つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

或る密教僧が示した読書作法

2006-05-19 07:40:43 | 仏教・禅宗・曹洞宗
以前、このブログでも【読書法について】なんていう駄文を書いたことがありましたが、さすがに難解な文章に触れることが多かった僧侶は、その方法についてまで事細かに指示したこともあったようです。そこで、今回紹介するのは、戒定という僧によって18~19世紀頃成立した『読書二十二則』です(『大正蔵』第79巻に所収。引用は拙僧ヘタレ意訳)。戒定は同著にて、書物を読むに当たって22の規則を明らかにし、特に中国の文法に通じていた弘法大師空海の文章を正しく読むためにしなくてはならないことを示しています。当時は江戸時代、漢文は倭訓という独自の読み方をしていましたが、それに対する批判と見ることができます。そこで、早速ですがその内容を見ていきたいと思います。

【『読書二十二則』の内容】

とりあえず、全てを見ていくと煩瑣になってしまうので、拙僧が気になった点を重点的に採り上げたいと思います。なお、引用文は拙僧によるヘタレな意訳です。また、條則には「第○○則」という記述はありませんが、分かりやすくするために、便宜的に付しています。

・第1則
【訳文】
漢文の書を読むには、必ず中国人の読法に依るべきである。日本人の読み方でこれを究めようとすべきではない。
【解説】
というか、解説不要ですね。要するに文法は中国人の方法に従うべきだというわけです。だとすると、送り仮名などを付すことについては、NGなのかな。。。

・第2則
【訳文】
篇・章・句・字の法則を知るべきである。知らなければ、多く主意を失することだろう。
【解説】
要するに、漢文の文体をよく知るべきだと言うことです。確かに、文章で区切るときなんかでも、句や字を良く知らなければ意味が分からないですものね。

・第4則
【訳文】
その書の作者の歴史的状況や、その制作意図を知るべきである。知らなければ、(理解するときに)今時の考え方が入ることになってしまう。
【解説】
この考え方は、非常に有効な文章批判であり、いわゆる「文献学」の基本中の基本です。我々はどうしても、現状をもって古代について考えてしまうことが多いわけですけれども、それでは正しく理解するということにはなりません。やはり、その作者が置かれた状況をよくよく理解しなければ、別に対した意味も無い文を重大なモノだと勘違いしたりすることにもなりかねません。そして、この第4則については更に次則で詳しく論じられます。

・第5則
【訳文】
作者の心に入るべき(原文は「住」)である。もし、世親(=バスバンドゥ)の書を読むのに、世親の歴史的状況やその制作意図に入るべきである。弘法大師の書を読むのであれば、弘法大師の歴史的状況やその制作意図に入るべきである。自分自身の歴史的状況や自分の考え方は虚しくして、ひとえに作者の意図に入ることを、最も大事なこととしよう。このようにして、後の代に書かれた註釈書で混乱しないようにせよ。もし、自分自身の今時の考え方を入れて、古人の意を窺おうとする者は、必ずその途中で誤った道に入ることになろう。そして、ついにはその本書の最も大事な意図に至ることができないのだ。
【解説】
それにしても、このような原典への態度は、非常に合理的であり、また、重要なことであろうと思います。さらには、どうしても分からないところなどは、註釈書などに頼ってしまうんですけれども、それではダメだと言うことですね。

・第11則
【訳文】
正しい認識・正しい見解・正しい意義をもって根本となして、執着から離れたところに入るのだ。
【解説】
第5則などとも関係してきますが、やはり正確な読解については読み手側の能力の問題になってきます。何か、固有の考えが正しいとしてしまうと、それでもって一切の考えに及ぼそうとされますが、それでは経典読解には向かないということでしょう。

・第12則
【訳文】
(経典に説かれる)理論や教えを信じて、その(筆者の)高名に迷ってはならない。要するに、法に依り儀に依るべきであって、人に依るのではない。人としての行いや徳が高いけれども、学が足らない人は、その徳を敬って、学を取るべきではない。学は優れているけれども、徳がないという人は、その学を敬って、徳を取るべきではない。人を基準に言葉を取らないことがあってはならないし、言葉を基準に、その人を取らないことがあってはならない。これは、遥かなる昔から変わらない通戒なのである。
【解説】
これは、特に非常に悪人だと思われたような人が、世の真理を説いていたり、逆に優れた僧だという人が、全くたいしたことを言っていなかったりとありますが、そこでの我々の判断方法について問題視されているのでしょう。次には関連して第14則を採り上げます。
・第14則
【訳文】
典籍を学ぶのに、常に人の口伝や相伝を信じてはならない。およそ道理を学ぶのに、口伝をもっては授けることことはできない。その行いの秘訣だけは、口伝をもって伝えるべきである。三蔵が相伝えてきたことであっても、必ずしも信じてはならない。玄応に言葉があって言われるのは「相伝には誤りがあるから信じてはならない」と。まことに、(これを)学ぶ方法とすべきである。
【解説】
口伝や相伝は、実は正しく伝えられるということがありません。これは、現実として正しいかどうかということではなくて、物語の「伝聞形式」という事態に関わってくるためです。「伝聞形式」とは「私は○○と聞いた」というように語られる言葉のことで、この方法で語られた言葉は、その語った主体に真実かどうかを証明する義務がないのです。ですから、何かの機会に聞いたことにして間違った教えが入ることもあるでしょうし、そういった事態が繰り返されると、本義から全く離れたことになってしまうのです。また、こういった口伝の現場では、声の大きい人とか、「あの人が言っていた」というような権威によって正確な内容が曲がることもあります。それへの批判だと見ることもできましょう。

