つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

再度考えよう 自力と他力

2009-10-20 08:16:20 | 仏教・禅宗・曹洞宗
以前から、拙ブログでは、禅宗を自力門などというのは、いわゆる「他力門」を打ち立てたかった専修念仏系の祖師によって戦略的に構築されたカテゴリーであり、本来禅宗はそういう性格ではない、といっています(一例【反・無宗教論 ver10.1】など)。そうしましたら、やっぱり同じことを既に仰っていた人がいたようなので、その方の文章を見てみます。

 よく自力、他力ということをいいますが、自力と他力というふうに分けるのがおかしいので、自力と他力は一つのものなのです。だから、
 自他一如、
 というのです。
 よく禅門をさして、禅は自力本願であるということをいいます。これ禅が自分でいい出したことではないのです。
 浄土仏教の人たちが、自分たちは他力である、と。〈中略〉自分たちが他力本願であるということから、禅門をさして、「あれは自力本願である」といった。そこから、高校の教科書まで、禅門は自力本願で、浄土仏教は他力本願であるなどを書かれるようになったのですが、禅門では、自らを自力であるなどといったことはありません。
    平田精耕老師『活人剣』PHP文庫、155~156頁


最後の一節ですが、浄土仏教から「自力門」などといわれるようになってから、そういう風に「自称」する人がいたとは思いますが、よくよく勉強している人は、そんなことを言わないものです。要するに、法然上人の『選択本願念仏集』を慎重に読み解いていけば、末法の世にあってはどれほどに修行をしても悟りを得ることは出来ないので、結局我々衆生を救おうとして極楽浄土に在す阿弥陀如来の「本願」におすがりするしかない、という発想なのです。そこで、阿弥陀仏という絶対的な客体(他者)の本願に期待する、他力本願というわけです。

ところが、そもそも末法の世にあって、自分で修行しても意味は無い、という発想自体、我々禅と、浄土仏教とでは立場が違います。我々は、仏性を信じて修行をすれば必ずその結果が出ると思っているわけですから、阿弥陀仏に頼らなくても全然平気、という発想になるわけです。しかも、その時には、自分で自分のために修行をするという「我執」ではなくて、自己を脱落するというのが修行ですし、その時には他己も脱落するわけで、結果的に自他脱落から自他一如、というプロセスを辿るわけです。我々にすれば、阿弥陀仏とて絶対客体というよりは、「己身即弥陀」ですから(浄土真宗の覚如上人に怒られそうですが)。

さて、そういう状況であるにも関わらず、平田老師がご指摘されるように、一度カテゴリーが作られると、後は皆さんそれに従って考えるようになってしまいます。分かりやすいからでしょう。ところが、それが間違っていることも数多くあります。明治時代以降の仏教研究というのは、そういう過ちの繰り返しだったのではないでしょうか?理由は、基本的に仏教研究が、宗派の設立した大学によって進められた結果、その研究者の見解に、宗派の見解が重なったためです。そして、それを嫌がった人が、原始仏教を礼賛しましたが、そういう場合には逆の弊害があって、現在の宗派にまで展開されてきた歴史が見出されません(だいたい、本当に釈尊の宗教が完成され、完全無欠だというのなら、その後の部派仏教の大論争、或いは大乗仏教が出て来る可能性がないはずです。しかし、歴史的事実としては、それらが出て来たわけですし、しかもインドで仏教がイスラムに席巻され、ヒンドゥー教に吸収されることも無いのでは?)。

最近でこそ、人類学的な方法での探究、歴史学的研究の精緻さによって、その時代時代の状況を湛然に追うことで、パラダイムの確認を行うという研究になり、状況は相当に改善されてきたといえますが、しかし、最新の学説から十年以上は遅れるらしい「教科書」の場合には、直されるまでにしばらくかかるでしょう。しかも、それによって学んだ人が次の研究者になるという悪弊を引きずった結果、よほど気を付けないと迷中又迷ということになるでしょうか。我々は、余りに安易に理解する愚を止めるべきです。そして、理解していることでも、何度でも改変すべきであるといえましょう。カテゴリーというのは、特定の事柄を集団で理解するのには非常に役立ちますが、しかし、当然に問題点もある、この自力と他力の問題は顕著な場合だといえるのでしょう。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈仏教7〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
ジャンル:
文化
コメント (6)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« どうなるウェザーニュースVS... | トップ | 江戸家猫八も四代目 »
最近の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (shosen)
2009-10-20 14:23:02
遅くなりましたが、晋山式のぶじご円成誠におめでとうございました!

