つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

道元禅師帰山の上堂

2017-03-13 09:05:21 | 仏教・禅宗・曹洞宗
宝治2年3月14日、道元禅師は永平寺にて帰山の報告をされた。

 宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に云く。
 山僧、昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。這一段の事、或いは人有って疑著す。幾許の山川を渉って、俗弟子の為に説法する、俗を重くし僧を軽んずるに似たり、と。又た疑わく、未曾説底の法、未曾聞底の法有りや、と。然而、都て未曾説底の法、未曾聞底の法無し。只だ、他の為に説く、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、抛塼引玉のみなり。
 然も是の如くなりと雖も、這一段の事、永平老漢、明得・説得・信得・行得なり。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。
 良久して云く、尀耐、永平が舌頭、説因・説果・無由。功夫耕道、多少の錯りぞ。今日、憐むべし水牛と作ることを。這箇は是、説法底の句、帰山底の句作麼生か道わん。
  山僧、出去半年余。猶、孤輪の太虚に処するが若し。
  今日、帰山、雲喜ぶ気。山を愛するの愛、初めよりも甚だし、と。
    『永平広録』巻3-251上堂


道元禅師は、宝治元年8月3日から永平寺を離れ、現在の神奈川県鎌倉市周辺に向かい、そこで「檀那俗弟子」のために説法されたという。後の記録では、この辺が当時の執権・北条時頼との会談であったともされるが、道元禅師御自身はそうは仰っていない。なお、意外と見落とされているのだが、この時の時頼は、いまだ「宝治合戦(同年6月5日に発生)」といって、幕府の重鎮であった三浦氏を征伐した直後であった。

そして、この後、北条重時が時頼の「連署」として、鎌倉にて政治を執るようになり、これから鎌倉幕府は安定に向かったという。さて、この重時は信仰を浄土宗に置いていた。また、その部下には、道元禅師に永平寺を寄進した波多野義重がいた。

この辺、そもそも「宝治合戦」自体が『吾妻鏡』に依拠して論じるしかないため、なんともよく分からず、『吾妻鏡』に道元禅師のことが出てこないのは、我々宗学者の間では周知の事実だから、何故道元禅師がこの時期に鎌倉に行ったのかは、想像するしかない。

それで思うのは、重時が京都に行くことが決まったことで、義重も一時的にせよ鎌倉に向かう必要があったのかもしれない。そこで義重は別に、道元禅師の鎌倉行化も依頼し、ともに東国で落ち合ったと考えるのが、或る意味自然かとも思われる。当然に、義重は上司である重時に道元禅師を面会させるだろう。いや、既に京都にいた段階で、それは行われていたかもしれない。そして、重時と義重は、更に時頼にも会わせた、と考えて不自然なことはないように思う。

ただ、道元禅師は出自や、京都にいたときの藤原氏との関わりなどを考慮して、余りに「政治的な人」であるから、もちろん詳しいことは記録には残せない。だが、鎌倉がこの後、多くの禅僧を国内外から招いて、徐々に宗教都市に変貌していく先鞭は、もしかしたら道元禅師との面会が一つの契機だったかも知れない、などとは考えられる。

ところで、上記の説法を見る限り、道元禅師は本当に因果論の基本的なお話しをしてきただけのようだ。まぁ、在家者相手の教えとなれば、基本的な「諸悪莫作・衆善奉行」を語ることは勿論だが、その上で、その結果どうなるかを話すのが普通だったと言えよう。その意味で因果論であったというのは、自然な話である。

また、最後の偈頌を見てみると、山僧(私)は寺を出て半年余り、これは太陽がただ天空にぽつんとあるようなものであった。だが、今日山に帰って来ると、山に懸かる雲が喜び、私が山を愛する思いは以前よりも強くなったのだ、と出来ようか。鎌倉への旅は、心細いものだったのかもしれない。それはそうだ。修行が本懐の禅僧は、叢林にいてこそ十全たる自己として現成するわけである。

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