つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

今日は父の日(平成29年度版)

2017-06-18 11:07:51 | 仏教・禅宗・曹洞宗
今日は父の日である。それで、拙僧的には仏祖の父に関して記事にしておきたい。端的には曹洞宗の高祖・道元禅師(1200~1253)に関する記事としておきたい。

拙僧つらつら鑑みるに、この辺は以前、【道元禅師の「育父」の話】という記事で書いておいたので、その再度の主張に留まるけれども、道元禅師の俗親に関する検討は、相変わらず混乱しているように思う。特に、道元禅師の「育父」に関する話は、もう少し慎重に検討しておくべきだといえる。

そもそも、道元禅師の父親が誰であるか、という話は、江戸時代まで詳しく分からなかった。江戸時代に入り、永平寺35世の版橈晃全禅師が、自著に於いて、道元禅師の父親を「源通親」(1202年没)としてから、他の説も含めて検討されるに到ったのである。通親説が根強いのは、江戸時代最大の学僧であった面山瑞方禅師の『訂補建撕記』に、この通親説が採用されたこともあると思われ、現在でもまだ、通親説に固執する人はいる。

だが、それについてはやはり、通親説であるとすれば、道元禅師の古伝に於いて、「三歳に父親が死去した」というような文脈がなくてはならないと思われる。ところが、道元禅師の古伝では、8歳の時に死去した母親のことについては出てくるけれども、父親の死去については出てこないのである。

そうなると、道元禅師が僧侶として一人前になり、最早、その死が禅師の人生に大きな影響を与えない段階まで父親が生きていたと考えるのが妥当である。そういうことを考えた時、道元禅師自身が行った「父親への供養」が気になるのである。

 源亜相忌の上堂に、云く。父の恩に報ずる、乃ち世尊の勝躅なり。知恩報恩底の句、作麼生か道ん、「恩を棄て早く入る無為の郷。霜露盍ぞ消えざらん慧日の光。九族生天、猶、慶ぶべし、二親の報地、豈、荒唐ならんや」と。挙す。薬山、坐する次いでに、僧有りて問う「兀兀底什麼をか思量す」と。山云く「箇の不思量底を思量す」と。僧云く「不思量底如何思量」と。山云く「非思量」と。
 今日、殊に這箇の功徳を以て報地を荘厳す。
 良久して云く、思量兀兀、李と張と。談玄を畢えんと欲するに、又、黄を道う。誰か識らん、蒲団禅板の上、钁湯炉炭、自から清涼なり、と。
    『永平広録』巻7-524上堂


ここでいう、「源亜相」という人に対し、道元禅師は「父の恩に報ずる」としており、また「二親の報地」という表現をしているからには、実の親、端的に父親だったのであろう。それでは、この「源亜相」とは誰か?という話になるのだが、この「亜相」というのは、当時の貴族の位階で、大納言であったとされる。いわば、最終官位が大納言で死去した人を指しているのだが、道元禅師の俗系である村上源氏で、時代的に重なるのは、以下の5人とされる。

源通資(通親の弟)~1205
源雅親(通資の子)1180~1249(1250?)
源通具(通親の次男、堀川家)1171~1227
源通方(通親の五男、中院家)1189~1239
源通行(通親の六男)1202~1270


この内、道元禅師が1200年に生まれたことと、古伝の様子から道元禅師が或る程度の年齢になるまで生きていた人だと考えると、実父の可能性があるのは源雅親か源通具しかいない、といえる。それではどちらだ?という話になるのだが、先に挙げた「源亜相忌の上堂」が行われた時期を考えてみると、分かると思われる。そもそも、この上堂が収録された『永平広録』は、その大部分で、説法などが行われた順番に並んでいる。それで、巻7-524上堂の前後はどうなっているかというと、以下の通りである。

中秋上堂・・・巻7-521上堂
  ・
上堂、今朝九月初一・・・巻7-523上堂
源亜相忌上堂・・・巻7-524上堂
  ・
  ・
  ・
開炉上堂・・・巻7-528上堂


ここから、旧暦・建長4年(1252)9月初旬に行ったことが推定される。それで候補者お二人の死去年月日(旧暦表記)を考えると、以下の通りとなる。

源雅親:建長元年12月5日
源通具:嘉禄3年9月2日


如何だろうか?9月初旬に、その忌日に因んで供養を行う対象としては、源通具が相応しいことが分かる。まずは、これでこの議論は決着が付くといえる。だが、もう少し詳しく道元禅師のことを学んでいる人からすれば、いや、道元禅師は「育父源亜相」という人に対しても、上堂を行っていたはずだ、と主張することだろう。そこで、内容を確認しておきたい。

 育父源亜相の為にする上堂。
 永平の拄杖、一枝の梅。天暦年中、殖種し来る。
 五葉、聯芳、今、未だ旧りず。根茎果実、誠に悠なる哉。
    『永平広録』巻5-363上堂


この内容なのだが、いや、これ、源通具のための上堂なのだろうか?非常に疑わしい。まず、これが行われた時期を推定しておきたい。『永平広録』の順番から、以下のように推定される。

臘八上堂・・・巻5-360上堂
雲州大守応書写大蔵経安置当山之書到上堂・・・巻5-361上堂
大蔵経応書写于当山之由、太守悦書重到上堂・・・巻5-362上堂
為育父源亜相上堂・・・巻5-363上堂
  ・
  ・
涅槃会上堂・・・巻5-367上堂


ここから考えると、「為育父源亜相上堂」は、建長元年(1249)12月8日以降、その月内に行われた可能性が高いといえる。ただし、この年越しの時には「新年の上堂」が記載されていないから、本上堂が年を越していた可能性もあるけれども、どちらにしろ、9月に死去した源通具のためのものとしては不自然である。そして、一番の不自然は、この上堂は「忌日」に行ったものとは限らないということだ。タイトルには「為育父源亜相」とあるのみで「忌」が無いし、内容も供養とはおよそ思えない。

よって、この「為育父源亜相上堂」とは、源通具とは別の「源亜相」のために行ったと考えるのが妥当であり、しかも、この時まだ生きていたのではなかろうか。そう考えると、これは源雅親に対するものであった可能性もある。ただ、雅親はちょうどこの頃死去しており、そう考えると、道元禅師の下にまだ、死去の知らせがなく、もしかすると、事前に危篤の知らせくらいが入り、その「雅親の悠なる」ことを願っていたが、結果としては上堂が行われる前に死去していた、と考えることも出来る。

それに、通具と別の人が「育父」であったと考えると、通具が育父(育ての親)であったかもしれないから、実父ではない、という議論自体がなり立たないから、結果として通具実父説が強固になるともいえる。

以上、父の日に因んで、道元禅師の俗親に関する記事をまとめ直してみた次第である。読者諸賢の参考になることを願うばかりである。南無高祖大師、合掌。

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