魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第一巻~第一話 狢未だ虎を獲ず】 其の3

2017-04-04 13:35:20 | 魂魄の宰相の連載

五、成長して学に勤しむ

 景祐三年(1036)、王益は喪に服することを終えて、上京して報告をする。王安石は父に従って行くことに不満で大いに不機嫌であったが、離れ難い烏石の水辺から仕方無く遠い旅に出る。十六歳の王安石は京城に到着しても、中級以下の官吏の子弟の類は京城では居場所が無く、此れといった感慨も無いが、併し一生の友と成る曾鞏(1019~1083)と知り合いになれたのは、彼の此の度の旅に迚も大きな収穫を齎したのだ。

 曾鞏、字の子固、建昌の軍南の豊県(今江西省の南の豊県)の人、如何やら王安石と同郷の人ではあったが、然し王安石が家にいる日月が甚だ少なかったため、知り合うことが出来無かったのだ。二人は京城で始めて出会ったのだが、直ぐに意気投合し旧知のようであった。

 蛮地とも言える異郷を流転し、或いは暮した王安石には、学の合間街に外出した時に視た都の尋常で無い喧騒や街並みの華やぎは、珍しく驚嘆すること頻りであったが、其の賑わいとは無縁の寂寥感に胸が澱み、居た堪れない気持ちに為っていた。此の京城には知り合う友がいるべくも無く、益してや異国訛りの言葉では街で言葉を交す事すら億劫であった。

 何時の間にか、街の喧騒から離れていた。 道の両脇の喧騒の街並みは悉く無くなり、散在する民家の間の疎らな草地からは粉のような土埃が舞い上がっていた。学の疲れを癒すだけの散歩の積りが、結局思索に熱中し気付くと帰宅の道にも戸惑って仕舞った。生垣で囲った小さな庭の廬に人影を見つけ、王安石は生垣越しに声を掛けた。自分よりも二つ三つ年上の日焼け顔した青年が家から出て来て、親しみ易く王安石に近づいた。王安石は一瞬で何か触れ合うものを感じた。

 数日経って、王安石が学に疲れ、生き抜きに何時ものように喧騒の中を遊歩していると、当時人気の庶民文化としての簡単な筋書きで歌い踊る狂言のような雑劇を上演する瓦子(芝居小屋)の前で、自分と同じ南人訛りで話していた曾鞏にばったり会ったのだ。二人は過日一瞬間言葉を交えただけなのに互に心から再会を喜んだ。折しも夕暮れ時で腹も減っていたので瓦子の隣の茶屋に入った。其処はだだっ広い空間に客が溢れ、隙間を縫って十数人もの店員が走り回っていた。ざわめきが耳を遮ったので、二人は顔を寄せて話さなければならなかったが、其のお陰で二人の会話も他人に悟られることも無く、持論を吐露する良い機会を得た思いがした。

 始め政治談義を曾鞏が嗾ける。

「昨今の政を如何に想う。」

 王安石は一気に答える。

「儒、道、仏の立場は其々であろうが、『人は如何に生きるか』亦『如何に生きるのが幸せか』ということを教えるものが倫理や道徳であると思う。政治は此の本筋を実践するものでなければならない。何故なら多くの民が不満を持ち一人一人が勝手に生きようとする社会では国は成り立たず、軈て彼方此方に反乱が起き、時の政権は倒れる。社会に不満が多くあれば犯罪が多発し、厭世観が広まり、世は乱れ、疲弊する。また、多くの者が諦め、よしんば良とすることを認めるならば、社会は停滞する。一部の有能な者に社会を引っ張らせることが、結果、民衆全体を潤すということを唱える者もいるが、人は犬や猫では無い。 飼い猫や飼い犬はいるが、飼人などあってよいものか?昨今のように一人一人が尊厳を感じるように成った世に大きな格差を感じたならば民衆は黙って無い。宋代になって稀には庶民層でも浮かび上がる機会がある世の中に成ったが、極恵まれた環境にある庶民に限られる。政治が社会のあらゆる方面に「口出し」している以上、敗者復活など有得無い。 また、折角多い人口を抱えていても最大に衆知を集めることも無く、一部の者しか世に出る機会が無いならば、隠れた多くの賢人が世に出る芽を摘まれて仕舞う。此れでは世の中の進歩を停めて仕舞うではないか。 いや、実際宋朝も長く無い何ていうことに成って仕舞う」。

