つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

栄西禅師とも交流があった 明恵高弁(禅宗以前の禅僧達11)

2008-05-31 07:37:37 | 仏教・禅宗・曹洞宗
明恵上人高弁(1173~1232)が、自らの道場として中興した栂尾の高山寺には、鎌倉時代に書かれた国宝の「明恵上人樹上坐禅図」(今は京都国立博物館で委託管理)があります。これに見えるように、明恵上人は坐禅を愛しただけではなく、それで得られる禅定力にも大いに着目していた人だと見て良いかと存じます。



さて、そんな明恵上人ですが、その伝記を読んでいると、思った以上に禅僧への敬意というか、気遣いというか、そういう心意気が感じられるように思いまして、今回、この連載に入れようと思いました。その際、強く影響を受けたのは、宇井伯寿博士訳註の『伝心法要』(岩波文庫)を読んでいた時に、次のような一節があったことです。

上人は既に十八歳(一一九〇)の頃から禅門に心を傾けていたといはれ・・・
    前掲同著、137頁


これは、明恵上人の著作である『邪正問答抄』に『伝心法要』からの引用が確認できることを受けて、禅宗文献からも影響を受けていることを、宇井博士が指摘されたものです。そこで、今回はこの実態を、『明恵上人伝記(以下、『伝記』と略記)』から見ていこうというものでございます。確かに、明恵上人は以下のように嘆いたとされています。

又上人常に語り給ひけるは、慧学の輩は国に満ちて踵を継ぐと雖も、定学を好む人世に絶えたり。行解の知識欠けて証道の入門拠を失へりとぞ嘆き給ひける。
    『伝記』「承久2年(1220)」項


これは、利口ぶって、実際の修行がない僧侶が多いことを嘆いた一文です。なお、明恵上人の弟子であった証定(1194~1255?)は、その著『禅宗綱目』(岩波日本思想体系『鎌倉旧仏教』所収)に於いて、明恵から受けたと思われる教禅一致思想を追求していますが、その著作の中で、禅宗が以心伝心しながら歴代嫡嫡相承してきた事実を挙げて、証定は問答体にて、一体誰から法を受け嗣いだかを問いますが、その中で証定は「先師上人に相承するなり」と答え、さらに、その先師である明恵自体の相承については、明恵自身が、末代には真の善知識がいないことを嘆きながら「弥勒菩薩の威神によつて、遂にこの禅法の師を感ぜんは、承久三年の夏なり」(『鎌倉旧仏教』187頁)とされています。いわゆる、明恵上人は弥勒菩薩をその師としたことになるでしょう。後に見ていきますけど、どうやら当時中国から禅宗を伝えた栄西禅師から、実質的な印可を受けてもいるので、明恵上人の禅への参学は、かなり真っ当なものだったと考えて良さそうです。

さらに、『鎌倉旧仏教』「解説」を見てみると、明恵の教禅一致思想は、李通玄という者の著作から華厳宗の思想を学び、そこから様々に観行を進めたようであります。そういった側面での学びも重要でありますけれども、ちょっと時間的問題で拙僧の能力を超えるので、ここでは、『伝記』に見える明恵上人の禅法を見ていくだけに留めましょう。

【明恵上人と禅法】

そもそも、明恵上人は、先に採り上げた宇井先生の言葉にあるように、若かりし頃から坐禅(禅法)に興味があったようで、それは、インド以来、縷々撰述されてきた禅定関係の経典を蒐集していたことなどからも明らかでありましょう。『伝記』では次のように伝えます。

また、『五門禅要』ならびに、『達摩多羅禅経』などを開き、『禅法要解』一部を自ら書写して、これを開き見て、心を養ったのである。笠置の解脱上人(=貞慶)はこのことを聞かれて、「私は仏法の究極のところを探っていたが、(明恵上人の行いは)私自身が案じたところと符合している」として、涙を流されたという。
    『伝記』「承久2年」項、拙僧ヘタレ訳


ここを見て分かるように、幾つかの経典名が出てきています。それぞれ、以下のような解題を付けておきます。
・『五門禅要』
⇒詳しくは『五門禅経要用法』といい、成立年代は不明だが、作者は仏陀蜜多であるという。現在は『大正蔵』巻15に収録。なお、この仏陀蜜多とは、世親の師であるという説もある。内容としては、五門の観法(数息観・不浄観・慈心観・因縁観・念仏観)を詳述し、これらはそれぞれ衆生の迷いの状況に応じて行われるべきものであるとされた。