> 禅門では、自らを自力であるなどといったことはありません。
なるほどこれは、膝を打つように思う、明確なご指摘ですね。
私のまわりでも、たしかにわざわざ「自力」と自称される人もいませんが、あらためて勇気づけられる思いです。

何度か檀家さんとこういうネタになったコトがあったのですが、自力と他力って、おそらく裏表の姿なんだと思いますよ、、なーんて勝手なこと言ってました。
そういうと、意外にも(?)納得されます。
カテゴライズの場合、きっちり線分けしなければならない部分と、ダイナミックに往来させてもいい部分とあるのでしょうね。
ヘタに矮小化させてしまったり、逆に何でもアリになっちゃったりで難しい感じもします。
抜き難い宗派根性 (市堀玉宗)
2009-10-20 19:36:58
北陸は何といっても真宗王国と呼ばれるだけあって、永平寺や總持寺があるとはいえ、未だに自力他力と分け隔つ言動に触れることが多いです。その方が宗旨の次のステップに進みやすいのかもしれません。同じことが私どもの側にもあるのかも知れないと思ったりします。
勉強不足の私がいうのもどうかと思うのですが、現在の真宗を牽引するトップの見解はどのようなものなのでしょうか?合掌
勉強 (JJSG)
2009-10-21 01:29:00
はじめまして。

興味深く読ませていただきました。
仏教を「自力」の仏教と「他力」の仏教に分けて教えられたのは、お釈迦様ご入滅後960年後に生まれられた、中国の曇鸞大師とお聞きしています。

>我々は、余りに安易に理解する愚を止めるべきです。そして、理解していることでも、何度でも改変すべきであるといえましょう。

おっしゃる通り!
なるほど~、と思いました。
またお邪魔します。
皆さんコメントありがとうございます。 (tenjin95)
2009-10-21 21:23:29
> shosen さん

> 遅くなりましたが、晋山式のぶじご円成誠におめでとうございました!

ありがとうございます。
無事終わりました。

> なるほどこれは、膝を打つように思う、明確なご指摘ですね。私のまわりでも、たしかにわざわざ「自力」と自称される人もいませんが、あらためて勇気づけられる思いです。

まず、相手に言われたからって、我々自身がその話に乗る必要は無いんですよね。

> 何度か檀家さんとこういうネタになったコトがあったのですが、自力と他力って、おそらく裏表の姿なんだと思いますよ、、なーんて勝手なこと言ってました。そういうと、意外にも(?)納得されます。

なるほどですね。
しかし、難しいお話しではあります。

> カテゴライズの場合、きっちり線分けしなければならない部分と、ダイナミックに往来させてもいい部分とあるのでしょうね。

そうですね。あと、そもそも仏教について、何のために存在しているのがは忘れてはならないところですね。

> 市堀玉宗 さん

> 北陸は何といっても真宗王国と呼ばれるだけあって、永平寺や總持寺があるとはいえ、未だに自力他力と分け隔つ言動に触れることが多いです。その方が宗旨の次のステップに進みやすいのかもしれません。同じことが私どもの側にもあるのかも知れないと思ったりします。

仰る通りですね。
結局、こういう風に分けないと、入り口にすらたどり着かないのかもしれません。

> 現在の真宗を牽引するトップの見解はどのようなものなのでしょうか?

どうなんでしょうかね?
西も東も、それぞれに教義を引っ張る人はいるのでしょうけどね。

> JJSG さん

> 仏教を「自力」の仏教と「他力」の仏教に分けて教えられたのは、お釈迦様ご入滅後960年後に生まれられた、中国の曇鸞大師とお聞きしています。

元々、龍樹菩薩の『往生論』への註釈で、曇鸞が唱えていますね。龍樹の段階では、難行と易行という分類ですが、曇鸞はそこに自力・他力を持ち込んだようですね。

> またお邪魔します。

是非どうぞ。
末法時代なのかなぁ 人生は やり直せる?  (村石太ガール&孤独な男)
2012-04-23 21:53:44
他力本願 自力本願で 検索中です。
プログに 多いですね。私も 詳しくないですけれど、意味違うような解釈で 使われている人が多いのかなぁ?
私の自論からいえば、結局 祈るということは自力本願で他力本願でも あると思う。結論と相違の解釈~
自力本願といわれたほうが いい時がある
他力本願といわれた時のが いい時がある
自力とかのが カッコいいかなぁ?
尾崎豊さんの 僕が僕であるために という歌詞が浮かんできました。宗教研究会(名前検討中
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2012-04-24 18:03:22
> 村石太ガール&孤独な男 さん

とりあえず、浄土真宗の教えを正しく学べば、御指摘のような誤った解釈は減るでしょうね。それを願うばかりです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL