ、二人が協力し合って互いに和する礎になる。十三歳から十六歳までの間に、王安石が一時期の「脱皮の時」を経験したことと、今迄の家族の在り様が崩れたこととは、大いに関連があった。 彼の父の三年間に亘る喪が開けると、彼は昔日の日々暮らした環境に帰る外無く、第二の故郷を離れて、天涯の狐独な旅を始めたのだ。

 

「五、成長して学に勤しむ」に続く。

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