・『達摩多羅禅経』
⇒5世紀初頭に成立したと考えられる同経(なお、名前は他にも色々ある。『大正蔵』巻15に所収)は、全部で17品から成っており、最初の8品は数息観を、そして、続く4品は不浄観を、さらに、界観・四無量観・五蘊観・六入観・十二因縁観を説くなどしているが、前半部分で詳しく数息観を説いていることから明らかなように、禅観を修める際の状態を詳細に分析しており、修行者に対して、その心構えなどを実践的に説くものである。なお、名前から分かるように、「達摩多羅」という僧が説いたとされているが、実際には小乗禅に詳しかった仏大先という僧が大きく関わったとされている。また、後の禅宗燈史文献の編集者達は、この作者の「達摩多羅」を「菩提達磨」と解釈し、様々な説を作り上げたが、実際にはもし菩提達磨が実在していたとしても、それより100年も早く成立した著作であると考えられているため、当然に関係はない。

・『禅法要解』
⇒内容としては同じく禅法を説く経典の『禅要経』(両方とも『大正蔵』巻15に所収)と同じように、衆生の六種欲から離れることを説き、初禅に入る方法を教え、さらに第二禅以降から、第四禅に到るまでの方法が細かく説かれている。なお、第四禅が極められると、自ずと四無量心が得られるようである。

先に挙げたように、明恵上人は「定学(禅定)」を極めなければならないと思っていたことは明らかですが、その具体的な方法として、これらの経典を読み、そして、自らの心の律し方などを得ていたのでしょう。他にも、中国で華厳禅を唱えた圭峰宗密の著作なども、相当精力的に読んでいたことが『伝記』に伝わっていますので、実際に坐禅なども相当行っていたと考えられますし、その上で、華厳教学とのすり合わせなども行っていたのでした。

上人は禅定だけを好まれて、1~2年は小さい桶を1つ用意して、2・3日、4・5日分の食べ物を入れてくれるように頼み、そして肘にかけて後ろの山に入り、樹の下や石の上、枝の間、岩窟などに終日終夜坐禅しておられた。「この山の中で、表面が一尺もあるような岩で、全て私が坐らなかったものはない」と仰っていたほどである。
    『伝記』下巻、拙僧ヘタレ訳


時期は不明ですが、下巻に収録されている逸話で、おそらく、しばしば以上のような状況だったものと考えられます。なお、特に「木の空(うつほ)」という箇所があって、訳文では「枝の間」としましたが、これが、先に挙げた明恵上人絵像と一致する記述ということになります。おそらく、そのような伝承をもとに書かれた絵像なのでしょう。道元禅師も、坐禅をする場所については、石上や樹下などをその場所として示していますが、場所の選定については、自然に溶け込んで坐る方法もあったということです。今思えば、(大変罰当たりだと慚愧しつつ)越前大野の宝慶寺の近くにあって、寂円禅師が坐ったという坐禅岩で坐禅をしてきました。あの岩も良い場所でございました。せっかくだから、僧堂に籠もってばかりじゃなくて、外で坐禅をすることも、考慮すればいいのに・・・

【明恵上人と栄西禅師】

上来見てきたように、禅法を愛した明恵上人でしたが、やはり類は友を呼ぶ、いや、通じる者には通じると見るべきか?当時、中国から最先端の禅宗の行法を将来していた明庵栄西禅師と相見したことが記録に残っています。

建仁寺の長老(=栄西禅師)から「茶」をいただいたため、医師にこれを質問したところ、(その医師は)「茶は、疲れを忘れさせ、食欲を消して(身体が)快くなるという効能があります。しかし、日本にはまだ普及していません」と仰ったので、茶の実を求めて、2~3本植え始めたのであった。本当に、眠気を醒まし、気をさわやかにする効能があったので、修行僧達にも服させたのだった。或る人が語り伝えるには「建仁寺の僧正御房が、大唐国から持ってこられた茶の種をいただき、植え育てられたのだ、云々」と。
    『伝記』拙僧ヘタレ訳


このように、明恵上人と栄西禅師との関わりは、茶を媒介にしたものもあったようです。茶は、このカフェイン飲料が大量にある現在では考えられないほど、おそらく日本人にとって見れば、貴重なそれだったことでしょう。したがって、初めてカフェインの効果を味わった人は、飛び上がるくらいだったと思いますね(笑)効果は、眠気を醒まし、食欲を奪い、身体を快くするというもので、正直、麻薬か?というツッコミを入れたい感じもしますが、それくらいの効果があったのでしょう。なお、当時のお茶の作法などについては、それこそ栄西禅師の『喫茶養生記』(講談社学術文庫などで見ることが可能)を参照されればよろしいかと存じます。なお、余談的ですが、この訳文で「大唐国」とありますが、既にこの時代の中国は宋王朝であり、しかも南宋でした。唐ではないので、一応・・・「唐」というのは、中国を指す一般的な名詞です。