・第13則
【訳文】
世間の学風を知るべきである。人は理を好んで言葉を立てるが、必ずしも同じだというのではない。だからこそ、世の学問の変化に通じて、そして仏の教えを学ぶ方法を知るべきである。
【解説】
読書法というような「文献学」であれば、なおさら世間の学風に通じてなくてはなりません。別に、経典読解という領域に限定されないからです。なお、関連して第15則も挙げておきます。
・第15則
【訳文】
その書を読むのに、必ず先にその当代の社会的状況について論じなくてはならない。(その書が書かれる)前の典籍であれば、参考にすることもあるだろうが、後の世の書籍は参考にすることができない。同じ時代の書籍は、依ったか依らないかについては備考とするべきである。義(の理解)がわずかに足らないのであれば、義をその前の時代の書籍を参考にして、読んでいる書の意義を曲げてはならない。義を末代の註釈書に依存してはならない。それでは本来の書から遠ざかってしまう。本来の書をもって、末代の註釈書の可否を断じていくほどでなくてはならない。いまだ、末代の註釈書の見解を断じずに、元の書を読もうとすることが、元の書の意義を曲げていることになるのである。
    傍線拙僧

【解説】
特に傍線部分については、やはり引用典籍の問題があると考えて良いと思います。思想的にも語法的にも、この辺には時間の不可逆性が適用されてしまいますので、当然に後の世のモノを前の代の人は読むことができません。ですから、思考実験というか、言葉遊びで、道元禅師が未来の○○という教えを先取りしていたということを推測するのは結構ですが、それは事実ではありません。この推測と事実とは明確に区分されるべきでしょう。

・第21則
【訳文】
不正な書、不正な義を研究すべきである。不正な義の極を究めなければ、正しい義の正しさを知ることはできない。誤りの極を究めなければ、誤ることがない正しい理解を知ることはない。いわゆる、不正の義は正しい義にとっての師であり、正しい義は不正の義にとっての師である。誤解は、誤ることがない見解の父であり、正しい理解は、誤解の子供である。要するに、善人ではない者は善人の師であり、善人は善人ではないの者で師である。前の車の轍は、後に続く車の参考にすべき道しるべである。だからこそ、必ず、不正の義に通じるべきなのだ。
【解説】
この辺は、異端と正統という問題に通じていくのですが、正統を知るには、やはり間違った考え方である異端を知るべきだとされていることです。中世のキリスト教教父哲学でアウグスチヌスが『神の国』で異端を論駁しながら、自らの見解を構築していたり、浄土真宗の覚如上人もやはり『改邪鈔』などで異端への批判を通じて真宗教学を打ち立てたことなどがあることからも、理解できるかと思います。しかし、これはまさしく「反面教師」と呼ばれる事態でありますが、反面であっても教師は教師、どのようにして活かすかという学ぶ者の意志によって一切が活かされるのであります。

【文章への批評】

さて、以上のように問答を見て来ましたが、戒定は同著にて、ただ読書作法を開陳しただけではなく、かつて存在した真言宗系の祖師の文章についても批評を加えています。現代でいうところの『文章作法』のような著作でもあったわけです。戒定は特に空海の文章を高く評価する一方で、その見地から他の祖師については辛口のコメントが多いようですが、近々このブログでもご登場いただく予定になっている覚鑁上人についても同じようです。

ことに、覚鑁上人は、文の素晴らしさは弘法大師には及ばないが、その優れた行いは弘法大師に多く劣るものではない。好んで「秘儀」という類の文章を書かれて、数百部に及んだ。文は見るに足らないけれども、その意義は(良く密教の宗意に)契っている。
    前掲書、820頁中段


正直、どの辺が足らないのかを書いて欲しかったのですが、それは示されてないです。他にも、東寺の教学を大成した「三宝」についての批評などもありますが、総じて高からず。拙僧などは多分に彼らが倭訓を用いて後進を指導したのは、それだけ漢文が難しかったから、理解せんと努力した結果だと思っているのですが、戒定はそれが気に入らないということでありますね。

【結論に代えて】

昨今では、やはり上記の戒定のような立場が重んじられ、漢文は中国語の文法や表現を基本に学ぶようになっております。まぁ、拙僧などはどちらかといえば倭訓された時代の文献に触れる機会が多いので、それほど語学的な能力を必要とする分野でもないんですけれども、完全に無縁でもいられません。

その意味では、戒定の立場は現在の仏教学を先取りするような方法論を提供したということで、評価されるべきなのかもしれません。なお、江戸時代の儒学者にも何人かは中国の文法で内容を把握するべきだと主張したような方もいました。例えば伊藤仁斎が提唱した古義学はそれに該当すると見られるでしょうし、荻生徂徠なんかも古代中国の古典を読み解く方法論として古文辞学を確立しましたから、結局は当時の日本最先端の学問的傾向が戒定のような立場を生んだとも見られます。

しかも、そういった語学的問題のみならず戒定の文章を見てきたように、思想的内容についても重要な提言がありますので、どうぞご参考にしていただければと思います。しかし、夙に思うのは、倭訓の文章を非難したこの文章自体が、倭訓しかできない者にも読めるように、非常に平易に書かれていることでしょうか。。。

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2 コメント

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いつもありがとうございます (MEMORIZERS管理人)
2006-06-10 09:54:15
いつもご投稿ありがとうございます。MEMORIZERS管理人です。

宗教だけでなく、いろいろなことに役に立ちそうな、とても興味深い教えですね。みっちりと参考にさせていただきます。これからもよろしくお願い致します。

コメントありがとうございます (tenjin95)
2006-06-10 15:33:26
> MEMORIZERS管理人 さん



こちらこそ、色々とありがとうございます。

あまり目的もなくただ書いているログですが、皆さまに少しでも役に立ったのであれば幸いです。

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