つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

今日は春のお彼岸の御中日です(平成26年度版)

2014-03-21 06:39:20 | 仏教・禅宗・曹洞宗
今日は、春のお彼岸の御中日です。

以前、【お彼岸とお念仏について】という記事で、この彼岸会法要について、浄土真宗の本願寺3世(実質的な創建者)である覚如上人が、否定的な見解を挙げていたことを指摘しました。批判した内容というのが、彼岸会の間は、兜率天の近くにある中陽院という場所にいる者達が、我々衆生の善悪両方の行為を見ていて、その結果を書いておくというのです。一種の「閻魔帳」ですね。

ですけれども、そもそも善悪両方の行為など、悪で当たり前という真宗の教義的には、どうでも良いことなので、彼岸会の行事は不要、というような考えでした。それで、拙僧的にはその覚如上人が批判した内容がどこから来た考えであるのか、以前から分からなかったのですが、忙しさにかまけて調べていませんでした。

すると、『和漢三才図会(上)』(1712年成立)に、「彼岸」という項目があって、そこに『龍樹菩薩天正験記』という文献のことが書いてありました。この文献・・・良く分かりませんけど、あるみたいです。ネットで検索しても当たらないということは、余り有名では無いようです。もちろん、専門的な文献を読めば書いてあるのでしょうけどね。『大正新修大蔵経』などにも入っていないようですし、関連する用語での検索などにも引っかかってこないので、いわゆる偽経・疑経なんでしょうね。

さて、ではその『天正験記』にはどう書いてあるのか?『図絵』から引いてみましょう。

 『龍樹菩薩天正験記』に云く、欲界六天の中央、夜摩天と兜率天の中に、大城有り。名づけて中陽院と曰う。
 中に高楼閣有り、雲処台と号す。
 此の院内に、年に二・八月、七箇日の間、色界の項摩醯首羅天尊を上首と為て、八神並びに大梵天王・大歳神、乃至、玉女・道祖等の人中・天上の冥官・冥衆、集会して一切の善悪を注(しる)す。
 天尊、教勅を降し、八神、三巻の勘帳を持す。三複・八挟して天尊に献る。
 天尊、覧了りて、善帳を証せんが為に宝印を指し、悪帳を証せんが為に縛印を指し、処中の善を証せんが為に非宝非縛の印を指す。
 天尊に問はむ、「何の由へ有りて二・八月を以て、天の正勅を降し、天地神を召すや」。
 答へていはく、「阿迦尼吒天の自在尊所居の宮殿の前に、高樹有り、天生樹と名づく。形、須呂の如し。
 春は華を開き、七日有りて散る。七葉・七色〈青・黄・赤・白・黒・紫・緑なり〉なり。
 秋は菓を結して、七日有りて落つ。七菓・七色なり。開花を見て、中陽院に移り、落ちる菓を見て本宮に還る。定めて知る、法爾の道理、然らしむる所なり矣」。
    『和漢三才図会(上)』「時候類」、東京美術・1970年、訓読は拙僧


これだけを見ても、何故、彼岸会になったのか分かりづらいですけれども、先の覚如上人の教えを見ていると、ご理解いただきやすいと存じます。つまり、この「二・八月」(これは旧暦ですので、今であれば「三・九月」になります)の中、七日間にわたって、様々な天尊・天神・天衆・その他が中陽院に集まって、それで人々の一切の善悪を記し、その帳面を天尊に奉ると、その中で印を捺して内容を証明するということです。「中陽院」という名前自体が、太陽の運行(黄道の関係か?)に基づいて付けられたものだと考えられます。

それで、この七日間には良いことをしなければならない、というので善行を行う期間に定められました。特に、善行の内容として相応しいこととなると、「持斎」という考え方があって、それは在家の檀信徒であればお寺参りして、身を慎むことになるわけです。彼岸会にお墓参り(先祖供養)・お寺参り(持斎)が選ばれたのは、それなりに理由があることですし、こういう頃の習俗が現在まで残ったと考えるのが自然です。

さて、『和漢三才図会』では、これらの記述の後に、習俗として本当に正しいのかを検証としようとしています。その時に引用されたのが、江戸時代初期の仏教辞書『寂照堂谷響集』であり、それには次のように書いてあるようです。

彼岸功徳成就経及び龍樹の天正験記の如き偽作の経文、自ら仏祖を欺く。
    前掲同著


『寂照堂谷響集』は、『大日本仏教全書』(第149冊)に収録されているので、お近くに仏教系大学があればご覧いただけると思いますが、このように「偽作の経文」と否定しています。よって、文献研究の立場を貫くと、彼岸会自体が否定されてしまいそうになります。とはいえ、『和漢三才図会』の編者の見解には、このような考えもあります。

蓋し以るに、諸悪莫作・衆善奉行は浮屠、平日教える所と雖も、悪は成し易く、善は修し難し。故に、仮に名目を立てて月数を定むるもまた一方便なり。
    前掲同著


結果的に、こういうことで良いんだと思うんですね。これは現在の葬式仏教肯定論にも繋がります。だいたい、そこまで葬式を批判するのであれば、そもそも日頃からお寺に足を運ばない檀信徒も、同時に批判されるべきです。そういう風にいうと、今度は立っている立場で結論が変わってきます。檀信徒の我が儘な様子を肯定的に捉える人は、行きたくなるような魅力が無いお寺が悪いということでしょう。しかし、拙僧つらつら鑑みるに、この『図絵』の内容からいっても、いつの時代も変わらないと思うわけです。どこかお寺というのは、入りづらい場所です。

これは、お寺の側だけに問題があるのではなく、世間一般の心情から行っても同じです。宗教嫌いの人なら尚更でしょう。そもそも、お寺が公共的な場所であるかどうかは不明です。法人格がそうだと言ったところで、現実には意味が無いところです。拙僧は、お寺の経営を支える檀信徒と、法人格の代表である住職双方の持ち物であって、世間一般には開かれなくて良いと考えています。否、開かれる必要も無いと思っています。それは、閉じているが故に開いているということです。死者も供養できる場所、それはつまり世間一般の価値観などが通用しない、その意味で世間からは閉じているけれども、だからこそ、宗教的な価値観が開けているというべきでしょうか。

この辺の微妙な状況が分からないと、いつまで経っても下らない議論や非難ばかりになることでしょう。拙僧はそういうこと自体が、余り善性を伴わない行動なので、とても無駄だなぁ、と考えています。何はともあれ、とにかく彼岸会は普段と違って善行を積んで良い時期なのです。熱心にお寺参り・お墓参りしたいところです。

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