建仁寺の開山である千光法師(=栄西禅師)が、大唐国から帰朝されたが、達磨宗(=禅宗のこと)を悟り究めて、この国に弘められると聞こえてきた。或る時、上人は、(栄西と)対面するために、その寺(=建仁寺)に行こうとした、ちょうどその時、この僧正が宮中から帰ってくる途中の道で行き会った。この僧正は、新しい御車に乗られて、その美しさは思いもよらないほどであり、まことにお美しい格好をしておられた。上人は、やつれた墨染めに草履を差し履いていただけであった。そうだったものだから「この姿のような者に、お目通りが許されるはずがない、無益なことだ」と思って、帰ろうとしたのだが、僧正が見て(上人の姿を)知ったようで、車から下りて、人をやって呼び返され、対面された。そして、数時間問答して帰ったのである。
    『伝記』拙僧ヘタレ訳


普通、墨染めのボロボロの衣というと、禅僧というイメージで、きらびやかな衣というと、逆に教学系統の宗派だと思いがちですが、ここでは見事にそのイメージが逆転しています。まぁ、栄西禅師は自ら朝廷などに働きかけて、僧として官位を得るなどし、その上で禅宗興隆を模索した傑僧でしたので、このようなこともあったのでしょう。一方で、それに余り関わるまいとする明恵上人のあり方が、より禅僧っぽくて、拙僧にはちょっと複雑な思いですが、しかし、禅宗といっても、特に栄西禅師が将来された臨済宗は、鎌倉時代から室町時代に到るまで、京や鎌倉といった当時の首都圏に、大寺院を多数構えるなどしているため、かなり煌びやかな様子だったのでしょう。

その後は、常に対面されて、法談をされた。その間に、僧正は明恵上人を印可されていわれるには「この宗を受け嗣いで興隆すべき人を、大いに切望している。上人は、この器にあたる方だ。枉げて我が門下にお越しになり、ともに興行してはいただけないか」と仰ったのだが、(上人は)「色々と事情がありまして」といって、深く辞退されたのだった。しかし、(栄西禅師の)入滅が近付いた時には、御袈裟を(上人に)奉られ「これは、先師、東林の懐敞和尚の法衣である、云々」といわれた。
    『伝記』拙僧ヘタレ訳


明恵上人も、志のある僧侶と法談する時には、何日でも時間を忘れ、食事を忘れて話し合ったと聞いていますが、果たして栄西禅師との対談はどうだったのでしょうか?栄西禅師は、前の連載記事である【俊芿法師】の時にも、帰国の報を聞き付けわざわざ博多まで会いに行っているように、仏法興隆のための人材捜しをしていたようなところがあります。それは、自分の弟子達に期待をしつつも、他にも多くの僧侶の力を借りようと思っていたからでしょう。その栄西禅師は明恵上人にも目を付け、さらに明恵上人も、自ら持つ禅への憧れを、栄西禅師との問答でぶつけていたようなところがあります。そして、栄西禅師は明恵上人の優れた境涯を印可証明し、自分が中国で本師・虚庵懐敞禅師から頂戴してきた伝衣を、そのまま伝えたようです。そして、明恵上人の徳風を慕った栄西禅師の弟子は、明恵上人に弟子入りした場合もあったようです。

 建仁寺開山の弟子に、円空上座という僧がいたが、ずいぶんと志が深くて、道行を修行していたと評判であった。(円空が)禅定を修行する方法を、かの長老(=栄西)に問うと、「栂尾の上人が禅定を修行して功夫が積もり、既に成就されている。そこに行って問うて、その、いう通りに修行すべきである」と仰った。
 そこで、上座が上人に会われて、禅定の修行方法を尋ねたところ、上人が答えていうには「禅定を修行するには、3つの大きな毒がある。これを除かなければ、ただ身心を労するだけで、何年を経ても成就することは難しい」と仰った。
 (上座が)「その大きな毒とは何でしょうか」と尋ねると、(上人は)「1つには睡眠、2つには雑念、3には坐相が歪んでいること、云々」と答えられ、(さらに)「これを除いて、一切を求める心を捨てて、ただ無所得の心ばかりを持ち、自分勝手の心をあてがうこともなく生生世世を終えよう、というような長い志を立てるべきだ。自分の欲望は、決して持ってはならない。ただ、この法師が申し上げたことに、何か決まったことでもあるのかと思われたか。これは、高弁(=明恵)が自分から申し上げるのではない。先年、紀州苅磨の島にいたとき、空中に文殊大士が現れて、私に示されたままを申し上げるのである。今の世には、このように努力する人はいないものだ。末世・末法の辺境という恨みは、このようなことだ、云々」と。
    『伝記』拙僧ヘタレ訳


