つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

昨日は立夏だったらしい・・・

2017-05-06 11:06:10 | 仏教・禅宗・曹洞宗
昨日は立夏だったらしい。何だか、例年、今日5月6日であった気がしていたので、すっかり失念していた。まぁ、失念していなくても、昨日は端午の節句だから、ブログの記事にはしなかったと思うが。

それで、夏に因んで1つ、記事を書いておきたい。

九十日為一夏は、我箇裏の調度なりといへども、仏祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆえに、仏仏祖祖嫡嫡正稟して今日にいたれり。
    『正法眼蔵』「安居」巻


道元禅師が、黄龍死心(1043~1111、臨済宗黄龍派)の言葉を引いて仰る「一夏」とは、夏安居のことである。よって、我々は「夏」という言葉を聞くと、この夏安居が思い出される。この安居とは、インドで釈尊が定めた制であるとはいい、九十日間外遊せずに、叢林内にて修行に励むという。

だが、このようにいうと、安居とは、かつての釈尊が或る時に定めた有限的事象となる。

しかし、我々にとって安居とは、仏行であり、仏制である。そうなると、「仏」とは普遍的事象であるから、仏行・仏制たる安居もまた、普遍的事象となる。この場合の普遍的事象とは、我々の分別に於いて捉えられないということである。よって、道元禅師は、「我箇裏の調度」であるとした。ここには、安居とは常に、修行者による当事者的関与が不可欠であることをいう。

ただし、そのようであっても、仏祖がその時始めたのではない。安居とは、一種のネットワークとして、伝統・伝灯に開かれることで、歴史的・空間的な限界を突破する。よって、仏祖が初めて作ったのではなく、仏仏祖祖が嫡嫡に受け継いで今日に至るし、これは未来に対しても行われゆく行だといえる。

この嫡嫡の受け継ぎがなされる理由は、そもそも受け継いでいく事象が、普遍的事象だからである。普遍であるが故に限界が無い。そうなると、どこかから始まり、どこかで終わることは無い。我々は、身口意の三業で作ってきた罪がそうであると「懺悔文」にて習う。だが、この身口意とは同時に、我々が仏道と感応道交していく源泉でもある。よって、この身口意のなせることは、一方で悪事となるが、一方で仏行ともなる。

問題は身口意による行を、如何にして仏行へとしていくかである。例えば、道元禅師は以下のように述べる。

しかあれば、夏安居にあふは、諸仏諸祖にあふなり、夏安居にあふは、見仏見祖なり、夏安居、ひさしく作仏祖せるなり。
    同上


いわば、夏安居に随喜し、自らの身心をそこに投じ、そして仏祖とともに行われゆくところに、作仏祖は久しく行われゆくのである。よって、夏安居という開かれたネットワークに参加し、そのネットワーク的修行の中で我々の身心が仏祖化していくとも言い換えられる。その時、基準の1つは、正師に出会うことと、その会下の僧衆の修行が正修行であることをいう。そして、正修行とは、特定の行を「選択」するのではない。ただ無分別であることをいう。

無分別に夏安居に随喜し、そのままに後代に伝えていくことが、安居の嫡嫡相承である。無論、後代に伝えるとは、開かれたネットワークシステムとしての安居を、そのままに行うことである。安居に参加するには、ただ比丘・比丘尼であれば良い。そして、優婆塞・優婆夷という在家二衆は、この僧侶二衆を支えることで、またネットワークシステムへの参加が可能である。僧俗問わずに、四衆の夏安居の結果は、仏道を得るという功徳をもたらす。

そして、昨日から、そういう「夏」が到来した。いや、安居によって夏は夏になるともいいうる。修行の好時節である。

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