つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

仏道修行と信心について(『伝光録白字弁』「峨山禅師章」参究12)

2017-03-30 06:52:30 | 仏教・禅宗・曹洞宗
連載としては12回目となる。前回は、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)が提唱された坐禅観の真意について、石川素童禅師が提唱された教えを見てみたが、今回は仏法を学ぶ意義について説かれておられるので、それを見ていきたい。

 誤りて仏法を売弄して資生の料と為し名利の具となさんが如き邪見あらば、決定して堕獄の罪を招くことあらん。只だ当に身心を仏法に放捨し去らんことを願ふべし。一志堅固にして不退ならんには仏法決して我れを捨てざるなり。設ひ一日に千万言の経を読み咒を誦するも、若し大信心なからんには酔婆羅門の出家を望みたらんが如し。些子の浄縁に触るゝことはあらじ。仏法を体得することは夢也未見在なり。設ひ仏衣仏鉢を受用することあるも、道念の取るべきなからん者は、却て法罰を蒙ることこそあれ、争でか会得仏法の霊験あらん。又、争でか済度衆生の功徳を現前することあらん。
 今の世の相を観ずるに、人正信に乏しく好みて闘諍を事とし、名鞋利鎖に累らはされて冥きより冥きに入り、三毒に悩まされ五濁に穢され、徒らに世智に走りて正慧に昧く、逸楽を望みて道業を重んぜず、因果を説くと雖も因果を怖れず、倫常を談ずと雖も倫常を敬はず、異域の風化に風化せられて、遂に国威の損減を招かんとす。誠に悲むべきことならずや。
 仏祖の児孫は宜く四弘の願輪に鞭ちて此の患難を抜済せんと経営すべし。是れ実に報謝の正道にして仏祖の行持なり。禅は超世の法に非ずして済世の道なり。己れ若し道心なからん、何に由りてか此の行持力を周旋すべき。
    『伝光録白字弁』「附録」22~23頁、読みやすく段落・文字等を改める


この一節からは、正直、不要かな?と思うことまで読み取ってしまいそうになる。本当に、当時の仏教者は、国からの無茶な戦争礼讃強制に対し、どうやって抗おうとしていたのかな?と思う。拙僧はユマニストという態度を通して、例えば、本気で無茶なほどに戦争反対をした人については、余り共感できない。まぁ、戦時教学研究を行うような人からすれば、そういう反対者のみが「正義」なのだろうが、拙僧からすればむしろ、或る種のサボタージュ気味に反対の態度を表明した人、或いは、普段の生活の中で、明確に反対しないけど、強制されて地味に礼讃する、位の態度を採っていた「普通の人」に共鳴できる。

何故ならば、おそらくはほとんどの場合、そういう態度だったと思うからだ。そして、そういう人は勿論、記録には残らないから、仏教者の戦争責任を声高に訴えたい人は、「日本の仏教者で戦争を反対した人はいなかった」とかいう暴論を吐く。拙僧は、そういう暴論を吐く人間を嫌悪する。理由は当然で、今の時代は平和主義的な態度こそが正義とされるから、戦争礼讃を批判している。だが、正義の価値観が変われば、その暴論を吐く人間は、今度は変わった果ての正義に基づいて、同じ様な暴論を吐くに決まっているのだ。

よって、拙僧は、そういう正義そのものをアイロニカルに見つつ、ユマニストの態度を採り続けるべきだと思っているわけである。そして、おそらくこういう態度は、何かが間違っている。でも、間違っているということは、自分に対しても疑問を持ち、反省することが可能となる。正義にただ立つ人は、自分に疑問を持てないし、反省が出来ない。その結果、誤っていても変化することが出来ない。正義や善は、悪よりも悪だというのはこの一点による。

それで石川禅師の仰ることはどのようなことだったのだろうか。ここでは、仏法をもって人に教えを説き、自分が生きる糧にするのは、地獄に堕ちることになるよ、と述べている。拙僧つらつら鑑みるに、拙僧自身このことが正しく自覚できているかどうかを、常に問うている。何だかよく分からない間に、拙僧は今の立場になっている。そのため、例えばどこかにお話に行ったり、研修会や講演会に出講するとしても、それによって食べていこうという気持ちは無い。それはまさしく、「誤りて仏法を売弄して資生の料と為し名利の具となさんが如き邪見」だからである。それに、自分の意見を他人に聞いて貰えるというのは、或る種の快楽を招く。よって、人前で話をするというのは、常に名聞利養に繋がる危険があることだと思わねばならない。だからであろう。瑩山禅師は、以下のように説かれている。

好んで説法教化することを得ざれ、散心乱念、是れより起こる。
    『坐禅用心記


どうしても、説法や教化は、聴衆を「他」として捉え、そこに合わせようとしてしまう。その結果、自らの禅定が途切れてしまうという問題が起きるのである。でも、確かに、提唱って本気でやると疲れるからな・・・ただの解説とか、説明なら幾らでも出来るけど、提唱は難しい。体力が要る。

さておき、石川禅師が仰っていることとは、仏法を説くことを自分が生きる糧にするな、ということ。そして、当時の人々は、諍いが好きだけれども、それに仏教者は乗ってはいけないこと。また、自分自身で、善き人となる道を説くのであれば、言行一致させること。最後に、仏道者であれば、正しく四弘誓願を基本に、万事救済活動を行うべきこと、等が理解できる。

それで、あと、拙僧的に気になったのが以下の一節。

是れ実に報謝の正道にして仏祖の行持なり。禅は超世の法に非ずして済世の道なり。

まず、前半については『修証義』「第五章 行持報恩」に関連している。石川禅師は、提唱・説法にしばしば『修証義』の文脈を用いられる。また、後者については「超世」と「済世」で分けているけれども、この辺『弁道話』の記述と、どう整合性を付けるか迷う。だが、おそらくは、道心があれば、禅は済世になるという話なのだろうと思う。普通、禅は「超世の法」だと思われているが、それだと、仏教者が批判されがちだった当時、中々受け入れられなかったのだろうと思う。

それに、国威云々という文脈も、まさに石川禅師が苦心されて説かれたものであろうと思う。最終的には道心で全てを片付け、しかも、仏祖のあり方を示そうとされるのだから、途中の文脈についてはやはり、或る種の国家向けの余談だったと見ていくべきなのだろう。

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