ここで、円空上座という人が、栄西禅師の勧めで明恵上人を訪ねたことがわかります。なお、上座というのは、今では修行に入ったばかりの人を指しますが、当時には、かなり修行の進んだ人であった首座への尊称になります。そこで、明恵上人に就いて坐禅の指導を受けたようです。円空が受けた指導というのは、三毒を取り除かなければならないということであり、それは、「睡眠・雑念・坐相の歪み」だったようです。これは、明恵上人のオリジナルではなく、天台宗の止観や、禅宗の坐禅でも同じようにいわれるので、仏教の坐法では常にいわれることなのでしょう。

だからこそ、この円空への指導の際に、明恵上人は、私自身が決めたことではなくて、これは文殊菩薩からいわれたことを伝えているだけであるとしているわけです。このような「伝統への依存」とは、これもまた仏道修行には大切なことです。自分で勝手に修行しても、その時ばかりは良いとしても、全く意味がありません。明恵上人は、禅については、誰に就いたということはないようですが、栄西禅師から認められたということがありますので、結果的に、伝統への依存が達成されているわけです。

さて、今日は『伝記』から、明恵上人の禅僧としての姿を見てみました。特に、ボロボロの格好をしていたりする様子などは、枯淡な禅僧の様子にも感じられますが、一方で、貴族たちから帰依を受け、煌びやかな格好をすることにも拒否感はなかったようなので、この辺の自由さ・こだわりのなさは見習いたいところです。さらに、智慧ばかりがあって、禅定が足りない者が多いという指摘は、今の我々も、真摯に受け止めなければならないところです。もちろん、明恵上人という方は、決して智慧についても不足はなく、その意味では、戒定慧の三学を見事に体現した方だったといえましょう。

なお、これまでも明恵上人の記事を書いていますので、【冷え性になった和尚】【或る晴れた日の明恵上人】【仏が父なら衆生は子供】【尊ぶ心と仏道について(明恵上人の場合)】【余計なことを聞くな!! 其の7】【霞を食べる仙人ならぬ埃を食べる仏教者】などをご参照ください。この『禅宗以前の禅僧達』という連載は、あと1回になります。

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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誤解していました (霞)
2008-05-31 10:13:52
あたしみたいに、中途半端に歴史を勉強した人間いとっては、かつての奈良仏教敵価値観と平安仏教的価値観の拮抗のように、鎌倉時代の日本仏教の情勢=旧仏教的価値観vs鎌倉新仏教的価値観みたいな、ステレオタイプがあったのですが、明恵上人は、新しい価値観でも、共鳴できる考え方からは、きちんと学び取っていたんですね、それが、従来の仏教の主流と違ったものでも...。ましてや、彼は浄土系を徹底的に批判した人間、その彼が、ことに禅宗となると、理解を示したというのは、非常に興味深く思えます。
霞は、明恵上人に関して、自分の夢を詳細に記録していたという話を河合隼雄氏の著作から読んだことがあり、鎌倉時代の“旧”仏教派にしては、なかなかユニークな宗教家だなあ...なんて、おもっておりましたが。
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2008-06-01 20:28:42
> 霞 さん

> かつての奈良仏教敵価値観と平安仏教的価値観の拮抗のように、鎌倉時代の日本仏教の情勢=旧仏教的価値観vs鎌倉新仏教的価値観みたいな、ステレオタイプがあったのですが、

結局、この奈良時代・平安時代・鎌倉時代の分類というのは、その人が所属した宗派に依存するだけで、実際の思想性に依存しているわけではないようです。

> 明恵上人は、新しい価値観でも、共鳴できる考え方からは、きちんと学び取っていたんですね、それが、従来の仏教の主流と違ったものでも...。ましてや、彼は浄土系を徹底的に批判した人間、その彼が、ことに禅宗となると、理解を示したというのは、非常に興味深く思えます。

そうですね。仰るとおりです。興味がありますね。この辺も、色々と研究がありますね。

> 霞は、明恵上人に関して、自分の夢を詳細に記録していたという話を河合隼雄氏の著作から読んだことがあり、鎌倉時代の“旧”仏教派にしては、なかなかユニークな宗教家だなあ...なんて、おもっておりましたが。

河合氏は、ユングの夢と明恵の夢を比較していたはずですね。それはさておき、色々と学んでいくと、この「新旧」の分類には気にならなくなりますね。
Unknown (霞)
2008-06-02 08:59:58
色々と学んでいくと、この「新旧」の分類には気にならなくなりますね。>
いや、まったくそのとおり。法師様のブログをはじめとして、さまざまな仏教について考察されているブログで勉強させていただいておりますが、みなさんの記事を読むたびに、仏教の奥行きの広さに驚かされます。合掌。
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2008-06-02 19:07:37
> 霞 さん

それは良い学びをされていますね。
最初から「これだけが正しい」とか学ぶと大変ですから、奥行きとかを楽しみながら学ばれると良いでしょう。

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