つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻の冒頭の一節

2017-09-14 06:25:03 | 仏教・禅宗・曹洞宗
道元禅師には、『般若心経』の註釈だと言ってしまっても良い(全文への註釈ではないが)、『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻がある。その冒頭は以下の通りである。

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色・受・想・行・識なり、五枚の般若なり。照見、これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。
    「摩訶般若波羅蜜」巻


一応、同巻は道元禅師が最初に著した『正法眼蔵(と名付けられることになる仮名法語)』であるのだが、この一文の原型となっているのは、以下の一節である。違いを強調するために、敢えて漢文のまま引用しておきたい。

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舍利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是
    玄奘三蔵訳『般若波羅蜜多心経』


この両者を比べると、既に道元禅師が最初の『正法眼蔵』を著すに当たり、ご自身が会得され、表詮しようとされている「宗旨」の基本構造を伺うことが出来る。例えば、「渾身の照見五蘊皆空なり」がそうである。この場合、「渾身」としているところに留意されるべきで、例えば、智慧でもって、何かを「照見する」という風に考えると、我々はどうしても視覚的要素にばかり目が向くことになる。

ところが、道元禅師は「渾身」であるとした。そうなると、視覚的要素のみならず、我々自身の全身でもって智慧を用い、或いは智慧に用いられることになる。そうなると、五蘊という我々自身の認識に関わる器官などの全てを意味するけれども、既に渾身で「照見」とあるのだから、この五蘊は全てが般若だということになる。

それを端的に「照見、これ般若なり」と示しておられる。ここは、渾身という道理を踏まえれば、当然にこうなるといえる。

そして、道元禅師は更に、「この宗旨の開演現成するにいはく」とあって、照見という般若が、宗旨として開演=展開し、その具体相が言語として現成してくると、「色即是空なり、空即是色なり。色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり」になるという。

まず、色即是空・空即是色については、通常の『般若心経』でもあるから、問題はないと言えよう。我々にとっての視覚的対象となる色が空であり、空が色であるという等値を意味している。道元禅師の「打ち返し」の根拠となっていく一節でもある(なお、打ち返しは中国禅の言語表現も参照されている)。

だが、「色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり」の部分は、本来の経文には見えない一節で、ここが道元禅師の開演される宗旨だといえる。重視すべき点としては、色は色で現成し、空は空で現成しているということだ。色と空という本来異なる事象を強引に一つにするのではない。色と空という本来異なる事象が、各々普遍としてありつつ、色即是空・空即是色としても現成しているのだ。

そして、この色即是空・空即是色はどうしても、理念的になりやすい。それは、具体的な事象を、色や空という言葉に還元してしまっているからだ。そこで、道元禅師は、百草・万像という具象的表現を用いつつ、色即是空・空即是色とは、我々自身を含んだこの尽界の事実としてあることを示された。

いわば、目の前にある一本の草が、色即是空・空即是色・色是色・空即空なのである。転ずれば、そのように尽界の中にありつつ事象を会得している様子こそ、渾身の照見五蘊皆空なりであり、そこに「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時」が根源としての行として、制作論的な修行として行われつつある「時」なのである。

拙僧つらつら鑑みるに、まさに宗旨の開演現成に相応しい内容であると思うのである。

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