つらつら日暮らし

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『瑩山清規』に見る「年中行事」について

2017-02-12 11:21:39 | 仏教・禅宗・曹洞宗
備忘録的な記事である。タイトルの通り、禅林寺本『瑩山清規』の「年中行事」について簡単に確認していきたいと思っている。ところで、このように書くと、「年中行事」とは「年分行持」ではないのか?と指摘される、特に曹洞宗侶の方もおられるかも知れないが、そもそも、「年分行持」という名称を決めたのは、昭和改訂以降の『曹洞宗行持軌範』に於いてである。

また、この辺、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が次のような議論をしている。

日分は、一日一夜の時を分つ。行法は、その間の所行の仏法。次第は、前後みだれぬ詞。『瑩規』に、日中行事とあれども、日中諷経と云うに、言同意別まぎらわし。経論には、初日分・日中分・後日分・初夜分・中夜分・後夜分とあるゆえに、日分と云うが的当なり。一日を分けて行法す。日分に準じて、月分・年分もきこゆ。諸清規にも月分須知とは、一月を分つ語なり。行事と云うも、日行事・月行事は、俗家にもあればいかがし。行法と云えば俗家に混ぜず。『永規』にも『弁道法』、『赴粥飯法』とあり。ゆえに、いま日分行法と題す。
    『洞上僧堂清規行法鈔』巻1「僧堂日分行法次第」


このように、太祖瑩山紹瑾禅師が、晩年の1324年に著された『瑩山清規』では「日中行事」とあって、これは1日の行持を示すものだが、同時に、昼間行う諷経に「日中諷経」とあって、紛らわしい。そこで、「日分」という語を用い、更には「行事」では在家でも用いるから、「行法」にしよう、という話になったようである。しかし、その後、明治期の『洞上行持軌範』では、「日分行事」となり、結果、最終的に「日分行持」となった。いうまでもないが、「月分」「年分」は「日分」に準ずる。

というように、この辺の名称は、時代に合わせて変化してきたものであるし、現在の名称は、わかりやすさを求めつつ、在家との混同を避けて用いられているという便法的状況であることに留意しておきたい。

さて、話を戻す。この記事では、『瑩山清規』最古の写本である禅林寺本から、その「年中行事」を考えてみようというものである。

正月一日 〈正月行事〉 祝聖修正
三朝 二日・三日
二月十五日 涅槃会。
三月一日 閉炉節
二月末若三月初、三月節に入る日 清明
三月中 免掛搭僧数
四月一日 閉旦過
四月三日 夏衆戒臘牌起草
四月七日 粥罷普請(採花し仏龕を荘厳)
四月八日 〈釈尊降誕会〉
四月十三日 〈戒臘牌準備〉斎罷、衆寮諷経
四月十四日 斎次、知事牓打調 土地堂念誦 小参
四月十五日 〈戒臘牌を掛ける〉 夏中楞厳会啓建 首座以下秉払
四月十六日 請知事
四月十七日 知事の煎点
四月十八日 首座・書記の行礼
五月五日 端午
六月一日 半夏節 放下坐禅 或淋汗隔日沐浴也 堂中斎時打扇 
六月中 僧堂栖薦普請
七月一日から 施餓鬼
七月十三日 衆寮諷経
七月十四日 土地堂念誦 晩に施餓鬼供 小参
七月十五日 夏中楞厳会満散
七月十七日 天童如浄禅師忌
七月十八日 去単
八月一日 普請坐禅
八月廿四日 永平二代忌
八月廿八日 永平忌
九月十四日 先師大乗和尚忌
十月一日 開炉
十月五日 達磨忌
十一月中 冬至前 隔日衆寮諷経等
十二月八日 成道会
十二月七日夜・九日夜 長坐
十二月十日以後 開坐禅 歳末看経
十二月三十日 除夜


以上の通りである。そして、これを見ていくと、「年中行事」といっても、最も大切なのは、いわゆる「夏安居」であり、その記述が全体の半分以上を占める。「夏安居」以外の記載は、「三仏忌」や曹洞宗の祖師方を中心とした「仏祖忌」が中心で、後は、正月行事・年末行事である。なお、「冬安居」が無いことを疑問視される方もおられるかと思うが、これは道元禅師以来の伝統で、『正法眼蔵』「安居」巻との関わりを見ていくべきだといえる。

個人的には、両祖の安居の行法について、緻密に比較検討したいと思っているので、それはまた別の機会とするが、どちらにしても、「夏安居」のみというのが、両祖の時代の伝統であった。とはいえ、冬は冬で修行していた。安居というわけではないのだが、成道会前後の「長坐」など、坐禅を中心とした行持を明らかに行っていたことが理解出来ると思う。

それから、これは道元禅師と共通する行持として、6月から10月まで普請坐禅を行わない、という方法がある。どうも、これはウチの宗派特有のものである可能性がある。暑さ対策であることは間違いないのだが、普請坐禅を行わずに、随意坐禅にした、ということになる。

また、いわゆる「臘八摂心」の原型となる「長坐」は、この瑩山禅師の記録から内容が知られる。その後、峨山禅師門下にいたって、七日間の坐禅として制度化された。

それから、期間を決めて集中的に看経や供養を行っている。これは瑩山禅師から始まると思われる人も多いかと思うが、道元禅師が定めた「聖節の看経」は1ヶ月連続の法要であった。施餓鬼(現代では人権的配慮によって施食と呼称)については、道元禅師には確認できない。歳末看経も同様である。

よって、諷経が増えたとは思うけれども、果たして、それにより道元禅師の時代から修行が激変したということも無いと思う。少なくとも、年分行持レベルで見るとそれは確実だ。

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