つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

『正法眼蔵』に於ける「記号」について

2016-10-16 10:57:11 | 仏教・禅宗・曹洞宗
もし、「記号論」とかそういう現代哲学的問題を考えた方がおられるとすれば、実に申し訳ない・・・全然、そんな話では無い。とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。

雲箇水箇、真箇の参究を求覓せんは、切忌すらくは、五家の乱称を記持することなかれ、五家の門風を記号することなかれ。
    『正法眼蔵』「仏道」巻


道元禅師は、禅宗五家という風に宗派を分別する発想を否定する面があったことは否めない。それは、著作の上では最初期といって良いものから同様であった。

ときに、六祖に二位の神足ありき、南嶽の懐譲と青原の行思となり。ともに仏印を伝持して、おなじく人天の導師なり。その二派の流通するに、よく五門ひらけたり。いはゆる、法眼宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗なり。見在大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、ただ一仏心印なり。
    『弁道話』


ただし、一方で、【瑩山禅師と「曹洞宗」呼称問題について】という記事で書いたように、「洞山宗」自称の可能性がある以上、担板漢的理解をして良いわけでは無い。とはいえ、「五家」という分別については、否定的で、肝心なところは、「五家ことなれども、ただ一仏心印なり」という悟りの上の事象に還元することである。そうすれば、分別は意味をなさないのである。

話を戻すが、道元禅師はこの「五家」について、まともな修行者であれば、記持したり記号したりしてはならないとしている。記持とは覚えること、そして、「記号」の意味は、名称を記すというような意味である。宗派の号を記すの意味といえる。その上で以下の一節も見てみたい。

かくる法は、臂にかけたりつるがごとし。もし九条・七条等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併すべし、倉卒になげかくることなかれ。よくよく記号すべし。記号といふは、浄竿に字をかけり。白紙にかきて、月輪のごとく円にして、浄竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字にわが直裰はおけりとわすれず、みだらざるを、記号といふなり。
    『正法眼蔵』「洗浄」巻


こちらでも「記号」という語が用いられている。なお、文脈としては、東司(トイレ)に行くとき、我々僧侶は身に着けている衣服の一部を脱ぎ、トイレに入る途中にある竿(浄竿)に掛けておくのだが、そこで、皆同じような形・色をした衣服であるために、掛け方をいい加減にすると、どれが誰のか分からなくなる。よって、そうならないために「記号」すべきだというのが、ここの教えなのである。

よって、この場合の「記号」とは、「浄竿」に字を掛けておくことで、その場合、白紙に字を書いて、輪っかにして列を作るべきだというのである。そこで、自分がどの字のところに掛けたかを忘れずにしていれば、衣服を間違うことは無いということになる。実は以前、或る御老僧から、今でこそ、何にでも字を書かされるが、本来僧侶の衣服には、自分の名前などを書くべきでは無いと教えられたことがあった。その時は典拠が分からなかったが、なるほど、この一節を見れば良く分かる。上記のような「記号」の措置は、もし衣服の方に名前が書いていれば、不要なことである。ただ確認すれば良いのだから。だが、衣服に名前が書いてなければ、「記号」が必要になる。

その御老僧は、衣服に名前が書いていないことを、ここから(或る意味、逆説的に)読み取られたのだろう。

ということで、「記号」という言葉に因んで、ちょっとした記事を書いてみた。

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