 曾鞏は頻りに感心して大きく頷いた。

 曾鞏の《寄王介甫》の一詩は二人の始めての出遭いを記述する:

 「思い起こせば昨日に国都の土埃を行く、隠棲の家で最初に知り合う。
 秋日に暖簾を潜り、客の厨に留まって共に食べる。
 古今の説紛々し、限定せずにどんなことでも話題にする。
 官吏は枝葉末節に拘り、推し量って役立つことの無いものを捨てる。
 奮い立つ轡尚早く行き、首魁分けて初めて興北を学ぶ。
 初冬に憩う海辺の夕暮れ、夜は坐して書物から策を探る。
 君文に始まって読む、職人頭鋏と物指しに感謝する。
 周孔は日既に遠くて、壁を逃回り通して失う。
 百装って責め始めることを提唱して、冠の裾は邪悪に実るろうと期す。
 君の資質は魁と信じて、死刑を廃し恣にする。
 例えば川は流れ混乱の儘、東海は積むに任せる。
 例えば極度に高く登り眺めれば、万物春色を著す。
 孟韓の極めて僅かな後に、文人が大難を受ける。
 昨晩予め見ていたが溜息ばかりで、反対にひっくり返しても解釈すること出来ず。
 思慮無しに周りの壁を塞げば、智謀も救えず迷うだけ。
 ……」

 曾鞏は王安石より二歳年上です、彼は素晴らしい散文家であり文学者であったが、また、終生変わらぬ純粋な儒学士であった。 二人は秋に京城で知り合って、一緒に食事をして、遠慮も構えるところも無く論語を議論出来たので、お互いに早く会えば良かったと思うところが沢山あった。曾鞏は京城に来て受験したのだが、然し彼の文学の才気は認められず、王安石と別れると直ぐに、肩を落として帰るしか無かった。其年の冬、彼は王安石の送ってくる文章を読んで、大いに称賛して止むことが無かった。

 「まるで満々とした大洋が恣にうねり動く如く、まるで東支那海を目前にしたような錯覚に落ちた。春色満目、例えば泰岳に登るが如。其れが縦横に議論するのを見て、職人頭は裁ち切り難く、孟韓の後、唯此の一人 」。

 曾鞏は腹蔵無く意見を言う人で、無批判に十六歳の少年を煽て上げることはあり得無く、彼が王安石の文章に対して此のような高い評価をしたのは、其の文学の才気が確かに一般と異なることを表明している。

 勿論、曾鞏も王安石に対して自分の期待を婉曲に表したので、周公に距離を持つことは、孔子と益々遠く離れることと考え、百家が大通での処刑の時に競い起っても、彼だけは文章の取るに足りぬ小道具だけに関心を持つべきで無くて、孟に続いて韓の志、これが生涯の不正を救うので、彼が始め残すべきものは儒学に奮い立つことであったのだ。

 此の度の曾鞏との縁は王安石の以後の行く末に多大な影響があった。彼が懸命に自身の文章や儒家の学術を軽蔑してきた行為に対して改めて考え直す契機にも為ったのだ。

 劣年の春、王益は江寧の通判に任命されていたので、王安石はまた建康へ赴任する父に随った。
 長江の中流の采石の岩場上で、東に滔々と流れ、勢いよく進むことを止めること無い江水を眺めて、彼は思わず孔子の「逝者如斯夫」の感慨を思い出した。

