つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

「羅睺羅の如し」の話

2016-10-17 09:24:09 | 仏教・禅宗・曹洞宗
純陀とは、ゴータマ=ブッダに最後の供養を行った鍛冶屋のチュンダのことである。なお、ブッダはこの供養の結果、死んでしまったとされる。とはいえ、チュンダは別にブッダを害しようとして供養したのではない。極めて平等の想いでもって供養をした。その結果、チュンダの行いは布施行の完成としてみられたのであった。

南無純陀、人身を受けると雖も、心は仏心の如し。汝、今、純陀、真に是れ仏子たり。羅睺羅の如し、等しくして異なること有ること無し。
    『大般涅槃経』巻2


インドで書かれた経典の翻訳なのだが、「こういう褒め方」があるのか?と思ってビックリした。なお、この経典は、大乗の『大般涅槃経』で、確かに釈尊入滅に因んだ話を載せてはいるのだが、実際の同経は入滅しつつあるはずの世尊が、「実は秘密蔵の話があるんだけど・・・」という感じで、仏性論とか色々な話を展開させていくというものである。

とはいえ、上の引用文は、それとは微妙に関係が無いのだが、在家信者に対して、非常に素晴らしい讃歎をしているので、これはどういうつもりなのかな?という感じで記事を書こうと思った。

これは、東南アジアに伝わったパーリ語系の『涅槃経』も同様なのだが、意外なほどに在家信者への強い配慮が見えると思う。出家者は限られた数しか出てこなくて、しかも、結構、微妙な言動・行動が見られる場合が多い。我々はまず、それを良く知っておくべきだ。

その上で、先の引用文である。ここで「純陀」が何をしたかといえば、世尊に対して供養をしたのである。しかも、それと同時に、全ての僧衆に対して、同様の供養の気持ちを起こしたとされる。

問題はこの「全ての僧衆に」ということで、ここの分け隔て無い気持ちを、「心は仏心の如し」と讃歎され、「南無」という最上級の表現で敬礼されたのである。

しかも、このような平等無偏の仏心を持つために、「真に是れ仏子たり」とされ、「羅睺羅の如し」とまで評された。「羅睺羅」とは、釈尊の実子であるラーフラのことである。つまり、真の仏弟子という讃歎であるはずが、いつの間にか、本当の子供のようだという話になっていたといえよう。

いや?!元から「仏弟子」という意味では無くて、釈尊と同じような仏心を持つということを讃えたかったのだろうか?だとすると、「仏弟子」云々を持ち出すよりも、余程丁寧に讃歎していることになる。

それで、これと同様の一節、つまり「仏子」を表現するのに、「ラーフラ」を参考に出す経典があるのかどうか?を調べて見たら、『央掘魔羅経(アングリマーラ経)』を除いて全て大乗経典であった。なお、それらには「(如来の)等しく衆生を視ること、羅睺羅の如し」(同様の表現多数)などとあって、やはり衆生を慈しんで見ることに「ラーフラ」の名前を出している。親が子供に慈しみを持って見る様子を強調しているのである。

そうなると、いわゆる釈尊自身の言葉として、そういう表現は無かったけれども、その周囲の者達、特に後代の者達が大乗経典を編んでいく中で、真の仏子を強調する表現に用いた、というのが妥当だったというべきだろうか。

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