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天道の真髄は如何に?

【安倍晋三の出自を暴く : 第五十二談~「安倍晋太郎は背乗り?」】

2017-04-15 19:13:38 | 安倍晋三の出自を暴く

【安倍はとっくにナショナリストを捨て地球横断的階層化を目指す無国籍企業の手先に転向していた。】

 安倍晋三の名前に「三」が付くのは、父親の晋太郎が素性の怪しい伊藤忠の大蒜臭の瀬島龍三からも親しく教示を受け其の龍三に心酔していたことで、晋三の「三」の字も其の龍三に肖って付けたものとの説と、実祖母とされる安倍寛の妻だった静子が晋太郎を生んで80日後に安倍寛と離縁して西村謙三の下に走ったので、謙三の「三」を採ったものとの説とに分かれる。

 西村謙三は以前ネットのWikiに「西村真琴の次男である。」と書かれて居たが、西村真琴の次男は水戸黄門の西村晃であって、謙三は1861年(文久元年)の生まれで、真琴は1883年(明治16年)の生まれであって謙三は父親の誠より満22歳年上と成って仕舞う。 真琴に次男が二人居て、其の一人が父親より22歳も年上等とは有り得無い。然も、静子が安倍寛と離婚して謙三に走った時は、

安倍寛 : 1894年(明治27年)4月29日誕生

安倍 晋太郎 : 1924年(大正13年)4月29日?誕生

∴ 安倍慎太郎は安倍寛30歳の時に生まれた子であり、寛の妻は精々28歳位迄の年齢だったと推定されよう。

 詰まり、此の時、西村謙三は既に63歳であった? 静子と謙三にどの様な縁が在ったかは不明だが西村謙三は、

西村謙三

 出身地 肥前国(佐賀県西田代町) 文久元年9月13日生まれ昭和12年7月10日77歳で死去

 西村真琴の次男

 学歴 帝国大学卒

 大正-昭和時代前期の教育者,郷土史家

 各県の中学の教諭,校長をへて,郷里佐賀の成美高女校長を就任

  後、佐賀図書館長ののち,昭和2年鍋島家創立の徴古館長となり肥前史談会を創立

 著作に「古賀穀堂先生小伝」「鍋島直正公一代記」。

とあり、推定28歳の静子と63歳の謙三が結ばれた?のであり、静子はこのとき東京に住んでおり、謙三はこの時経歴から佐賀に居を構えて居たと思われるが、二人の結び付きは謙三より22歳年下の西村真琴が取り持ったものか?

 さて、西村真琴は、「西村愛護を作った後、1939年1月に中国に渡り、敵国である中国人の戦争孤児68人を、日本に呼び寄せた。子供達は、四天王寺が運営する養護施設で養育され た。太平洋戦争が始まると、状況の悪化が予想されたため、愛護会は順次、東京第一高校に進学した1人を除き、子どもを中国に帰国させ、67人が帰国し た1945年5月、愛護会は活動に終止符を打った。」と書かれて居る。終戦時、安倍晋太郎は21歳であった。

 安倍晋太郎は、山口中学校(現山口県立山口高等学校)に進学し、一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に岡山県の第六高等学校にに入学した後、翌年9月、僅か1年半で繰り上げ卒業となり東京帝国大学に推薦入学したが、同時に多くの特攻隊員を出した滋賀海軍航空隊予備隊に入隊した。因みに、西村晃は1923年(大正12年)1月25日生まれで、1924年(大正13年)4月29日生まれの晋太郎よりも一歳年上だが、学年は2年上である。西村晃は1943年に学徒動員で兵役にとられ、第二次大戦中は海軍飛行予備学生末期には徳島航空隊の特攻隊員だったが、出撃機不良で基地に引き返し、その後終戦を迎えたのだが、この特攻隊員時代からの友人に、裏千家15代家元の千玄室がいる。この時の戦友は千と二人しか生き残ってい無い。晋太郎と晃は同じ年の海軍入隊であり、此の前二人が互いに面識が無かったとしても、もしかしたら此の時会話を交わして居たかもしれない。

 当然、晋太郎は終戦時生きて無かったと考えるのは成り行きに叶う。すると、生き残った晋太郎は何者?

 晋太郎?は、太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業し毎日新聞社に入社(西村真琴は大阪毎日新聞(現毎日新聞)の学芸部記者の後、大阪毎日新聞社会事業団(現毎日新聞大阪社会事業団)の幹事に就任し、やがて常任理事となった。)。その間1946年(昭和21年)1月29日父寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去した。

 晋太郎は「山口中学校に進学して、母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わ無かった。」とWikiに書かれて居るが、滋賀航空隊に入隊した後のある時期から、もし彼が父安倍寛や大伯母ヨシと一度も会って無ければ以降書く我の推測も強ち無碍に否定出来無いことでは無いだろうか。 更に、会っていたとしてどこかに書かれていても・・・・・

 晋太郎が、実は上に書かれた「東京第一高校に進学した1人を除き、」の一人であるとして、「多くの特攻隊員を出した滋賀海軍航空隊予備隊に入隊した」後、特攻して戦死していれば、其れ以降の安倍晋太郎は、西村真琴が中国から連れて来た漢人或いは満州人、将又朝鮮人の「背乗り」である可能性は大きい。

 安倍寛と静子は謂わば美男美女のカップルで晋太郎の様な垂れ眉のブ男は両親ににて似つかず、何方かというと西村真琴に似て居る。

 実は、西村姓は佐賀藩士で殉死した秀吉軍が連れて来た朝鮮族の浩然 の子孫達の洪一族が姓か西村姓の何方かを名乗る姓であり、西村謙三は高校膳の10代目である。 当然、西村真琴も洪浩然 の子孫と推測されるが、謙三と真琴の本当の関係は分から無い。

 処で、謙三には西村正雄という子供が居るとされ、此の人物のことは、

 

【安倍晋三は実は国民年金積立金を政権維持の為に横領して日本を取り戻す。】

に書かれているので参照されたい。 何故、朝鮮族の此の男が人臣を極めるこ様な大出世が出来たかはGHQやCIAの危険な日本民族パージに拠るものである。

 岸信介や安倍晋太郎・晋三親子の容貌は南鮮に屡く見られる南鮮男児の面影は無いが、北鮮の金一族の手下の高位の軍人には結構見られる容貌である。

 安倍晋三の鮮族好き々大好きは尋常なものでは無い。 其れを否定する輩はマンセ~♪安倍に寄り添う似非保守擬きに必ず間違い無い。


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