 また西に下る夕日を眺めて、こうして「一日がまた彼方へ行って終うのだなぁ・・・」と嘆息し、また、「月日が経つのは速くて、人生は絶えず遷り変る。青春時代は日々流れ去って仕舞い、雅かこうして一生を無駄に送って仕舞うのか?曾子が自分よりたった二歳年上なだけであることを考えてみても、もっと前から大きな夢を持てば良かったし、国の為に重責を担えるように懸命に努力を重ねよう。自分善がりに字句を弄り廻し、遊び半分に日々を送って来て仕舞ったことを悔やむ。今後如何する?自分が年をとった時の将来は如何になる?」と一人感慨に耽る。

 暫く、王安石は人が変わったように、急に成長した。彼は結婚や葬式などの祝儀不祝儀への出席する回数を減らしてまで、家に閉じ篭ることが多くなり、日毎読書に没頭した。彼は読書三昧を決め込んだ為に頭が白くなる迄本を読み耽ろうとしたのでは無く、実社会に役立てようと努力したのであって、軈て其れが実を結び契和の後の五穀の神に匹敵する偉業を成し遂げて、歴史に名を残すことに成ったのだ。

 成長するに連れて王安石は儒家の学術に注意を傾け始めて、学問を研究したが、然し一つのことしかし無い融通の効か無い偏屈な儒者のようにはなりたく無かったので、彼の読書の範囲は極めて広く、儒家の古典的著作以外、「諸子百家の本から、《難経》、《素問》、《本草》、諸小説に及んで、読まない所が無い」などと諸部門に亘り、勿論仏教の経典も含んでいた。
 王安石が読書に没頭する其の時、王家に更に大きな災難が降懸った。彼の父、一家の大黒柱の王益が亡くなったのだ。王安石《想昨詩》は臨川から江寧までの彼の経歴について記載した。
 
 「二人の人が京国を歩いていたら、埃が巻き起こり着衣が汚れた。
 来年建康の官吏に乞われ、四月に船を江上の磯に引く。
 日常の感慨は忽ち目が覚めることから:青空に日光が止まること無く煌く。
 未だ少壮の男子は功名を遂げることも無く、此のように極まった老将軍の帰還を阻むように? 慶弔を辞し図書を吟詠して、室にひっそり坐して伊威を育む。
 資質が運命を疎んじて仕舞ってから、五穀の神との契約とに隔たりを望む。
 広大な天空は一朝に災いを与え、先に子が誰によってかき消されるのか!」
 
 王益が于宝元の二年(1039)の年に突然亡くって王安石一家は間違い無く壊滅的な打撃を受けた。 家族の全てが王益の俸禄に寄りかかってのみ生活出来ていたので、唯一人の家の拠り所を突然失って、忽、家の経済は破綻した。父が逝去して王安石は人生が苦しみであること存分に味遇わされたと同時に、此れ迄以上に一生懸命に為って本を読むよう自身を追い込み、早速、高科を狙って、一家を支える決心をしたのだ。

 父が亡くなった後に、王安石は二人の兄の安仁、安道と一緒に入学して各位に成った。 此の時に、彼は親しい友人となる李通叔と始めて知り合い、亦慧礼などの僧侶をも知った。金陵は六朝の古都で、更に南唐の都で、大きく名刹の寺が極めて多く、多くの有名な高僧もいた。 濃密な仏教の雰囲気の中で、王安石は多くの滋養を受け、彼は人生が絶えず変わることを知って仕舞っていたので、死去した者を何時までも思い悲しみし続けることは無かった。父は雅に逝去する祖父を追慕して悲哀の極みに至って仕舞っていたので、その為に自分の体も壊して仕舞い、結果間も無く亡くなって仕舞ったのだ。彼は此の教訓を確り受け止めた。人生は苦しいことが多く、人生のなかで苦しい時期は、無事にやり過ごすことに徹し、無理に彼此することは避けるべきであるので、彼は “三年厭食鐘薇”の貧しい生活に耐え忍んで、尚一層自分を戒めた。苦学して数年経った後、王安石の学問は極みに達した。 遂に二十二歳で高等の科挙試験を通って進士に成ったのだ。 此の時期に新たな段階へと入ったのだ。

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